おじさんは、ちらっと片手を振ったあと、警察に伝わらないように、口だけ動かして、メッセージをくれた。
ありがとよ、姉ちゃん。
そう言ってた。
「水のことですかね、それとも林太郎と私が、とめなかったことですかね、でもとめてたら、おじさんは捕まったりしなかったと思いませんか」
「きみが何を言っているのか、いまいち理解できない」
「伸二さんならわかるでしょ、先輩の彼は助かるんですか。おじさんの娘さんをだました詐欺師は、この世から消えてくれますか」
私は、どっちを望んでるんですかね。
どっちを望めばいいんですかね。
なんで私にあんなもの見せたんですか。
別に、見なくて済んだはずだ、あんな悲しく醜いもの。
林太郎とふたり、おじさんはどうなったんだろうねって、言いながら終わっても、よかったはずだ。
先輩にもう一度会いたかったなあって思いながら終わっても、よかったはずだ。
「もうすぐ死ぬって時に、なんでわざわざこんなもの見なきゃならないんですか」
「俺は無関係だ」
「なんですかそれ、関係ないから遊んでみたってこと?」
「誤解だ、俺は何もしていない」
「他に誰が、あんなことできるっていうんですか!」
「あっちゃん!」
聞きなれた呼び声に、混乱した。
林太郎は息せききって、乗ってきた自転車から飛び降りると、砂利の上にそれが倒れるのも構わず、駆け寄ってくる。
「え、林太郎、なんで」
「なんでも何もないが、いきなり電話切っといて、心配したらあかんの」
そんなことしたっけ、と記憶を探る間もなく、林太郎は私の腕をつかんで、全身をチェックするみたいに見た。
無事だと確認したところで、手の傷に気がついたらしく、きれいな眉をひそめる。
「傷口、腫れてるで」
「あ、ちょっとばい菌入ったかも、それよりさ、私、今大事な話、してて」
「話って」
誰とや、と言われ、しまったと目を泳がせた。
思ったより頭に血がのぼっていた。
「えーと、勘違い…」
「どうしたん、しっかりしてや」
「とにかく、先帰っててよ、私は大丈夫だから…」
言い終える前に、竜巻みたいな突風が吹いた。
わっ、と声をあげた林太郎が、巻きあがる小石から私を守るために、ぎゅっと頭を抱えこんでくれる。
ぴしぴしと手足を打つ砂利がおさまった頃、おそるおそる顔を上げると、目の前に知らない人がいた。
ちょっとぎょっとするくらい近くに立っていたので、最初はその人の黒い服しか見えなかった。
見あげて、あ、と悟った。
この人。
「死神は、この世から去る時、ヒトが最後に関わる存在だ」
首筋を流れて、肩に届くくらいの、長い黒髪。
遥か高みから見おろしてくる、真っ黒な瞳。
「あ…」
「できそこないをあてがわれるとは、かわいそうに」
人形みたいに整った顔が、にたりと笑う。
突然、それが苦悶の表情に変わった。
忌々しげに振り返った先では、伸二さんがパリパリと、静電気みたいなものを身体中から発している。
「誰ができそこないだと」
「お前だよ、哀れな囚人、今はなんて名前だ?」
「伸二だ」
つっけんどんな返事があった瞬間、ふたりの間で、見えない何かが、ぶつかりあって弾けたような気配がした。
伸二さんの髪と瞳は、ゆらゆらと七色に変化する光沢を放っている。
「オレはテンだ」
「欧米かぶれか」
「10号ってな、当て字に苦労する数字なんだよ、先代も確か、よくわからん名前を名乗ってたぜ」
「担当外の人間に関わるとは、どういうことだ」
だってよお、と“テン”は悪びれずに肩をすくめた。
この暑いのに、真っ黒なシャツとパンツ。
細身のボトムを黒いブーツに入れて、ぱっと見、ロックな人みたいだ。
「お前のこと、嫌いなんだもん」
「お前に嫌われる謂れはないが、そう来るなら、俺もお前が嫌いだ」
「サンキュー、そーいう素直なとこは、嫌いじゃないぜ」
うあ、と伸二さんが頭を抱えて、崩れ落ちかける。
私は、テンと名乗るこの死神が、平然としていることに驚いた。
“ありがとう”が弱点なのは、死神そのものの性質では、なかったのか。
「おっと、無理すんなよ、お前の身体には、“枷”がはまったままなんだからさ」
「お前が何を言っているのか、わからん…」
よほど心のこもった“サンキュー”だったらしく、伸二さんのダメージは大きそうだ。
ふらついたところを支えられ、悔しそうにそれを払いのけて、でもまだふらふら揺れている。
「とにかく、仕事の妨害を、するな」
「そりゃないだろ、心配してやってんだぜ、こーんな」
テンは伸二さんの額の真ん中に、長い爪を立てた。
「いじくられた脳ミソで、まともに働けんのかねえって」
伸二さんは、言葉もない様子で、愕然としていた。
日頃、不敵で傍若無人な彼のそんな姿は、痛々しくて見ていられない。
そんな中、肩をぐいと引き寄せられて、はっとした。
そうだ、林太郎。
いけない、私、変なこと口走らなかっただろうか。
ええと、とどうとりつくろうか考えた時。
「あんた、誰や」
林太郎が、固い声で言った。
守るように肩を抱く手から、緊張が伝わってくる。
えっ。
林太郎は、まっすぐテンを見て、誰や、とまた言った。
伸二さんのことは──見えていないらしい。
えっ。
テンは、にいと笑った。
伸二さんは、まだ呆然としていた。
私はといえば、震えが足のほうから上がってくるのを、どこかでとめようと必死になっていた。
林太郎、なんでこの人のこと、見えてるの。
それって。
それって…。
「ちょっとお…」
自分のぼやきすら、豪雨の音に紛れて聞こえない。
たいして広くもない我が家の前庭は、完全に水没し、茶色の池と化していた。
「まさかと思うけど、伸二さんの仕業じゃないですよね」
だいぶ経って、どこからか、ぽつんと声がする。
「違う」
「激しめの涙雨ってやつかと」
返事はない。
ため息をひとつついて、窓際からベッドに戻ろうとしたところに、母が入ってきた。
「寝てなきゃダメじゃない、熱上がるわよ」
「だって雨すごいんだもん、久しぶりじゃん、こんなの」
「そうねえ、あーちゃんが学校行ってたら心配だったわ、よかった、お休みで」
窓の外を見ながら、持ってきたトレイを机に置く。
その上では、土鍋が湯気を吹いていた。
「川が切れないといいわねえ」
「山のほうで長引かなければ、大丈夫じゃない? 天気予報も、週末は晴れるって言ってる」
「よかった、お祭もあるものね」
微笑んで、母がカーテンを少し閉める。
さすがに懲りたのか、一晩の入院から戻って以来、一滴もお酒を飲んでいないはずだ。
その顔には生気が宿り、美しい。
「こう雨がひどいと、村長の家も、見えないね」
母の返事が、一瞬遅れたように思えたのは、気のせいだったんだろうか。
小椀におかゆを盛った母は、はい、とベッドに入った私にそれを渡すと、にっこりした。
「そうねえ」
ごめん、探るような真似して。
ひとりになってから、心の中で謝った。
母の頭がまともなうちに、できたら訊きたかった。
なんで産んだの?
なんで誰かと結婚しなかったの?
村長をどう思ってるの?
父親が誰だか教えてくれなかったのは、口止めされてるから?
おかゆは懐かしい味がした。
私の料理は、母のごはんがベースになっているので、基本的には同じ味だと思っていたんだけど。
やっぱり母の味は、母の味だ。
どうして、よりによってこのタイミングで、しゃっきりしてしまったんだろう。
母が前後不覚に陥っている間に消えるのなら、ありかと思っていたのに。
あれじゃ真正面から、娘を失う痛みに向き合うことになる。
あの母に、そんなの耐えられるだろうか。
『新いないとつまんないよー、具合どう?』
「元気、単に傷が化膿して熱出ただけだから」
『傷って何よ』
擦りむいたの、と嘘ではない報告をすると、智弥子が怪訝そうな相槌を打つ。
そういえばさ、と言うそばで、スナック菓子らしい軽い音がした。
『林太郎も今日、休んでるらしいよ』
「さりげなくノロケるのやめてくださいよ」
『うるさいな、たまたまメールしてたの』
あっそう、と遠藤くんとの仲のよさを冷やかしながら、林太郎のことを思った。
林太郎は、テンに会ったことを忘れている。
──あんた、誰や。
誰何した林太郎に、テンはにやにやしながら、おっと、と手を伸ばした。
『まだお前に見られる予定じゃ、なかったんだ』
『何言っ──』
長い爪と林太郎の額の間で、パチ、とかすかな音がした。
たったそれだけで、林太郎は数分間の記憶をなくし、テンのことも見えなくなっていた。
巻き戻しがかかったみたいに、話すって誰とや、と林太郎が言った時。
私は今更ながら、死神というものが、人知を越えた、得体の知れない生き物であることを実感した。
▼
"頑張れ、受験生!"
青年は、カフェオレのカップのスリーブに書かれた店員からのメッセージに気づいて、ふっと笑った。
周りに人がいないことを確認する、気の小ささを示す仕草。
「粋だって言ってほしいわけ?」
そんな孤独な独り言が、トワまで届く。
だいたい俺、受験生だけど高校生じゃないし。
去年、この店ができる前から受験生してるし。
いい加減、頑張るとかそういう次元じゃないところまで来てるし。
身を守りたくて吐き出される言葉が、全部彼自身に跳ね返って、傷をつくっていくのを、トワは見守った。
悲しい連鎖。
何もかもが、自分にとって有害に思えるのだ。
人が与えてくれた蜜まで、毒に見えるのだ。
(飲んでみればいいのに)
トワは思った。
飲みこんでみれば、それはとても温かい、毒とは似ても似つかないものだって、わかるのに。
青年は、予備校へ行く前の日課である1時間弱の勉強を始め、時間どおり終え、席を立った。
ダストボックスでは、ちょうど中身の入れ替えが行われているところだった。
作業中の店員が、あ、と顔を上げる。
先ほど、青年にカフェオレを渡した、小柄な学生の、女性の店員だ。
「お預かりします、行ってらっしゃい」
にこりと微笑みかけ、手を差し出される。
青年は、空になったカップを突き出そうとして、はっとためらった。
たぶん、ヒトからしたら、そこそこ長い間が経過した。
トワがちょっとあくびをする程度の時間はあった。
やがて青年の手が、カップからスリーブを外し、それをコートのポケットにしまう。
カップを受け取った店員は、嬉しそうに笑った。
「…ありがとうございます、行ってきます」
またどうぞ、と店員が言う間に、青年は店を飛び出して、向かいの校舎に全力疾走だ。
トワには聞こえていた。
トクトク、トクトク。
ふたりぶんの音。
トクトクトク。
この音がしはじめると、トワは眠くなるのだ。
だってこの先、しばらくの間、自分とお互いのことで手一杯で、世界なんてまったく目に入らなくなるふたりが生まれたってことだから。
トワにはわからない気持ち。
でも好きだ。
とろっと甘くてたまに酸っぱい、ふたりだけの世界。
ふふ、とトワは思わず身をよじって笑った。
身体の中に飛びこんできたものが、あまりにくすぐったくて、むずがゆかったから。
▲
「あれ…?」
誰も出ない。
林太郎の家の玄関で、もう一度呼び鈴を押した。
広いお屋敷に、むなしく響きわたるチャイムが聞こえる。
首をひねった。
林太郎は寝込んでいるとしても、だったらなおさら、お手伝いさんがいるはずなのに。
鍵がかかっているということは、もしかして、誰もいないんだろうか。
「まさか、病院行くほど具合悪いってことは…」
お見舞いにと持ってきた梨の袋を提げたまま、林太郎に電話をしてみるも、電源が入っていないか電波の届かない場所にいるとあしらわれる。
オフしてるのか圏外なのかくらい、教えてくれたっていいだろ、とつまらないことに腹を立てながら引き返そうとした時。
目の高さに、黒いブーツが映った。
「ほんとに、林太郎がこっちにいるわけ?」
「疑り深えなあ、オレたちは嘘つくようにはできてねえんだよ、あんな無駄なことすんのは、人間だけだ」
「無駄なばかりじゃ、ないんだよ、っと」
ぬかるみに長靴をとられそうになった。
半歩戻って引っこ抜き、また粛々と坂道を登る。
道の両端には、母が落ちた側溝が、ゴボゴボと濁流を溢れさせている。
その苦しげな様に、伸二さんがどうしているのか、ふと気になった。
「伸二さんとは、仕事仲間?」
「ま、同僚だな」
「なんであなたは、私にも見えるの」
少し先を、いるようないないような、うっすらとした存在感で漂っていたテンの姿が、鮮明になる。
「対象と“近い”とな、照準がそいつにも合っちまうことが、あるんだ」
「霊感強い人のそばにいると見ちゃう、みたいな感じかな」
「あんな処理ミスの結果と一緒にされたくないがなあ」
「処理ミス?」
テンは地表に足をつけると、蒸し暑い土砂降りの中を涼しげな顔で歩きだした。
「霊ってのは、オレたちがまあ、運び損ねた魂だ。予定が急すぎて配置が間に合わなかったり、担当が未熟で、途中で落としちまったり」
「魂って、落とすものなの」
「お前なあ、こうして一対一で担当がつく時点で、けっこう大変な仕事なんだって、認識しろよ、腕だっているんだからな」
はあ、と久々に世界観のギャップに言葉を失う。
そういえば伸二さんも、腕の劣るほうじゃないとかなんとか、言ってたっけ。
「時にはオレらだって、命懸けでやるんだぜ」
テンは、ひょろっと細くて背が高い。
伸二さんよりも、頭ひとつくらい大きい。
そういう背丈の人にありがちな、軽い猫背で、先のとがったブーツでひょいひょいと歩く。
見た目の年齢は、伸二さんと同じか、少し若いくらい。
彼らの外見は、何に合わせて決まっているんだろう、と疑問が湧いた。
なぜなら、その顔立ちは、多少色味が風変りとはいえ、どう見ても「日本人」だからだ。
名前みたいに、配属先によって決まるものだと考えても、不思議じゃない。
長靴の中が、不快に蒸れてきた。
傘なんてほとんど意味をなしていないけれど、差さないと風雨で目を開けていられない。
「ねえっ、この先は、病院しかないよ」
「そこに行くんだよ」
「林太郎、どこか悪いの?」
「悪いのは、あのボンボンじゃねえ」
「え?」
神社へとまっすぐ続く坂道を途中で折れ、山腹に贅沢に建てられた病院に着く頃には、濡れネズミだった。
カッパを着てくればよかった、と後悔しても遅い。
「こっちだ」
テンが向かった方向には、入院病棟と書かれた矢印が、長々と廊下に伸びている。
(そうだ、携帯)
病院に入るなら切らなければととり出して、相変わらず更新のないサンクスノベルズのことを思い出した。
昼間の電話でも、智弥子とその話になった。
『せっつく気はないんだけど、いきなり間があくんなら一言くれないと、心配になるよね』
すっかり中毒だね、と一緒に笑った。
読み返すのも楽しいけれど、すでに暗記するほど読んでしまったものばかりなので、限界がある。
電源を落とす間際、一瞬だけ掲示板をのぞいてみたけれど、やはり読者からのカキコしかなかった。
「勝手に歩いていいのかな」
「構わないだろ、面会謝絶とかでもねえし、ホラここだ」
たどり着いた先は、ひとつの個室だった。
入院患者の名前が書かれたプレートが、ドアの横に挿してある。
弥栄、杉久。
「え…」
何もしていないのに、さっとドアが横にスライドした。
広い部屋の奥に、木製のベッドがあり、その横に誰か、腰かけているのが見えた。
その誰かが、戸口に佇む私を見て、ぽかんと口を開けた。
「あっちゃん…?」
林太郎は、ぱっと戸棚から白いバスタオルをとり出して、私のほうへ駆けてきた。
足元に水たまりをつくっている私の顔と頭を、それで拭いてくれる。
病室は、なんともいえない匂いがした。
甘ったるいような、すえたような。
もし、そういうものが存在するのだとしたら、これがそうだと直観した。
死の匂い。