その声は、どこから響いてきたのかわからなかった。
重たい大気が、ゆっくりと渦巻いて、私たちを囲みはじめたのを感じる。
「伸二さん」
「トワは人間が好きだった、嘘をついたりごまかしてみたり、そういう卑小な弱さを愛していた」
つないだ手から、かすかな振動が伝わってきた。
遠くのほうで、巨大なモーターが動きだしたような、そんな感覚。
「俺も好きだ。どんな逆境にあり、絶望しかけても、何かいいことが起こるようにと願う、そんな強さが好きだ」
「残念ですがそれは、おそらく大半が現実逃避ってやつで」
「まさしくだ、それこそがヒトの強さだ」
我が意を得たりと伸二さんは微笑み、その身体が浮いた。
「無責任で、他力本願で、だがそんな愚かさに守られて、ヒトは叶わない夢を見る」
「なんか、すみません」
「ヒトは柔軟で、強い、俺は人間に憧れる」
伸二さんがゆっくり上昇していくのにつれて、私の両腕も上がり、ついに足が地面から離れた。
わっ、わっ。
「純粋な"願い"が持つ力は、時として原理を超える、それを見せてやろう」
「原理って」
「腹が減った」
彼は出し抜けに、そんなことを言った。
見あげると、まぶしく光を放つ姿が、優しく笑む。
「食べるものをくれないか」
「それは、つまり?」
伸二さんがうなずいた。
お礼を言えってことか。
なんだかおかしくなった。
ありがとうと言ってもらえないと消えてしまうなんて、なんて危うくて健気な存在だろう。
今や全身をまばゆく輝かせ、中空に浮いている彼を見あげて、思った。
伸二さん、天使みたい。
「いろいろ、ありがとうございました」
言った瞬間、戦慄した。
なぜか知らないけど、わかったからだ。
──だまされた!
遥か下方から、テンが何か叫んでいた。
伸二さんは嬉しそうに、にっこりと笑い。
こちらこそ、とつぶやくと。
次の瞬間、破裂した。
目を焼くような光に、私は何も見えなくなった。
ぽーんとほうり出されたような感覚の中、テンの声がする。
てめえ確信犯だな、という罵りに、あとは頼む、と冷静な声が返した。
枷は、外れきっていなかったのだ。
私の差し出した、爆弾も同然の食料に、伸二さんの身体は、アナフィラキシーショックとも言うべき、激しい拒絶反応を起こした。
もはや肉体のほうが、耐えられなくなるほどの。
それでもそのエネルギーを、最後の瞬間に使ってくれた。
もう一度、大いなるタブーを犯すために。
最初の推進力そのままに、私の身体はどこかへ向かって、ぐんぐん進む。
伸二さん。
伸二さん。
──なんだ
──どこへ行くの
──きみは戻り、やがてすべて忘れる
──そうじゃなくて、伸二さんは
さあ、と徐々に遠ざかる声が、無頓着に笑った。
──どうして、こんな無茶
──空腹に耐えかねた
──嘘ばっかり、私のためでしょう
──俺たちは嘘をつかない
──伸二さんは、どうなるの
──知らないが、きみたちの考えを借りるなら
待って、よく聞こえない。
伸二さん、待って。
雑音がさわさわと邪魔をした。
必死に耳を澄まして、最期の声を拾った。
──きっと俺は
──トワのいるところへ、行けるんだろう──…
真っ白だ。
何もかも、真っ白。
──っちゃん…
いや、案外、赤い、ような?
──あっちゃん
うるさいな、誰だか知らないけど、黙ってよ。
眠いの、今。
「あっちゃん!」
びくっと身体を震わせて、私は覚醒した。
喉を焼く、焦げた空気と煙った夜空。
慌ただしい足音、土の匂い。
ぼんやりと見える、林太郎の顔。
湖畔のなだらかな土手に、私は仰向けになっている。
周りにも同じように、寝転がっている人が見える。
信じられないくらい手足が重く、あちこち痛い。
「あっちゃん!」
「林…」
咳きこんで、声にならなかった。
林太郎が何か濡れたもので、顔を拭いてくれる。
ひりひりする頬に、それはとても気持ちよかった。
「あっちゃん、泣いてるん、どっか痛い?」
泣いてるのは自分のほうでしょ、バカ。
でもよく見えないし、とにかく目が痛くて、開いているだけでつらい。
涙はそのせい。
「痛いんやね、もう大丈夫やよ、僕がいるで、大丈夫やよ」
だからさ、あんたがいると、なんで大丈夫なわけ。
確かに、いないよりはいいかもしれないけどさ。
かすむ視界に、懐かしい誰かの姿を見た気がした。
記憶が波のようにやってきて、あと少しで岸辺というところで、引いてしまう。
かろうじてひとすくいすると、ぱっと頭が晴れた。
あれは、伸二さん、だ。
彼は私と林太郎を見おろして、満足そうにうなずくと、ふっと消えた。
ああ、ねえどうか。
彼らの魂も、リサイクルの対象でありますように。
「あっちゃん、泣かんといて」
そうだ、伸二さんにも、サンクスノベルズを読ませてあげればよかった。
あれは村長の、懺悔だ。
トワに贈った、感謝と謝罪の言葉たちだ。
ただ、遅すぎたけれど。
あっちゃん、と涙をこぼす林太郎の頬に、手を伸ばした。
その手を握って、林太郎はまた泣いた。
私、あんたに言いたいことがあって、戻ってきたの。
ええと、どこからだか、忘れちゃったけど。
でも声が出ないや。
ごめんなさい、あとでもいいかな、伸二さん。
伸二さん…
…って、誰だっけ──…
「あっちゃん、こっち」
小さな駅舎を出ると、自転車を押した林太郎が迎えに来てくれていた。
海のそばだというから少しは涼しいかと思っていたけれど、実際たいして変わらない。
「迷わんかった?」
「子供じゃないんだから」
私の荷物をとりあげて、かごに入れると、うしろの荷台に乗るよう指さす。
「猪上さんに怒られるよー」
「どこに猪上さんがいるんよ」
ぷっと噴き出して、林太郎がこぎだした。
腰に両手を回すと、あれっと素っ頓狂な声があがる。
「前向いて座ってるん?」
「そうだけど」
「今日、スカートやなかった?」
「ワンピだよ」
「えーっ」
なんだよその非難めいた声。
スカートで脚開いて座っちゃいけないわけ。
「お母さんみたいなこと言わないでよ」
「わっ、嫌や、やめてや」
くすぐると、いい感じについた腹筋がぎゅっと反応するのを指先に感じた。
少しドキッとして、それが面白くて、何度もやった。
「まあ、遠いところ、よう来とっけたのぉ、くたびれたがの、上がんね、上がんね」
「お邪魔します」
10分くらい走った、通りから少し引っこんだところにある小ぢんまりした家の前で、おばさんが待っていてくれた。
元気そうな顔で、ほっとした。
夏休みに入る直前、村長は亡くなり、激震の走った村では、盛大な葬儀が執り行われた。
そこで10年ぶりくらいに、おばさんに会った。
相変わらず優しそうで、綺麗だったけれど、親族とのいざこざは避けられなかったらしく、疲れた顔をしていた。
「電車、迷わんかった?」
「同じこと林太郎にも言われたけど、平気だって」
「林太のぉ、あっちゃんまだやろか、道迷って困ってないやろかって、ずうっと心配してたんよ」
ころころ笑うおばさんは、すっかりこっちの人だ。
いや、もともとここが故郷なんだから、当たり前なのか。
「ほんと、無事でよかったわあ、なんかあったら、よりちゃんに顔向けできんもんね、あっ、ほやわ、電話しとこ」
「ちょっと休んだら、そのへん歩こ、案内してあげるで」
「うん」
朝早く家を出て、何時間も電車に揺られて、何度も乗り継いで、正直そこそこくたびれていた。
けどいかにも気持ちよさそうなこの港町を、早く歩いてみたくもあった。
家は自然に片づいていて、ふたりで住むのにちょうどいい大きさだった。
広い庭から、優しい風が入る。
「ユッコちゃん、いるんけのぉ」
勝手口のほうから、男の人の声がした。
「アオリイカのいいの入ったで、持ってきたざぁ」
「わあ、ありがと、ほこに置いといとっけ」
ん、とその人が家の中に入ってくると、廊下を挟んでリビングにいた私と、柱越しに目が合った。
日に焼けた顔が、恥ずかしそうに笑う。
「見ない顔やのお、どこの子やの?」
「林太の幼なじみやざぁ、かわいいやろ」
男の人は慣れたふうに勝手口に腰を下ろし、おばさんから冷たいお茶を受けとった。
「あっちゃん、そろそろ行こっせ」
「えっ、うん」
林太郎の急な誘いに、慌てて残りのお茶を飲み干して、追いかけた。
こういう時に限って、サンダルのストラップが留まらない。
出たところで、林太郎はポケットに手を入れて待っていた。
「どうしたの?」
「ふたりにしてあげよっかなって」
「え?」
てっきりあのおじさんが苦手とか、そういう理由かと思っていた私は、拍子抜けする。
どこ行く? と言われ、うーんと考えた。
「林太郎の通ってた学校」
「ほんなん、僕まで懐かしいわ」
笑いながら、こっちやよ、と来たのとは反対のほうへ歩きだす。
並ぶと、僕のお、と口を開いた。
「誰にも言ってないんやけどね、お父さんのほんとの子や、ないんよ」
「はっ?」
こんな快晴の昼下がりに、なんの話?
「じゃ、誰の子なのよ」
「本人たちに聞いたわけやないけど、さっきのあの人、たぶん、そうやと思う」
「あれ、誰?」
「ご近所さんでの、母さんの幼なじみみたいなもん。お父さんとうまくいかんくなった頃、たぶん母さん、あの人と仲よくしてたんよ」
はあ、と言うしかなかった。
何その、ドラマみたいな話。
「で、あんたはそれ、なんで知ってるの」
「お父さんが教えてくれた」
「えっ」
「よく聞け林、言っての。お前は俺の息子として生まれながら、このクズの血を継いでいない、こんな幸運はないぞ、って」
笑っていいものか迷ったけれど、林太郎が愉快そうにしていたので、一緒に笑った。
あの村長らしいや。
「そっか、それで血液型」
「母さんも迂闊やわ、僕『知らんけどたぶんA型やよ』って言われて育ったんよ、ほんなんバレんの、時間の問題やがのお」
確かに迂闊だ。
村長が、偏屈なイメージのとおりAB型なのは有名な話だ。
要するに林太郎がいずれ自分の出自に疑問を持つのは、必然だったわけだ。
「元はと言えば、お父さんの遊び癖が根っこやけど、ああ見えてお父さん、母さんを好きやったと思うんよ」
「おばさんは?」
「母さんも。ほやで申し訳なくて、同じ家に住めんくなってんたんやと思う」
田園風景の、少し先には、町らしき建物の群れが見える。
あの中に小学校があるんだろう。
「いつそれ聞いたの」
「小学校の終わり頃や、ほんで僕、中学から戻ったんよ、お父さん、さみしいやろなって思って」
「なんだ、私に会いたかったんじゃないんだ」
再会した時、そんなようなことを言ってたと思ったのに。
大げさにへそを曲げてみせると、えっと林太郎が慌てた。
「会いたかったで、もちろん」
「村長の次あたりに?」
「なんやの、ほの意地悪」
あせる林太郎を笑うみたいに、セミがのんきに鳴いていた。
ポケットに入りっぱなしの林太郎の手を、ちょいとつつく。
林太郎は察しよく、ぱっと出して、私の手を握ってきた。
「林太ちゃん、こっちではちょっとお行儀悪いね」
「変な呼びかたやめてや」
赤くなるのと同時に、手が熱くなる。
くすくす笑うと、怒ったような顔をするくせに、それとは裏腹に、指を交差させてきた。
林太郎の手の熱を感じなくなったのは、たぶん、私のほうも熱くなったからだ。
「お父さんがふたりもいるなんて、いいじゃん」
「うん、僕は恵まれてるんやわ」
「私のお父さん、結局誰だったんだろう」
「残念やの、亡くなんなってたなんて」
「まあ、会わなくて正解とも思うけどね」
「わからんよね、ほういうのは」
うん、わからん。
私はすごくそう感じて、うなずいた。
町にさしかかるあたりで、チラシを配っている人を見た。
私たちの顔を見て、一度は渡すのを控えかけ、すぐに、親御さんと見てね、と一枚くれた。
「あれっ」
「あ、これな、こっちの新聞で、よく見るよ」
載っていたのは、おじさんの事件だった。
あのあと、刺された男性は病院で亡くなり、おじさんは故殺で再逮捕された。
チラシによると、実刑判決を受けた彼に、せめて執行猶予をと、有志の会が立ちあがったらしい。
「控訴するんやって、あんまり時間もないで、弁護費用の援助を募ったりしてるみたいや」
「ほんとに、このへんの人だったんだ」
「偶然やよねえ」
ものすごい偶然だとしか言いようがない。
私には何もできないけど、せめて祈ろう。
実咲先輩には、あれから会えていない。
彼の死を知って、どうしているだろう。
なんの噂も耳にしないのは、いい兆候にも思えた。
心が癒えるまで、じっと休んでいるに違いない。
私の知っている実咲先輩は、身体も心も、健全で前向きな人だったから。
きっと、いつかまた、前みたいに笑ってくれる。
絶対。
商店街の裏に、小学校はあった。
夏休みなのに校庭には、子どもたちがいた。
「登校日?」
「校庭解放日やよ、あっちゃんとこは、なかった?」
覚えてない。
一度か二度、行った記憶が、あるようなないような、だ。
「あっちゃんは、学校に興味、薄いがの」
「小学校は特に、記憶がないんだよね」
「僕がえんかったでやね?」
仕返しか。
そんなわけないだろと言いたかったし、実際そんなことなかったと思うんだけど、不覚にも頬は勝手に熱くなり。
林太郎のしたり顔が気に食わなかったので、悔しまぎれに手を振り払って、校門をくぐった。
昇降口も、窓から見える机も椅子も、何もかもが小さい。
こんな半端なスケールのミニチュアみたいな世界で、6年も過ごしたなんて。
基本的なつくりは、どこも一緒だなあと眺めながら、開いていたガラスドアを抜けると、人が立っていたので、ぎょっとした。
明るいところから急に日陰に入ったせいで、よく見えない。
「1-3-42は、大逆者の番号として、永久欠番になった、それに付随して1-3-10も」
その人が急に喋りだしたので、最初、演劇の練習でもしているのかと思った。
私に話しているんだと気づいたのは、一拍置いてからだ。
「はあ」
「お前の"時"は、もう誰にも戻せねえ、奴は後世まで語り継がれる大罪人となったわけだ、めでたしだな」
「そうですか」
黒い髪がうなじを隠すくらい長い。
シャツも細身のパンツも、ブーツも真っ黒。
これはさてはあれか。
バンドとかやっている人か。
そう考えて、あれっと気づいた。
シャツの袖から出ているはずの、右腕がない。
あまりに普通に立っていたので、わからなかった。
本人も特に、気にしていないみたいだった。
「奴っていうのは、お友達ですか」
「友達ってか、同僚だな」
「亡くなったんですか」
「そんな感じだ」
長く伸ばした小指の爪で、耳をかきながら、かったるそうに言う様子は、悼んでいるようにも見えない。
「できる方だったっぽいですね」
「とんでもなかったよ、オレはほぼ同期なんだが、何かと比べられて、嫌ぁな思いしてたわけさ」
「いわゆるライバル的な」
「向こうはオレなんて、ゴミ程度の認識だったろうがな」
「あなたは、ひそかに崇拝してたと」
美しい話だな、と思ったら、急に話題を変えられた。
「オレらにもさ、いくつかの起源説があるんだけど、元はお前らと同じ、ヒトだったって説が最近、人気なんだ」
「はあ」
まずい、思ったより変な人かもしれない。
これだけ暑いとなあ、と同情にも似た危機感が湧く。
じり、と距離をとりはじめた私を気にするふうでもなく、その人は首の骨を鳴らしながら、投げやりに言った。
「だとしたら、あいつは次こそ、憧れてた人間になれるかもしれねえよな」
「そうだといいですね」
「お前、男みたいになったな」
「ちょっと、髪を焦がしまして」
ショートになってしまった髪をさわりながら答えて、あれっと思った。
以前にも会ったことがあるの?
その時、足音がした。
「あっちゃん、どこやの」
黒ずくめの男の人は、ぎくっと顔を強張らせると、ちっと舌打ちして、一歩退く。