フレキシブル・ソウル

慣れない履き物で赤く擦れた足を、林太郎が申し訳なさそうに見る。

もらったドリンクを一息に飲みながら、その顔と全身を改めて眺めた。

確かに、これといった難点は見つからないけれど。

かっこいい、かねえ、これが。



「僕、どっか変?」

「や、もう行こ、これ見た目ほど痛くないから」



ん、と差し出された手に、少し迷って、手を乗せた時。

藍色の空に残っていた、紅の最後の一筋が山の稜線に消え、ひょろひょろと笛のような音がどこからかした。

一瞬ののち、空が金色に染まった。


弾ける音が、身体の中に飛びこんでくる。

次から次へ、空を埋めつくそうとするみたいに、まばゆく花開く光の滝。



「今年も始まったのお」



七色に照らされながら、僕な、と林太郎が上を向いたまま、話しだした。



「大学、行きたいとこ、遠いんや」

「あんた、理系? 文系?」



そんなことも知らなかったのかと驚きながら尋ねると、林太郎も同様に思ったのか、僕は理系や、と笑った。



「医学部、行こうと思ってる」

「お医者さんになるの」

「うん、ありがちな理由なんよ、誰かを助けたいんや、ほんと、それだけ」

「似合うよ」

「ほんと?」



ほんとにそう思う? と不安げにこちらを見る。

思うよ、と返すと、その顔が、照れくさそうにほころんだ。



「ほやけど、そこ行ったら、ほとんど帰ってこらんくなると思う。今の家、どうなるかもわからんし」



そうか、村長が亡くなったら、林太郎はひとりになってしまう。

おばさんが、あの家に執着しているはずがないし、あそこは親戚の手にわたるのかもしれない。



「ほやで、今年あっちゃんと、ここ来たかったんや」

「最後だから?」

「最後にしたくないからやよ、わからん子やね」



そう怒られて、自分でも戸惑うほど、どきっとした。

“わからん子やね”

その言葉が、急に上から、愛おしむみたいに響いてきて、慌てた。

言葉に詰まって、もごもごと返事できずにいる私に、林太郎はやけに優しく笑いかけると、行こ、と手を引く。


「歩ける?」

「うん…」



なんだよこれ、誰だよこれ。

途方に暮れながら、出店の前の人混みを歩いた。



「見て、浴衣とおんなじ」



露店の前で、林太郎が足をとめた。

着物の端切れを使った小物なんかを並べている店だ。

林太郎が手にとったのは、私の浴衣に入っている芍薬の柄とそっくりな、藍色とピンクの花のヘアアクセだった。

私の耳の上あたりに当てて、満足げに眺めてから、恥ずかしそうに首をかしげる。



「あげたら、つけてくれる?」



こういうことって、あるんだな、と。

一瞬のちに、冷静に振り返るのだけど。

その時の私は、急に周囲の喧騒から解き放たれたような気分で、私の声は林太郎だけが拾ってくれるんだって、そんな自信に満ちて。



「私ね、林太郎のこと好きだよ」



言ってから、気がついた。

ずっとそう思ってたってことに、気がついた。

林太郎のぽかんとした顔が、あまりに抜けてて、つい笑う。



「何がおかしいん」

「教えない」



むっとする林太郎を置いて歩いた。

あっちゃん、とあとを追おうとした林太郎が、商品を持ったままだったせいで、店員さんに呼びとめられているのが聞こえる。

ますます笑ったところに、追いついてきた。



「あっちゃん、まさか冗談やったんと、違うよね」

「そんなこと言うなら、そうかもね」

「のお、こっち見て」



肩をつかんで、振り向かされる。

目が合った林太郎は、混乱したような、腹を立てているような、喜んでいいのか迷っているような、複雑な顔で。

なんて素直なんだろう、と感動した。


林太郎が、屋台の裏手に私を引っ張っていった。

私はまだくすくすと、変な高揚に包まれていた。


明日が来ないのも、悪いことばかりじゃない。

後悔と自己嫌悪に満ちた朝を迎えずに済むと思うだけで、こんなに正直になれるなら。


「まじめに答えてくれる? 僕、あっちゃんが好きやよ、ずうっとあっちゃんだけ、好きや」



発電機のモーター音にかき消されないよう、少し身を屈めて、顔を寄せて話す林太郎の、必死さが愛しかった。

いつだって一生懸命で、まっすぐな林太郎。



「あっちゃんは…?」



ああでも、ごめんね林太郎。

こんなふうに、喜ばせるだけ喜ばせて、消えるなんて私は最低の奴だね。

だけどどこかで、こんなふうに言える日を、きっと、ずっと待っていた。

林太郎の前で、素直になれる日を。


痛いほど握られた手を、軽く握り返した。

その時、視界の端で、真っ白な飛沫が上がった。



誰もが、そういう演出だと思ったに違いなかった。

湖面すれすれで、狂ったように次々と弾ける花火。


やがて、ぽっとオレンジの炎が現れ、湖畔に広がるまで、そう時間はかからなかった。

少しの間、沈黙した観客たちは、やがて事態に気がついた。


悲鳴をあげて、逃げまどう人の群れの中、私の心は、静かに冴えていた。

あれだ。



「あっちゃん、何してるん、僕らも逃げよ」



林太郎の手を、ゆっくりと離して、後ずさる。



「ごめん、先行ってて」

「何言ってるんや」

「いいから、行ってて」

「あっちゃん」



あっちゃん、という声に耳を塞いで、走った。

燃え盛る炎から逃げてくる人々に、逆らうように。



「よく頑張ったな、あと少しだ」

「伸二さん、お願い」

「聞こう」

「林太郎に、見せないで、私の、私の──…」



わかった、とすぐ横を滑るように飛びながら、死神がうなずいた。

こんな時まで、下駄の鼻緒で擦れた足は、律儀に痛むのだ。


時折、色鮮やかに誘爆しながら広がる炎が、尋常でない熱量と共に近づいてきた。

湖面に浮かんでいたはずの足場は、激しい火花に包まれて、見えない。


綺麗だなあ、と見とれながら走った。

光の欠片が、頬を焼く。

消防車のうなり声が、遠くに聞こえる。



突然、あたりがかっと真っ白に弾けとんだかと思うと。

猛烈な熱が、足元から私を包むのが、わかった。





──10って番号に当たったら、僕はトワと名乗るんだ。



楽しげな声が聞こえた。

そうか、と応えるのは、伸二さんだ。


永遠って意味、とトワは続けた。



『ヒトが欲しがってやまないものだ』

『そんなにいいものでもないのにね』

『知らなくていいことだ』



伸二さんの声は、優しかった。

目の奥が痛むほど白い空間で、それを聞いた。


やがて、燃え盛る炎と、何かがはぜる音が聞こえてきた。

見るともなく、景色が頭の中に流れこんでくる。


人波の中、走るふたりがいる。

浴衣姿の智弥子をかばいながら、手を引くのは遠藤くんだ。

火の手は彼らからずっと遠く、ふたりはこのまま無事に逃げて、緊張から解けたあとは、日常に戻るだろう。


消防車の進路を確保するため、人を整理しながら先導しているのは、猪上さんだ。

心の片隅で、奥さんを案じているのが感じられた。

大丈夫、おかみさんは安全なところにいるよ。

教えてあげられないのがもどかしい。


あっちゃん、と叫ぶ声がした。

ずいぶんと懐かしい響きに思えて、誰のことだっけ、なんて考えるうち、熱風に服を焦がされながら走る、林太郎の姿を見た。



「返事をしてやればよかったのに」



ふいに間近でそんな声がして、身体がどさりと、どこかに接地したのを感じる。

気づくと、白く淡く光る場所に、私は座りこんでいた。



「まだ間に合う、戻そうか」



私が頭を振ると、伸二さんは、何も言わずに微笑んだ。


ここはどこだろう。

広々とした空間なのに、声がまったく響かず、発したその場で散って消えていくような、不思議な閉塞感がある。


見たいと思った風景が、現れては消える。

すぐそこにあるのに、手を伸ばしてもさわれない、なんとももどかしい距離で。


林太郎が、必死に私を探しているのがわかった。

両腕で顔をかばいながら、炎の中を走っている。


「しまった」

「どうした」

「あれじゃ林太郎が、自分を責めます、もっとちゃんと別れてくればよかった」

「案ずるな、いいようにしておく」

「記憶をいじるんですか」

「そんなところだ」



じゃあ、いっそ私がいた記憶ごと、消してください。

林太郎がゼロから、他の誰かを好きになれるように。



「お望みとあらば、やるが」

「ごめんなさい、強がりました」



嘘です、と正直に言うと、伸二さんが笑う。



「俺も、そこまで影響の大きいことはできない」

「なんだ」



聞かれなくてもいい本音、出しちゃったじゃないか。

ひとりで赤くなった時、空間の上のほうで、ゴンゴンとノックのような音がした。

伸二さんが顔をしかめる。



「業務妨害だ」

「入れてあげてください」



不承不承、という仕草で片手を上げた伸二さんは、次の瞬間には、その手にテンの首根っこをつかんでいた。

いてて、と文句を言いながら、テンが私に笑いかける。



「よお、ついに来たな」

「おかげさまで」



変な挨拶。

テンは、伸二さんを頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺め、くそ、と毒づいた。



「何も変わってねえじゃねえか」

「何がそんなに気に入らない」

「時間がねえんだよ、また痩せやがって」



こんなに、と伸二さんの顎を、無遠慮に持ちあげる。

伸二さんは、心底不快そうにそれを振り払った。



「俺の話ならあとで聞く、今は集中させろ」

「あとにできねえからあせってんだろ」

「彼女の時が近いんだ」

「お前だってなあ、このままじゃ危ねえんだよ、うあ!」



突然、テンは身体をくの字に折って悶絶した。

震える背中から、水蒸気みたいな湯気があがる。

突然のことに、伸二さんも手を出せず、呆然としていた。



「…“禁忌”か!」

「そーだよ、お前の“枷”に触れるのは、今や絶大なタブーだ」



忌々しげに伸二さんをにらむ顔は、青ざめて歪んでいる。

畜生、と振り絞るように吠えて、テンが彼に飛びかかった。



「思い出せ、伸二」



長い爪が額に立てられたかと思うと、ずぶりとそのままめりこみ、私は思わず、ひっと声をのみこんだ。

伸二さんが喉をそらして、苦しげに眉をひそめる。



「オレは教えてやれない、お前が自力で思い出すしかねえ」

「…あとに、しろ」

「悔しくねえのか、勝手に頭いじられて、大事な奴のこと忘れて!」



伸二さんの呻きと同時に、私も悲鳴をあげた。

脳内を直にかき回されるような、激しい異物感と痛みに耐えかねて、うずくまる。

鼻に水が入った時の痛みが、数十倍になったみたいな感じ。



「人間のほうが反応したか、ちょうどいい」

「あ!」



頭の中の一点に、明確に何かが注がれた。



「絶対に気絶すんなよ、伸二の代わりに“見ろ”!」

「またそんな無茶…」



なんでここに来て、こんな苦痛。

伸二さんのためならと思うものの、身体のほうは防衛本能で、意識をシャットダウンしようとする。

この痛みは気のせい、気のせい、と言い聞かせながら震えていると、ふいに、ふわっと視界が開けた。



…を願い出るべきだ、と知った声が言った。

伸二さんだ。



『でもなんか悔しいし、そもそも配置替えって、ヒトが望まないと』

『希望する、と俺が言わせてやる』

『そんなの反則だ』



ころころと笑うのは、トワだ。

笑い声とは裏腹に、その面差しはげっそりとやつれ、生気はなく、ひと回り小さくなったように見える。

どこか、とても見覚えのある場所で、ふたりは話していた。

ゆらゆら揺れて定まらない景色の中、ああ、とようやく思い当たる。

ここは、山王さまのいる山だ。

鉄塔と鉄塔をつなぐ無数の電線のひとつに、彼らは立っている。



『このままでは、お前は消えてしまう』

『それならそれも、定めなんだ』

『トワ』

『皮肉、せっかく今、その名前なのに』



微笑みながらもトワは、ふらりと風にあおられて揺れた。



──俺は言わんぞ?



突然、相手を小馬鹿にするような声が響いた。

気がつくと、まったく違う場所にいた。

ここも見覚えがある。



『意固地なじいさんだなあ』

『死神に感謝しろってのが無理な話だ』

『僕らがあんたの命を奪うわけじゃないんだって、何度言ったらわかるのさ』



病室のベッドの脇で、トワは、ふうと息をついた。

誤解と知りながらも、正す気はないといった体で、村長は悠然と笑んで、本を読んでいる。

私が会った時より肉が残っていて、まだ元気そうだ。



『聞きたいなあ、ぜひあんたの口から』

『だから言わないんだ』

『どうしてそんな、クソオヤジなの?』

『楽しいからだよ、坊主』



最低、とこぼしながらも、トワはどこかこらえきれないように、にこにこしていた。

村長はその存在を無視し、勝手に寝はじめた。



そんなやりとりを、ぼんやりと見ていた私の脳裏に、ひらめくものがあった。

伸二さんにはめられている“枷”とは、もしかして。

死神の“エサ”って、もしかして。



あたりがほわほわと光っているのに気がついた。

視界が元に戻り、目の前にはテンと、伸二さんがいる。


伸二さんが、私を見て、はっと目を見開いた。

テンの指から逃れ、ふらつきながらこちらに来る。

同時に、私の頭の中の異物感も消えた。


「伸二、無茶だっての、そんな状態で」

「これ以上、邪魔をするな」



忌々しげに頭を振って、懸命に意識を保とうとしているように見える。

私を包む光が、強くなってきた。

伸二さんが、目を閉じた。



「やめろ、お前のほうが危ない」

「黙れ」

「オレが力を貸す」

「笑わせるな、消すぞ」



テンを追い払おうとしたんだろう、伸二さんが放った衝撃波みたいなものは、空中でふっと霧散した。

そら見ろ、とテンが毒づく。



「お前、一度、散らしてるだろ、もう無理だよ」

「…そんな」



呆然と自分の両手を眺めて、伸二さんはもう一度、そんな、とつぶやいた。

彼をとりまく、びりびりした気配が、一度、二度と、大きくふくらんではしぼむ。

車がスタート前に空ぶかしするみたいな、あんな感じに、自分の出力を試しているように見えたそれは。

突然、極端にふくらんだかと思うと、激しい音をたてて弾け飛んだ。



「バカな!」

「だから限界なんだよ、お前」

「彼女はどうなる、俺が運べなかったら、彼女は」

「ね、伸二さん」

「さまようのを黙って見ていろと言うのか」

「だからオレが手を貸すって」

「貴様にそんなことができるか!」

「やってみなきゃわかんねえだろ!」

「ねえっ、わかったってば、ありがとう、でしょ」



何かに殴られたように頭を揺らして、私は伸二さんが、そのまま倒れてしまうんじゃないかと思った。

危ういところでテンの腕を借りて体勢を立て直すと、割って入った私をじろっとにらむ。



「嫌がらせか」

「違いますって、ねえテン、当たってるでしょ、それがエサなんでしょ、今のがつまり、枷で」



我ながら要領を得ない説明に、伸二さんの背後で、テンが、にいと牙を見せた。



「よくやった、人間!」

「やっぱり!」


瞬間、パシンと何かが弾ける感覚がした。

一瞬、意識が飛んで、目の前がちかちかする。



「よおし、タブーはひとつ消えたぜ、おい伸二、意味がわかってるか」



テンが両手で、ぐいと伸二さんの顔を持ちあげた。



「お前は、食料を受けつけねえように改造されたんだ、徐々に徐々に、本人も気づかないうちに、飢えてくようにな」

「なんだと?」

「本来、人間からの感謝はオレたちの動力源だ。思ってもらうだけでも違うが、やっぱり言われんのが一番だ」



言ってから、おーすげえ、ときょろきょろする。

ペナルティが訪れないことで、タブーが本当に消えたのを実感しているんだろう。



「身体は覚えてるはずだ、伸二」

「俺には…」

「思い出せ、何がオレたちを生かすのか、何がトワを、消滅に至らせたのか」



なんて残酷な枷だろう。

栄養素へのアレルギー反応。

それはそう遠くない、死を意味しているはずだ。

そんな罰を受けるほどの、何を伸二さんがしたというのか。


思い出してよ、伸二さん。

そんな枷、自分で壊しちゃって。


励ましたくて、呆然と立ったまの伸二さんの、手をとった。

頭の中に、叩きつけるようにビジョンがぶつかってきた。



伸二さんが、半透明になったトワを腕に抱いて、誰かに叫んでいた。

それを少し離れたところで見ているのは、テンだ。



──なぜ言ってやらなかった



エコーがかかったみたいに、反響する声。



──なぜ言ってやらなかった、たったの5文字

──こいつはお前に、さんざん尽くしたのに



ああ、わかった、糾弾されているのは、村長だ。



『誰だ、お前は』

『これを見ても、そんなつまらん疑問のほうが優先か』