「………うん、行こうか」



リクが優しい声で私の耳許に囁く。


それだけで私の心も身体もとろとろにほどけて、悲しいことも嫌なことも、全部どこかにいってしまった。


私の目に映るのは、もう、リクだけ。

私の頭の中にあるのは、もう、美しい楽園の空想だけ。


他のものは何ひとつ見えないし、他のことはもう何も考えられない。



「エデンに行こう。今度こそ、ほんもののエデンに」



私はリクにしがみつきながら言った。


リクは私を抱き上げ、



「そうだ、ほんもののエデンに行くんだよ」



と微笑んだ。



「誰にも見つからないくらい遠い楽園だ。生命の樹と果樹が生い茂る、夢のように美しい楽園だ」


「うん、素敵」



私たちは駅に行き、適当な切符を買って、いちばん人の少ない適当な電車に乗った。


二人並んで座る。


窓の外を見ているリクの肩に頭をのせて、私は目を閉じる。



「ねえ、リク。楽園はどこにあるの?」



リクは頬杖をついて微笑みながら、「そうだなあ」と呟く。



「黒い黒い海を越えて、白い白い靄を越えて、そしたら、赤い赤い蜃気楼が見えるんだ」


「うん」


「その向こうに、ほんもののエデンはあるんだよ」


「うん。きっとそうだね」



目を閉じて思い描く、真っ黒な海と真っ白な靄と、そして真っ赤な蜃気楼。



「ねえ、ほんもののエデンは、どんなところかな………」


「そうだな………」



リクも夢を見るように目を閉じる。



「きっと………太陽の光を受けてきらきらと輝く宝石のような綺麗なせせらぎが流れているよ」



瞼の裏に、美しい小川の映像が浮かんだ。

水面で複雑に陽光を反射させ、屈折させ、あたりを真っ白な光で満たす川。


その水はびっくりするほど透明で清らかで、触れると冷たくて、口に含むとほんのり甘くて、飲み干してしまいたいくらい美味しいのだ。



「………ああ、素敵。ほんもののエデンでは、お腹が空いたら果物を食べて、喉が渇いたら川の水を飲めばいいんだね」


「そうだよ。その小川の周りには、たくさんの植物が生えている。目が覚めるほど鮮やかな緑の水草と、そして、そこらじゅうに真っ赤な花が咲き乱れているんだ」



エデンの地を埋めつくす、燃えるように真っ赤な、夕陽のように真っ赤な、―――血のように真っ赤な花たち。


なんだか、怖くなった。


私はリクに抱きつき、その首筋に頬を寄せ、リクの真似をして窓の外をじっと見つめる。



窓硝子の向こうをおそろしい速さで通りすぎていく街の景色。


私たちが暮らした街。


どんどん、どんどん遠くへ、離れていってしまう。


消えていってしまう。



馴れ親しんだ街は、もう手に入らない。


もう私のものではない。



あの街を私たちは捨てた。


あの街も私たちを捨てる。



こわい、と私は呟いた。



生まれ育った土地から離れて、たった二人きりで生きていく。



ずっと憧れていたはずなのに、唐突にこわくなった。


新しい土地は真っ赤な恐ろしいものに溢れているのかもしれない。


そこで私たちはちゃんと生きていけるのだろうか。



こわいよ、リク。

かえりたいよ、リク。

あの部屋に、かえりたい。



リクは小さく笑って私の頭をなでる。



「あいかわらず怖がりだな、ウミは。小さい頃と変わらない」


「だって、知らないものは、こわいもの。私のものじゃないものは、こわいもの」


「じゃあ、また、名前をつけよう。新しいところに行ったら、また名前をつけよう。そしたらそこはもうウミのものだろう?」


「………うん」



リクは優しく微笑み、コートのポケットに手を差し込んだ。


モスグリーンの布地の隙間から顔を出したのは、鮮やかな真紅の林檎。



かじりつくと、唇の端から果汁がこぼれた。


リクの手がすっと伸びてきて、人差し指と親指が私の唇をなぞる。



「………もう、帰れない」



その指についた甘い果汁を真っ赤な舌で舐めとり、リクがぽつりと言った。



「ウミ、もう二度と、もとには戻れないんだよ………僕たちは。知恵の実を食べてしまったから。知ってしまったから………」



そっか、と私はつぶやいた。


窓の外を流れる景色は、いつの間にか日が落ちて赤みを増していた。



焼け焦げたような夕焼け空。

激しい炎のように真っ赤な陽射しを受けて、ビルも家も、アスファルトもコンクリートも、煉瓦の小道も、店の看板も道路の標識も、街路樹も路傍の花も、なにもかもが赤く燃えている。


真っ赤な世界。


私は大きく目を見開き、瞬きすらせずに、赤に染まった世界をじっと見つめつづける。



しゃく、とリクが林檎を噛む軽やかな音が、耳朶をかすった。



そのとき、視界の端にちろりと動く黒い影が見えた気がした。


目を向けると、窓枠の線に沿うように、ひっそりと息をひそめる、一匹の黒い蛇がいた。



私は息をのんでその禍々しい生き物を見つめる。


黒い染みのような蛇は身じろぎ一つせず、ただ、真っ赤な舌をちろちろとうごめかしていた。



「もう、ここにはいられない。出ていかなくちゃいけない。知恵の実を、禁断の果実を食べてしまった罪深き人間は………」



リクがぼんやりとつぶやく。


黒蛇がにたりと笑った。



―――そうだよ、もうエデンにはいられない。お前たちは楽園から追い出されるのさ。知恵の樹の実を食べてしまったのだからね。



赤い糸のような舌が、ちろりとこちらに伸びてくる。



―――それでもお前たちは、禁断の果実を食べずにはいられないのだろう?

だって、その実は、震えがくるほどに甘くて美味しいのだから………。




私は黙って窓を押し上げ、黒蛇を指先でぴん、と弾いた。


黒蛇は真紅の舌をちろちろと動かしながら、風に乗ってどこかへ消えていった。



ばいばい、悪魔。


私は小さく笑って手を振る。



あなたに誘惑されなくたって、私とリクは、欲望に勝てない。


罪だと分かっていても、世間から許されないと分かっていても、私たちは禁断の果実が放つ甘美な罪の香りに酔って、きっと何度でも食べてしまう。


そして、歓喜の美味に囚われて、溺れて、もうその誘惑からは逃れられない。



いいの、それでも。


罪だろうと悪だろうと過ちだろうと、もう二度とやめられないし、戻れない。



「…………」



私は窓を閉め、リクに向き直った。



「………リク。もうひとくち、私も………」



林檎をつかむリクの手首を握り、私は林檎の香りがするリクの唇を味わう。



「………おいしい。もっと」



リクが私の頭を抱えて、くちづけを深めた。



頭の中は、熱くて真っ赤だ。

なにも考えられない。



触れ合った部分はどんどん溶けて、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、どちらがどちらだか分からなくなる。


どうしてこんなふうに一つになっちゃうんだろう、と何度も思った。



でも、やっと答えが分かったよ、リク。


きっと、血のせいだよ。

私とリクの血はおんなじだから、だからこんなにも溶け合うんだ。



他の誰よりも、私とリクは、おんなじなんだ。


この皮膚の下を流れる血が、

真っ赤な罪悪の果実とおんなじ色の、血が、


あなたを求めてやまないの。



だから、もう、どうしようもない………。






*Fin...



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