フレキシブル・ソウル


「坊主、北陸か」

「お前に関係ねえげ、はよあっちゃんを離せや」

「ねえ、おじさん、私のこと覚えてませんか」



割りこんだ私に、ふたりがぽかんとした。

おじさんが無精ひげをなでながら、しげしげと私を見る。



「いや、実はさっきから、見覚えがあるとは思ってたんだが」

「ほら先週、駅で、水を」



一瞬、記憶を探るように宙を見つめたあと、ああ、と得心の声をあげた。



「あの時の姉ちゃんか」

「これ、ほどいてもらえませんか、何もしませんから」

「恩を仇で返して申し訳ないんだが、もう少しこうしててもらうぜ、人を呼ばれたりしたら、困るんだ」

「呼びませんし、ここにいますから、自由にさせてください」



おじさんは、少し考えただけで、確かに呼ばなそうだな、とうなずいて、あっさり私たちの拘束を解いた。

拍子抜けして、林太郎と目を見あわせてしまう。



「知りあいやの?」

「そこまででは」



時計を見たら、まだ7時半だった。

暗くなったばかりだったのか。



「母に、遅くなるって連絡してもいいですか」

「そりゃさすがに立場ってもんを忘れすぎじゃねえか」



顔をしかめられて、それもそうだと携帯をひっこめた。

だって、どうしたって悪い人には見えないのだ、このおじさん。



「ここ、あこやろ、廃線になった操車場の、丸い建屋やろ、よう知ってたの」

「俺も、このあたりで育ったんだ、ごく一時期だが」



まだ水滴をたらしている顔を、シャツの袖でぬぐいながら、林太郎がきょろきょろする。

確かに、特徴的な円筒形の建物であることが中からもわかる。


「どうして人を呼ばれると困るんですか」



見た感じ、ここで大麻を栽培してるとか、そういう感じでもない。

土嚢と見せかけて、実は中身がコカインとか?

武器が埋まってるとか。


いや、どう見たってここは、忘れ去られて何年もたった、出入りの気配がまったくない場所だ。

あぐらをかいたおじさんは、いやあ、と困ったようにあごをさわって、私たちを交互に見る。



「実はな」

「うん」

「生かしておきたくねえ奴が、いんだよ」



…えっと。

それはつまり、えーと?



「おじさんが、やるんか?」

「まあ、そのつもりだ」

「なんで?」



林太郎が、あまりに落ち着いているのに、驚いた。

同じようにあぐらで、身を乗り出すようにして、興味を隠さない。


埃っぽさに咳が出た。

林太郎が、バッグからペットボトルを出して、はいと渡してくれる。

ぬるくなったスポーツドリンクを飲みながら、気づいた。



「おじさん、何日かここで暮らしてましたか」

「なんでそう思う」

「さっきの水、冷たかった。どこかに冷蔵庫かクーラーボックスか、あるんでしょ」



このへんには、冷たい水を買えるような場所はない。

つまり保管してたってことで、ある程度長く滞在することを、想定してたってことだ。

おじさんは、軽く目を見開いた。



「最近の子供が、ものを考えねえようになったなんて、誰が言ったんだかな」

「本気なんですね」

「長い話だ、終わったら聞かせてやるよ」

「今じゃダメなんか」

「決心が鈍ったら、悔しいだろ」



どこか恥ずかしそうに言うおじさんは、今から誰かを殺すようには、見えない。

じゃあどんなふうなら“今から誰かを殺すよう”なのかと問われると、困るけど。

やがておじさんは、時間だ、とつぶやいて出ていった。

懐中電灯をひとつ置いてってくれたので、暗くて困ることもない。

でも私たちはなんとなく、バッグの中に電灯を入れて、光が外まで漏れないようにした。


すぐ戻る、という言葉を、根拠もなく信じて。

することもなく、がらくたの山の中に、座ってるだけ。


林太郎の、物思いに沈んでるような横顔を眺めた。

立てた片ひざに頬杖をついて、おじさんの消えた扉を、じっと見ている。


視線に気づいたのか、ふとこっちを向くと。

にこりと頼もしく微笑んだ。



「変な時間やな」



その表現が、あまりに的確すぎて、言うことがない。

変な時間だね。


今頃、どこかで、誰かが。

あのおじさんに、命を奪われてる、かもしれない。



「とめんかったの、後悔せんと、あかんのやろな」

「どうだろうね」

「僕、する気がせん」



うん、私も。

どこかの、顔も知らない誰かの命より、少しの時間を過ごしたおじさんの願いのほうが、大事なんて。

間違ってるんだろうけど。



「これは、あれだ」

「ストックホルム症候群?」

「それ」



かもやなぁ、と林太郎が穏やかに笑う。

意味もなく頭の中で歌を歌ってみたりして、やけにゆっくり流れる時間を数えた。



「あっちゃんが、ひとりの時やなくて、よかった」



やがて林太郎が、ぽつんとそうつぶやいた時。

生きててほしくないと、おじさんが願った人にも、担当の、人見なんとかさんが、いるんだろうか。

なんて、考えた。




翌朝、地元の新聞をくまなくチェックした。

それらしい事件は、載っていなかった。


かつがれたのかという考えが一瞬浮かんで、消えた。

私と林太郎は、気絶させられた。

そこまでして人をだます、意味はない気がする。





おじさんは、戻ってこなかった。

埃の舞う倉庫で2時間くらい待った頃、おもむろに林太郎が、帰ろや、と立ちあがった。



「でも、おじさんが困るんじゃ」

「あの人は、ただ邪魔されたくなかっただけや。僕らが戻らんくて騒ぎになったら、ほれこそ困らせてまう」



言われてみれば、そうだ。



「鍵もかけてえん、おじさんは僕らがこうするの、わかってたと思う」

「戻ってこないつもりだった?」



林太郎は、少し首をかしげて、静かに言った。



「僕は、ほうは思わん」



私も思わない。

たぶん戻ってこられないような何かが、あったんだ。


おじさん、今どこで、何してるの。

大丈夫?








「ねえ、実咲(みさき)先輩が戻ってきてるんだって」

「え、なんで、仕事は?」

「それがさあ」



まあ噂なんだけど、と智弥子が顔を寄せてくる。

ジワジワと窓の外でセミが鳴く、火曜日。



「例の、サラリーマンの彼氏いたでしょ、その人が関係してるっぽいんだわ」

「一緒に戻ってきたのか、彼もこのへんの人だったよね」

「最新の情報では、その彼氏が入院したって話」

「えっ、看病のために帰ってきたってこと?」


結婚してるわけでもないのにか。

そんなにその人のこと、好きなのか。



「仕事やめてまでって、すごい覚悟だね」

「噂が錯綜してて、よくわかんないんだけどね、訳ありっぽくもあるし、あるいは結婚準備とか? これちょうだい」



私のピーチティを、智弥子がひと口飲んだ。

ゆうべ遅くに用意した夕食の残りを、適当に詰めたお弁当を、お箸でさぐりながら。


誰だって、いろいろ事情がある。


妙にしみじみした気持ちで、そう考えた。



残り少ない学校生活かと思うと、授業にも身が入る。

わけがない。


苦手な物理はやっぱり退屈で、先生の目を盗んで携帯を開いた。

サンクスノベルズの更新は、ない。

始まってから数ヶ月、ほぼ毎日だった更新が、急に二日間とまったので、管理人を心配する声も見られる。


まあ、管理人だって、書く気分じゃないこともあれば、忙しい時だってあるだろう。

気長に待とう、と携帯をしまいかけて。

悠長だな、と自嘲した。





「あ」



帰り、ふとコンビニで手にとった夕刊で見つけた。

学校の最寄駅の名前。


昨日の夕方、32歳、会社員の男性が、包丁のような刃物で数か所を刺され、意識不明の重体。


これだ、絶対に。

あとは、殺人未遂容疑で県警が捜査中としか書いてない。


未遂。

おじさんが、考えを変えて中断したのなら、いいけれど。

もしかして、何か完遂できないアクシデントがあったり、実は相手が生きてたことを知らずに立ち去ってしまったんだとしたら。

それは、かわいそうな気がした。



『珍しいが、あっちゃんが電話くれるの』

「今日、これから予備校なんだけどさ」

『うん?』

「帰りがだいたい、7時半くらいになると思うんだ」

『ほやろな、大変やな』



あっちゃんは偉いな、ととんちんかんなことを言う林太郎に、どう育てるとこんな「いい子」ができあがるんだろう、と感心する。


「昨日買えなかった、梅をね」

『買うんか、手伝おっか?』



先に言うなよ。

甘えづらくなるじゃないか。



「…やっぱ、いいや」

『どうしたんやし、僕なら暇やって、一度家帰って、あっちゃんが帰る頃、また出るわ』

「新聞、読んだ?」



林太郎は一瞬間を置いて、うん、と言った。

向こうはまだ学校らしく、うしろで人の声がする。



『全部できんかったんかな』

「おじさん、どうしてるんだろ」



ほやなあ、と考えこむような声。

無事だといいね、と言おうとした時、誰かに肩を叩かれた。

振り返った先には、誰もいない。



「伸二さん?」



予想は外れ、返事はない。

気のせいではなかったと思うんだけど、と見回すと、視界の隅に、青いものが動いたのが見えた。

窓の外、商店の並びの裏通りを、人目を避けるように物陰から物陰へ移動する人影。

黒いキャップに、青いジャンパー。



(おじさん!)



携帯を切り、新聞を棚に戻して、コンビニを飛び出した。

通りを渡ろうと、車の波が途切れるのを、もどかしく待つ。

ぎりぎりと歯噛みしたい気分で足踏みしていると、すぐそばで、うかがうような声がした。



「江竜?」

「え?」



振り向けば、そこには懐かしい姿があった。

記憶よりだいぶ疲れた顔で、久しぶり、とそれでも微笑んでくれる。



「実咲先輩!」

「やっぱり江竜かあ、よかった、声かけてみて」



かつて憧れた先輩は、とんでもなくやつれて、別人に近い。

私は智弥子の話を思い出した。


「あれ、あたしの自転車? 使ってくれてるの、嬉しいな」

「先輩、彼氏さんが大変って、ほんとですか」



駐輪スペースに目を向けたまま、うん、と脱け殻のようにうなずく。

あの活発でいつもきらきらしてた先輩と、同じ人だなんて思えない。

智弥子の話が、急に真実味を帯びたようで、私は目先の目的も忘れ、先輩の手を握った。



「ね、先輩、どこか入りませんか、甘いものでも」

「ごめん、あたし、変でしょ」



ちょっと疲れてるの、と見るからに無理やり笑う。



「もう行くわ、あたしといると、江竜に迷惑かかるから」

「迷惑って、なんですか」

「ケーサツ?」



そうすれば、ちょっと言葉の重みが薄れると思いたいのか、肩をすくめて。

私は、聞いた内容よりも、先輩のその様子に、戦いた。

同時に、おじさんのことを思い出した。



「実咲先輩、私、一瞬で用事すませてくるんで、お願いだからここにいてくださいね、すぐですから」



絶対ね、と先輩の手をぎゅっと握ると、不思議そうにしながらも、うなずいてくれる。

私は後ろ髪を引かれる思いで、通りを渡り、裏通りに駆けこんだ。


青いジャンパーはもう見えない。

網の目になっている通りを、どう探せばいいのか見当もつかず、見回しながら佇んでいると、また肩を叩かれた。


振り向いても予想どおり誰もおらず、ただ奥のほうに見える路地の入り口が、なんでかぼんやり光っているのに気づく。

迷う暇はなかった。

そちらに向かって走った。


角を曲がる時、朽ち果てそうな木造の建物の、壁を補強してあった錆びたトタンで手を切った。

構わず奥に進むと、突然、黒い影に行く手を遮られた。



「わっ?」

「現在ここから先は、立ち入り禁止です」



それは制服姿の警察官だった。

庶民の性で、うしろ暗いこともないのについ怯んでしまう。

でもすぐに気づいた。

こんなさびれた裏通りで、わざわざ警察官を置いて通行止めなんて、おかしい。


「あの、こっちのほうに誰か」



来ませんでしたか、と言う前に、私はおじさんを見つけた。

警察官のうしろ、商店の汚れたゴミ箱が並ぶあたりで、ふたりの男の人に、押さえつけられていた。

何時何分、公務執行妨害で現行犯逮捕、とひとりが腕時計を見ながら言った。


ドラマとかアニメで見るあれ、ほんとに言うんだ、なんて呆然としながら。

ひび割れたアスファルトの上に、まるで荷物みたいに置かれたおじさんの身体が、あんまり小さいので胸が痛くなった。



「…おじさん」

「はい、ここ通ります、道をあけてください」



制服警官に押しのけられながら、おじさんがスーツ姿の人に立たされて、つれてこられるのをぼんやり眺めた。

手錠って、あんなに重そうなの。

ていうか、上着とかかけて、隠したりしないの。

って、どうせ誰も見てないから、いいのか。


そんなことが無駄にきびきびと頭に浮かんでは消え、目の前を通るおじさんを、ただ見送っているうち。

いつの間にか、くるくる回る赤いランプが、路地を照らしていた。



「おじさん」



無意識のうちに、呼びかけていた。

そう大きな声だったはずはないのに、青いジャンパーの、うなだれていた背中が、ぱっと反応して、振り向いた。


制服の警官が、私を遠ざけようとした。

その腕をかいくぐって、おじさん、ともう一度呼ぶ。


おじさんは驚いた顔で、私と刑事を交互に見てから。

照れくさそうに笑って、右手をこそっと振った。


不自由な左手。

いつもジャンパーのポケットに押しこまれていたそれも、無情に身体の前で、拘束されてる。

ねえその人、そっちの手がダメなことくらい、知ってるんでしょ、警察なら。

しまっておいてあげたって、いいじゃないか。


その人、一時期このへんで育ったんだってよ、あなたたちの先輩かもしれない、どこかで会ってるかもしれないよ。

そんな人、つれてくんだから。


絶対その人が悪いことしたって、まさか、めちゃくちゃ調べたんだよね?



「いやー、見ごたえあったな」



その声にはっとした。

もうおじさんも刑事も、とうに消えた頃。

もうひとりいたらしい制服警官が、私をとめていた警官と、合流しに来たところらしかった。

こんな田舎で捕り物が見られると思わなかったらしく、すげえすげえと感心している。

おい、とたしなめる相方とふたり、見ればかなり若い警官だった。



「あの」

「あ、ごめんね、もう行っていいよ、ていうか、知ってる人だったの?」

「いえ、えーと…人違いだったんですが、何したんですか、あの人」



ふたりが目を見あわせる。

現場まで見ているんだし、どうせ報道されるし、話したところで問題なしと考えたのか、まだ秘密だよ、とひとりが指を立てた。



「男を殺そうとしたんだよ、娘さんがそいつに結婚詐欺にあって、自殺しちゃったんだって、仇をとろうとしたんだ」





通りに戻ると、やっぱり先輩はもう、いなかった。

念のためと思い、付近を探し、コンビニの横をのぞいたところで、正面から腕をものすごい力で引っ張られ、思わず悲鳴をあげた。



「江竜、あたし、あたし」



地べたにぺたんと座り、こちらを見あげているのは、蒼白な顔をした実咲先輩だった。

悲鳴をあげた私よりも、よほど何かに怯えているようで、ぶるぶると震え、立ちあがれそうにない。

あはは、とつやを失った長い髪をかきあげて、笑う。



「やばいわ、腰抜けた、さっきパトカー来てたの、見た? 一台だけ、サイレンも鳴らさないでさ、なんか怪しいよね」



万引きとかかな、と忙しなく喋る先輩に、昔の面影はなかった。

現実を見るのをやめてしまった、うつろな目。



「…先輩」

「ごめんね、あたし、ちょっと休んでから帰るわ、江竜はここでバイバイしよ」

「先輩の、彼氏さんて、入院されたんですよね」



そーだよ、と怖いほど軽い返事が来る。



「病気とか事故とかじゃなくて、もしかして」



怪我、ですか。

やっとのことで、そう言うと、先輩はメイクばかりが際立つ、生気のない瞳を見開いて。



「何か知ってんの、江竜」



私の腕に、爪を食いこませた。