「や…」
視線の先、林太郎の向こうに伸二さんがいるのを見た時。
その髪の毛と瞳が、虹色の光沢に包まれているのを見た時。
全身が震えだした。
「あっちゃん…?」
とっさに、林太郎から距離を置こうと思った。
最期に姿を消す猫の気持ちが、わかった気がした。
伸二さんが、ゆっくりと近づいてくる。
それに従って、静電気のような、目に見えない何かが、ぞろりと身体をなでた。
カタカタと、歯が鳴った。
風も空気も、ひっそりと流れをとめたような景色の中、伸二さんはまっすぐに、私のそばまで来る。
「伸二さん…」
「わかっている」
「私、今は、まだ」
「わかっている、今、“散らす”」
奇妙にエコーがかかった彼の声は、何かに耐えているように、強張っている。
来るぞ、と伸二さんが食いしばった歯の間から言った。
その姿がゆらめいて、すべてを飲み込みそうな漆黒と、それを覆う七色の輝きが、一段と存在感を増す。
ドン、と心臓が、身体を内側から破裂させようとしているみたいに、ふくらんだ。
ドン、ドン、と続けざまに肋骨を殴られ、そのたび、血が激流となって身体中を駆けめぐる。
頭の中から指の先まで、細胞のひとつひとつを無理矢理こじ開けられるような激痛に、身を折った。
耐えろ、と伸二さんの声がした。
それはもう、声というより、意識の交感という感じだった。
──耐えろ
──苦しいです…
──それはきみの魂が、まだだと叫んでいるからだ、その叫びを手放すな、肉体の痛みに屈するな
無茶言わないでよ、と遠のく意識の中、ぼやきが漏れる。
文字どおり、死ぬほど痛い。
シャレにもなっていない。
伸二さんの姿は、もうほとんどまばゆい光の塊と化していて見えない。
だけど感じる。
彼も今、ものすごい苦しみと戦っている。
──ぐ…
──伸二さん
──……、…
ついに彼の言葉が、聞き取れなくなった。
翻訳システムを通す余裕すら、なくなったのか。
視界も耳も、白い光に侵食されて、何も感じない。
うっすらと、手首をつかまれている感覚だけがある。
林太郎、そこにいる?
ごめん、もしかしたら私。
私。
「気を抜くな、“返る”ぞ!」
その声に、はっとした。
四肢が突然、自由になっているのを感じる。
目も、耳も機能している。
髪をなぶる風の流れ、夕暮れの湖と、設営の槌の音。
それと同時に、飛び込んできたのは。
苦しげに咳き込んで、真っ赤な血を吐く、林太郎の姿。
しまった、と伸二さんの声がした。
「林太郎!」
ぐらりと傾いだ身体を受けとめようと、思わず両手を差し出した。
その手に、赤いぬるぬるした塊が滴って、林太郎の喉から、胸を斜めに横切って口を開けている、無惨な傷を見た。
流れ出る血が、私の制服と手を、真っ赤に温める。
林太郎は、私の手をかすめて、草の上に倒れた。
血が脈打つように、地面に溢れ出ていく。
これじゃ、なくなっちゃう、ととっさにその血をせきとめようとして、自分がどれだけバカなことをしているか気がついた。
「林太郎、林太郎」
「すまない、彼を遠ざけようとしたんだが、どうしても手を離さなかった」
伸二さんが林太郎の身体に手をやって、顔をしかめる。
「伸二さん、治せないの」
「無理だ、この人間にそこまでの干渉は、俺はできない」
「なら林太郎、どうなっちゃうの」
林太郎の、真っ赤なシャツにしがみつく私の手も、信じられないくらいの赤さでべとべとだ。
その時、うしろから肩を引かれた。
「あっちゃん、どいてな!」
真っ白な衣服の人影が、まるで林太郎を迎えに来たようで、一瞬緊張する。
神輿役の白装束に身を包んだ猪上さんだった。
担架を持った、救急隊員らしき人をつれている。
「あ…」
「今すぐ運んでやるからな、何があったんだ?」
「わ、わか、わかんない」
私は、安心したのか、この傷が人の手当てでどうにかなるものなのかわからない不安からか、気がつくと泣きじゃくっていた。
大丈夫ですから、と救急隊員が言ってくれるのにも、なんの反応もできず、立ちすくむ。
担架に乗せられながら、林太郎のシャツが手早く切られた。
傷も見えないくらい溢れる血に、ひっと喉が鳴った。
その時、だらんと投げ出されていた林太郎の手が、かすかに動いた。
「林太郎!」
駆け寄ると、応じるように林太郎が、目を開ける。
「あっちゃん…」
「林太郎、ごめん、ごめんね」
「…何がやの…?」
動きますよ、と隊員さんが担架を持ち上げた。
いつの間にか控えていたストレッチャーに乗せられる間にも、血がシートからこぼれて、地面に赤い染みをつくる。
氏名は、年齢は、住所は。
訊かれるままに答えながら、いいから早くして、と祈った。
「血液型は」
「Aで」
Oや、と林太郎の消え入りそうな声が遮った。
「何言ってんの、あんた、A型じゃん」
横を走りながらのぞきこむ私を、ぼんやりと見つめ返して、それすら耐えがたそうに、ゆっくりと目を閉じる。
「僕は、O型や」
「林太郎」
「大丈夫ですよ、調べますから」
隊員さんは、私も車に乗るかと勧めてくれた。
首を振った。
私がそばにいたら、また林太郎に何か、降りかかる気がしたからだ。
日常を壊すものだと思っていたサイレンが、初めて頼もしい味方に思えた。
涙を腕で拭いたら、乾きかけていた血がぬるりと滑った。
その血すら、抱きしめたかった。
林太郎、助かって。
助かって。
見あげた空に、月はなかった。
新月のはずはないから、どこかに隠れてるんだろう。
ドアがノックされて、母が入ってきた。
「甘いミルク、飲む?」
「ありがとう」
大きなグラスにたっぷり注がれたミルクは、メープルシロップの優しい香りがする。
窓の外をぼんやり眺めながらすする私を、母がうしろからそっと抱きしめた。
「大丈夫、山王さまの病院、いいお医者さまばかりだもの」
「ん…」
情けなかった。
私は、この世界にたいした執着もないような顔をして、いざその時が来たら、少しも受け入れられなかったのだ。
"返し"とは、無理やり"散らし"たひずみのようなものだと伸二さんは言った。
私みたいに、若くて健康な肉体が消滅するには、それなりに莫大なエネルギーが発生するらしい。
『何を泣いている』
そう言う伸二さんの顔は蒼ざめて、姿も不安定に明滅していた。
こんなに消耗するものなのかと戦慄した。
彼がここまでしてくれなかったら、今頃、私は。
『ごめんなさい』
『なぜ謝る』
『私、いつでもいいような気でいて、全然覚悟できてなかった』
『そういうものだ』
『でも、そのせいで伸二さんも、林太郎も』
『あの少年については、俺に責任がある』
普通は返ってきても、障りのないものに、たとえば家具とか家電とか、に"うつす"らしい。
けれどなぜか林太郎は、そのほとんどを、身体で受けてしまったんだそうだ。
『それは、私と林太郎が"近い"から、とかですか』
『きみと彼が、"近い"?』
『新!』
悲鳴のような声は、智弥子だった。
月のいぬ間に、と狙ったみたいに、星がいっせいにまたたきはじめた。
帰ってからシャワーで流した林太郎の血は、バスルームの床を真っ赤に染めた。
私のせいだ。
これで本当に江竜新が終わると思ったら、欲が出た。
「連絡が来たら起こしてあげるから、休みなさい」
首を振る私に、母は微笑んで、空になったグラスを持って出ていった。
そう、欲が出た。
もう少しこの生活にしがみついて、人と関わっていたいと思った。
耐えられなかったからだ。
私がいなくなっても、世界は変わらず回っていくんだと、認めることに。
どういうこと?
病室のベッドを見おろす自分が、しかめつらになっていくのがわかる。
猪上さんから、もう会えると電話をもらって駆けつけてみれば。
林太郎は、寝ていた。
いや、あの傷なら寝ていて当然なんだけど、どうも変だ。
身体を横向けて、薄い布団を巻きこむみたいに手足で抱えて、こんな場所には不釣り合いなくらい健康的な雰囲気を醸し出している。
顔色も普通だ。
かがんで確かめると、気持ちよさそうな寝息が、すうすうと聞こえてきた。
どういうわけよ?
学校もサボって来たってのに。
無性に腹が立って、その頭を叩いた。
「いたっ!」
林太郎が跳ね起きる。
寝ぼけ眼が私を見つけて、大きく見開かれた。
「あっちゃん」
「あんた、どういうことよ、傷は」
「わあっ、やめ」
簡素な浴衣みたいな入院着の紐をほどくと、林太郎が慌てて前をかきあわせる。
「やめてや、僕この下、なんも着てえんで」
「パンツ履いてんじゃん、うるさいな」
嫌がるのを無理やり剥いた。
綺麗な身体に、あの毒々しい傷は、見当たらなかった。
胸を斜めに横切る浅い傷が、申し訳程度の蝶々型のテープで貼りあわせてある。
それだってどう見ても、もう治りかけの傷だ。
ただでさえ布きれみたいな入院着を剥がれて、半裸状態の林太郎が、居心地悪そうにもじもじする。
「…傷は?」
「わからんのや、いっぱい血、出た気したんやけど」
「溢れてたよ実際」
「やがのお、不思議やねえ」
のんきに首をかしげる林太郎を見て、ぴんと来た。
テンの仕業だ。
こんなことできるの、死神だけだ。
「もうこれ、着ていい?」
「いつ帰れるの」
「あと一回検査してなんもなかったら、帰っていいって」
「そう」
気が抜けて、ベッドに腰を下ろした。
入院着を引き上げながら、林太郎がのぞきこんでくる。
「心配してくれた?」
「当たり前じゃん、目の前であんなぼたぼた血流されて」
「あっちゃんは安心すると、不機嫌になるがの」
昔からそうやがの、と楽しそうに笑う。
「何それ」
「僕、できんのにあっちゃんの真似して、熱出したり怪我したりしてたが、あっちゃんいっつも泣きそうな顔で心配してくれた」
「責任感じてたんじゃない?」
「ほんでちょっと治ってくると、急に怒りだすんや、あんたバカでしょって、変わらんね」
バカでしょ、と言いかけて、危ういところでやめた。
何へらへら笑ってるんだよ、バカ。
あんた死にかけたんだよ、バカ。
「林太郎だって、たいして変わってないでしょ」
「嘘やあ、全然違うが、僕もう風邪もひかんで」
「よく言うよ」
こんな怪我しといて、というつもりで、林太郎の前襟に指をかけて、胸が見えるようちょっと割った。
別になんの他意もない行動だったんだけど、脇の紐を結んでいる最中だった林太郎が、びっくりしたように手を止めて、私を見たので。
私は何か、とんでもないことをしてしまったような気になった。
「か、変わってないよ、頼りなくて」
動揺したのを隠したくて、思わず口から出た憎まれ口に、林太郎は残念そうに、えーとつぶやく。
「それは僕やなくて、あっちゃんが、自分をわかってえんのやって」
「どういう意味?」
「女の子やって意味や」
急に腕をつかまれて、引っ張られるまま、顔から布団に突っ込んだ。
何すんのよ! と起きあがろうとしたところを、くるっと仰向けに引っくり返され、言葉を失う。
私の肩を押さえつけて、自由を奪ってから、林太郎が、ほらの、と満足げに見おろしてきた。
「あっちゃんはもう、僕の前を走るなんて、できんで」
「林…」
「力かって、僕に勝てん」
わかる? とにこにこする、育ちのよさそうな顔に、私の心の中を気づかせるわけにはいかなかった。
痛いくらい鳴っている、この心臓の音を聞かせるわけには。
「林ちゃん、何やってる!」
「わあっ」
急に林太郎が倒れかかってきた。
突き飛ばされたみたいに、勢いよく覆いかぶさってきたので、苦しくて思わずむせる。
林太郎は、ぱっと身体を離して、ごめんと赤い顔で謝った。
「大丈夫やった、あっちゃん」
「何が大丈夫だ、入院したってのに、悪さする元気はあんのか!」
背後では猪上さんが、湯気が出そうなほど怒って、拳骨を振りあげている。
振り返った林太郎は、一瞬ぽかんとし、そのあとさらに真っ赤になった。
「誤解や、僕、ほんなつもりやない」
「みんなそう言うんだ」
「誤解やって!」
悲鳴みたいな声をあげる。
「僕はただ、わからせてあげよかなって思って」
「腕にもの言わせてか」
「ほやない、僕のほうが強いでって、見せただけや」
「そんなの当たり前だ、女の子になんてことする!」
「いた!」
ガツンと頭をやられて、林太郎が首をすくめた。
途方に暮れた涙目で私を見る。
「のぉ誤解やがの、あっちゃんも何か言ってや」
私はなぜか、何も言えず。
気づいたら、病室を飛び出していた。
当たり前だ。
当たり前だ、林太郎のほうがずっと強いのなんて。
でもそんなの、いつか気づくんでよかった。
いつか自然と、ああやっぱり林太郎も男の子なんだなって、実感する時が来る、それでよかったのに。
林太郎は待ってくれないんだね。
いきなりの突風が顔を打った。
山道を駆け下りていた私は、それがまるで、誰かに怒られたみたいに感じた。
違うだろ、逃げるな。
もう、“いつか”なんて、来ないんだ。
そう叱責されたみたいに。
汗だくになって玄関に飛びこむと、お母さんはいなかった。
炎天下、水分もとらずに走りっぱなしだったせいか、視界がぐるぐると回って立っていられず、廊下に横たわって丸まった。
吐き気がする。
ゴロゴロ、とどこからか2リットル入りのペットボトルが転がってきた。
震える手でふたを開け、よろよろと持ちあげてあおる。
スポーツドリンクの甘ったるさが、身体の隅々まで行き渡って、潤していくのがわかった。
「伸二さん」
「礼は遠慮する」
「こういう時は、できたら500ミリのほうが」
「文句か」
「私、今日は大丈夫ですかね」
ふっと下駄箱の上に伸二さんが現れた。
いつもの白いTシャツとジーンズで、腰かけている。
「おそらく、だが確証はない」
「伸二さんたちにもわからないまま、いきなりって、あるんですか」
「昨日が、まさにそうだ、彼はあのまま魂を回収されてもおかしくなかった」
「テンにお礼を言わなきゃ」
「奴は今、あの病院だ」
「村長が危ないんですか」
「いや、ふたりで話をしている」
遠くの音に耳をすますように、伸二さんは目を伏せて、動きをとめた。
なんのですか、と小声で尋ねると、じっと間を置いて。
「“トワ”のだ」
その名前を、すごく大事なもののように口にした。
「何」
「ほんな怒らんくてもいいが」
「安心してるんだよ」
林太郎は疑わしげに、ほうなん? と眉をひそめる。
午後になってようやく退院できたらしく、すぐにうちを訪ねてきたのだ。
「嘘だけど」
「機嫌悪いのぉ」
誰のせいだよ、と毒づくと、林太郎がしゅんとした。
「やっぱり僕のせいけ」
「別に」
「朝、ごめんの、どっか痛くせんかった?」
たたきに行儀よく立ったまま、顔をくもらせて、とんちんかんに謝る。
「上がれば?」
「いいの?」
お邪魔します、と靴を脱ぐ時、背の高い姿がかがんで、意外に長いまつげが見えた。
「今日は学校、行かんかったん?」
「なんかめんどくさくなっちゃって」
「病院来てくれたでやがの、ごめん」
「いや、行こうと思えば行けたし」
リビングの座布団に座って、私の出したアイスティを飲みながら、ほか、と林太郎がうなずいた。
「たまに、そんな日あるがの、学校行かんで得したような、なんか逃したような、不思議な気持ちになるがの」
「あんたもサボったりするんだ?」
「するよ、たまーにやけど」
恥ずかしそうに笑う。
明るいブルーの、夏らしいシャツ。
平日の昼下がり、こんな時間に届いてくる村の音は、やけに静かでよそよそしい。
窓の外の、陽射しが強すぎて白く飛んだ空を眺めていたら、林太郎の視線に気づいた。
「明日の予定、決まった?」