目を覚ました母は、しょげていた。
『あーちゃん、ごめんねえ』
『平気、夕方迎えに来るから、それまで先生の言うこと、ちゃんと聞くんだよ』
『はあい』
落ちた時の記憶はなく、どこに行こうとしていたのかも、覚えていないらしい。
むしろそのほうが普段の母らしく、ほっとした。
「面白いのぉ、これ」
「読んじゃうよね、智弥子もハマってる」
窓の外で、じわじわとセミが鳴いている。
今日も日差しは好き放題にあたりを照らし、なんの変哲もない夏の日。
冷房を入れたリビングに、林太郎の姿があるのだけが、いつもと違う。
ふと、昨日の更新分を読み返していて、気がついた。
「これ、合掌鳥居って、投稿の中には、出てこないんだ」
「ほやな、その部分は“管理人”の創作みたいや」
林太郎の言うとおりだ、投稿には“鳥居”とあるだけで、別に合掌鳥居であるとは、書いていない。
私はしばらく、考えた。
どういうことだろう。
このエピソードを投稿した、たぶん遠くからドライブしてきた人が、珍しい風景だったので描写したんだとばかり思ってたのに。
実際は、管理人のほうが、この地域特有の風景のディテールを書き足していたのだ。
「投稿には、このへんの地域名が書いてあるで、管理人さんが調べたんかもしれん」
「待って、私、前にも何か、気になったんだよね」
なんだっけ、と過去のカキコを探しはじめたところで、視線に気がついた。
林太郎が、じっとこちらを見ている。
「おばさん、いつからあんな、ひどいんや」
ノベルに気をとられたふりをして、最初の動揺をやりすごした。
いつか訊かれると思ってた。
林太郎は、母がまだアルコール浸しになる前に引っ越してしまったので、その後の転落を知らない。
あんな不安定な母を、知らない。
「私が小学校の、中学年になったくらいからかなあ」
「…ほやったんか」
「最初はね、酔っぱらってる時間が増えたなってくらいだったんだけど、だんだん、戻ってこらんなくなっちゃったみたいで」
「なんか、きっかけがあったん?」
首を振った。
本人にはあったんだとしても、私は知らない。
徐々に、気づいたらああなってたとしか言えない。
「ノベルも、ずいぶん美化してくれてるよね」
ていうより、元の投稿がか、と自嘲すると、林太郎は朗らかに笑って首を振る。
「おばさんは、今でも綺麗やって、僕、あのドライバーの気持ち、わかるわ」
「えー、ほんと?」
「うん、あれっ、て目惹く感じや。危なっかしいような、何あっても平気なような、ほんな不思議な感じ」
アイスコーヒーのグラスを口に持っていきかけて、林太郎はちょっと言葉を切った。
「あっちゃんも、似た感じ、あるよ」
照れくさそうに微笑むと、グラスから氷の音がする。
間が持たなくて、私もなんとなく自分のぶんを飲んだ。
そういえば私、昨日のことを、まだ謝ってない。
──なんでやの、あっちゃん。
あの件は、このままうやむやになってくんだろうか。
でもたぶんそれが、一番いい。
「おばさん、どこへ行こうとしてたんやろね」
「さあ…忘れちゃうくらいだから、ふっと思い立っただけだったのかも」
「思い出したら、つれてってあげんとやな」
まるで、僕も一緒に行くって言ってるみたいな、その言いかたが、善良で無邪気で、いかにも林太郎で。
ちょっと違う顔を見てみたくなった。
「林太郎さ、お父さんのことって、何か聞いてないの」
「え?」
「帰ってこない時、外で何してるのかとか、気にならないの?」
思いがけず林太郎は、さっと顔色を変えた。
えっ、と私は慌てた。
村長の夜遊びなんて、特に村の秘密でもない。
さすがに露骨な女性関係の噂はないし、政治手腕に免じて、誰もが見て見ぬふりをしているのが実情だ。
なのに林太郎は、緊張した声で。
「お父さんが、なんやの?」
「いや…なんでもない、最近見かけないなって」
「ああ、うん」
忙しいみたいや、と早口に言う。
目も合わさない、変な林太郎。
セミが網戸にぶつかる音がした。
ジッ、と断末魔のように一声鳴いて、気配は消えた。
どこからともなく、激しいあせりが湧いてきた。
消えるなら消えるでいいと思ってた。
特に将来の夢とかあるわけでもなく、失いたくないほど毎日が楽しいわけでもなく。
けど私はこの時、はじめてあせった。
どうしてだろう。
どうしてだろう。
急に黙った私に気がついたのか、林太郎が顔を上げて、気まずさを振り払うみたいに、ちょっと笑った。
「今日も暑くなりそうやね」
うん、と答えた時、笑えていたかどうか。
どうあがこうが。
私の命は、あと数日。
「新っ、お願い」
「うわ、わ」
わ、と青空に浮かぶバレーボールを目で追いながら、うしろ向きに走った。
昼休みの日差しが、ボール越しに私を刺す。
目がくらんだ。
(南無三!)
目をつぶって、あてずっぽうに手をかざす。
よーし、という声が、クラスメイトたちからあがった。
見ればボールは無事に円陣の中に戻り、みんなの頭上で弾んでいる。
「伸二さん?」
「よくわかったな」
どこに向けたわけでもない呼びかけに、どこからともなく返事が来た。
そりゃわかる、だって私の指、ボールにさわってない。
「助かりました、ありがとう」
とたん、どさっと重たい音がして。
中庭の茂みに、死神が伸びていた。
「“ありがとう”だ」
「やめてくれ、耳鳴りがする」
伸二さんが渋い顔をした。
背後の校舎で、チャイムが午後の始業を告げる。
日陰のベンチで、紙パックのジュースを飲みながら、初めてこの死神に遭遇した時のことを思い出した。
そうだよ、あの時だって。
私は、ちょっとした親切のお返しに、お礼を言われたところだった。
そして伸二さんは、倒れてた。
「今まで気づかなかったんですか」
「言われることが、ないからな」
「お迎えありがとうって言ってくれるお年寄りとか、いそうじゃないですか…あ、すみません」
伸二さんが隣で、頭を抱えている。
まずい、うっかり口にするだけでも、効くのか。
「話したろう、俺たちは魂が浮遊しないために派遣されるんだ。我々を歓迎するような人間に、そもそも俺たちは必要ない」
「なるほど、じゃあ全員が全員、担当についてもらえるわけじゃないんですね」
低い呻き声は、肯定だろう、たぶん。
すると私が伸二さんに出会えたのは、幸運でもあるわけか。
いやどうかな。
これを幸運というのも妙な気がして、首をひねる。
つまり、成仏しなそうに見えたってことじゃないか。
「今日で、四日目です、先週の木曜に、会ったから」
「そうか」
あっさり立ち直った伸二さんが、風の匂いを嗅ぐように、気持ちよさそうにちょっと、顎を上げた。
何かが確認できたのか、うなずく。
「まだ、半分てとこだ」
「あと四日あるってことですか?」
「そこまで明確じゃないが、少なくとも一両日中にいきなりってことは、ない」
そうか。
それはそれで、何か活用方法がある気もする。
「常識を超えた危険に、自ら身をさらしたりした場合は、この範囲じゃないと、釘を刺しておくぞ」
「よく考えてることがわかりましたね」
「基本中の基本だ」
予定日を宣告された人間の、行動パターンマニュアルでもあるんだろうか。
だって四日後に死ぬと言われたら、じゃあそれまでは何をしても大丈夫なのか、試したくなるじゃないか。
命が惜しくてあきらめていたことに、挑戦してみたくなるじゃないか。
…たとえば、なんだろう。
線路を歩いて旅するとか。
ライオンをなでてみるとか。
スカイダイビングとか?
「ちっさ」
「自分の卑小さに気づき、なおかつその事実を嫌悪しないというのは、すばらしい前進だ」
「独り言にレスしないでもらえますか」
「では、今から言うのは独り言だと、宣言してから始めたらいい」
気を悪くしたらしい死神は、すねた声を出した。
「新、昼休みのあと、どこ行ってたの?」
「あー、ちょっと涼んでた」
「外で?」
のどかな駅前の、雑踏と言えなくもないにぎわいの中で、疑わしそうに、智弥子がじろじろと視線を投げてくる。
早くもこんがり焼けた肌が、夏らしい。
「新、最近、何か隠してない?」
「何かって、たとえば」
待ってましたとばかりに、智弥子が私を指さした。
「みんなに内緒で、何か飼ってる」
伸二さんがそのへんにいないか、思わず確かめてしまう。
変にプライドの高いあの人に、聞かれたら面倒すぎる。
「なんでまた?」
「たまにひとりでぶつぶつ言うし、今日みたいにふっといなくなるし。学校の倉庫とかに、犬でもかくまってるんじゃないの?」
「すごい推理」
「当たってる?」
「当たってない」
「隠し事は、してるってことね」
そういうの、ずるい。
もう、否定も肯定もできない。
「新って昔から、ひとりで悩んで、いつの間にか答え出してるからなあ」
「そんなつもり、ないけどな」
「ま、何か考えてるなら、話してよ」
とんと肩を叩くという最小限のふれあいで、智弥子は長いつきあいに裏打ちされた親愛を示してくれた。
心の奥で、地鳴りのような音がした。
こんなふうに、ごまかしたりしてないで、智弥子にこそ言うべきなんじゃないの。
ちゃんと、言ってお別れするべきなんじゃないの。
それこそが、今私がするべきことなんじゃないの。
バイバイって。
その時、あれーっと男の子の声がした。
「永田さん?」
「えっ、あっ」
きゃっとかやっとか、智弥子が小さく悲鳴をあげたので、何かと思ったら、私までわっと声をあげるはめになった。
「林太郎」
あっちゃんやー、と顔をほころばせる林太郎は、同じようにすらっとした男の子と一緒だ。
智弥子の様子を見るに、さては彼が件の。
「遠藤(えんどう)です」
人もまばらなファーストフード店で、斜め向かいに座った彼は爽やかに名乗った。
やっぱり智弥子の好きな子で、林太郎のクラスメイトの、あの子だ。
「へえ、江竜さんも弥栄の幼なじみなんだ、いいなあそういうの」
「遠藤くんちは、転勤族なんだよね」
「え、俺そんな話、した?」
したよー、と笑いあうふたりは仲よさそうで、まだ他人行儀なのが、こっちが恥ずかしくなる感じで、可愛い。
キャッキャッていう音が、見えそう。
似た感想を抱いたらしく、林太郎が向かいから、楽しげな目線を送ってきた。
あっさりした顔立ちの林太郎と対照的に、遠藤くんはしっかり日焼けして、くっきりした目鼻立ちが特徴的だ。
はきはき喋って、いかにも快活で、リーダーシップなんかもあって、信頼されてるんだろうなって感じ。
「のぉ、いい奴やろ」
「うん、智弥子の好みがわかった気がする」
「遠藤は、好みとか関係なしに、みんな好きになるんやって、ほんと女の子に人気あるんやよ」
「そう言う林太郎は?」
急に智弥子に振られて、僕? と林太郎が目を丸くした。
うーんと記憶を探るように首をかしげる。
「遠藤に渡してって、手紙もらったことなら、あるで」
「渡したの?」
「可愛い子やったから、腹立って捨てつんた」
嘘、と驚く私と智弥子に、林太郎が、嘘や、と笑う。
「な、僕、ちゃんと渡したよな?」
ひじで小突かれた遠藤くんは、なんでか文句を言いたげに顔をしかめた。
「もらったよ、去年の話だろ」
「なんて返事したんだっけ」
「うるせーよ」
言いながらふたりが、ついに大声で笑いだす。
何がそんなにおかしいのか、さっぱり理解できない私と智弥子は、顔を見あわせた。
「何?」
「男やったんや、その手紙くれたの」
「ええっ!?」
仰天する私たちをよそに、林太郎と遠藤くんは、もうこらえきれないみたいに、お腹を抱えてる。
え、あそこの高校、男子校じゃ、ないよね?
遠藤くんがヒイヒイ言いながら説明してくれた。
「ほんと女の子みたいな感じの、可愛い顔した奴で、変な断りかたしたら傷つけるんじゃないかって、もう俺、すごい悩んで」
「ほやで、こいつ、弥栄どうしよう、どうしようって本気で困ってて、どれだけいい奴やのって話やろ」
「で、どうしたの?」
「どうもしないが、向こうの遊びやって」
えええ、と私と智弥子の声が重なった。
いたずらってこと?
なんだそれ、ちょっと悪質なんじゃないか。
けどふたりは、明るく首を振る。
「なんか俺の反応、見たかったらしくて」
「こいつ人気者やで、たまにそういうあかん奴、いるんや、みんな暇やのぉ」
「ひどくない? 怒らなかったの?」
「怒ってもよかったんだろうけど、あの時はもう、ただただ猛烈に安心したよね」
思い出すだけで楽しいのか、林太郎と遠藤くんは、笑いがとまらないらしい。
こんなに活発に笑う林太郎、初めて見た。
よく考えると、村の同じ年頃の子は女の子が多いから、男友達といる林太郎を、私はあんまり見たことがなかったんだ。
涙を拭きながら、なあ、と遠藤くんが林太郎を見た。
「お前、江竜さんたちの前だと、訛り丸出しなのな」
「えっ、そう?」
とたんに林太郎が、恥ずかしそうにぱっと頬を染めた。
智弥子がアイスティを飲みながらうなずく。
「私、逆に驚いた、遠藤くんの前だと、すっごい頑張ってこっちの言葉、話すのね」
ほやった? と今度は私たちに向かって言うのに、思わずみんな笑った。
どうして笑われたのか、遅れて気づいたらしい林太郎が、肩を落として情けない声を出す。
「僕、こっちの喋りかたのが、ずっと楽なんや、ほやけど」
「学校でそれやると、かわいーって言われちゃうんだよな、主に女子に」
にやにやする遠藤くんに、いらんこと言うなや、と噛みついた。
林太郎は、部活に入らずに、クラブでサッカーをしているため、いまひとつ学校では影が薄いように見える。
少なくとも中学の時は、そう見えてた、のに。
「そうなの? 高校じゃ違うよ、控えめにもててるよ」
「なんかわかる、水面下って感じでしょ」
「まさしくそれ」
林太郎を指さしながら、智弥子たちが仲よく笑う。
はああ? と言いたいのをこらえていたら、バカにしたような目つきをもらった。
「新が気づいてなかっただけで、中学の頃も、そんな感じに人気、あったよ、林太郎を好きって子、何人か知ってるもん」
「誰?」
どこそこの誰それ、とあっさり暴露された名前に、今度こそ、はああ? と声が出た。
「そこそこの女子じゃん」
「そうよ、だから、林太郎だってそこそこなんだって」
「女の子の会話、怖いな…」
ほっといてよ、と意外にもぴしりと言い返した智弥子に、遠藤くんはおおらかに微笑み。
林太郎は困り果てた顔で、嘘やほんなの、とふてくされていた。