同世代の子に、年寄りのご機嫌取りなんて笑われながらも、幼い頃から林太郎は忠実に、しつけに従った。
尊敬する父親の恥にはなるまいと、いつも何が善なのか気にして、それが染みついて林太郎の性質になっている。
あんな父親のために。
実の子供と、一ヶ月しか誕生日の違わない子供を、よその女とつくってしまうような男のために。
「今言えば、聞いてあげる」
「何、どうしたの、あっちゃん」
「今言わないんなら、一生聞かない」
えっ、と涼しげな顔立ちが動揺に揺れた。
馬乗りになっている私には、その身体がぎくっと強張ったのがよくわかる。
林太郎が、弱気な顔をした。
「なんやの、なんでほんな意地悪するん」
「聞くって言ってんじゃん、何が意地悪なのよ」
「ほんなん、言えって言われて言えるもんと違う」
「じゃあもう二度と聞かない」
「待ってや」
素直な林太郎は、あせったらしく、私の腕をつかんだ。
よろけて、とっさにもう片方の手をついた場所は、ちょうど林太郎の胸の上で、林太郎はかすかに声を漏らすほど、びくりと跳ねた。
「あし、明日、言うから」
「明日じゃダメなんだって」
「なんで…」
「ダメなんだよ!」
力任せに胸を殴った。
鈍い空洞の音が跳ね返ってくる。
突然の暴力に驚いたのか、林太郎が慌てた素振りで、あっちゃん、とくり返しながら、私の手をとった。
「あっちゃん、のぉ」
「言う?」
「違う、ごめん、降りてくれん? 僕…」
弱々しいその声に目を上げると、林太郎は赤い顔で、困り果てたように眉根を寄せていた。
その視線が一瞬、ショートパンツから出た私の脚に向けられて、すぐ泳ぎだす。
手のひらに、正直な鼓動が伝わってきた。
窓を背にした私の影が、仰向けの林太郎に落ちていた。
ガラス越しに、蝉の声がした。
涼しいはずの部屋で、林太郎の身体が、熱くほてって、汗ばんでいるのがわかった。
「言うより楽なら、していいよ」
「え…」
襟首をつかんで、身体を倒して顔を寄せる。
林太郎はぽかんと、赤い頬で私と目を合わせていた。
「今だけ私のこと、好きにしていいよ、明日になったら」
少し引っかかって、言い直す。
「週が明けたら、全部忘れてあげるから」
一重の目が、瞬きをした。
左の目尻に、小さい頃、背の高い草で切った傷がうっすら残っているのが見えた。
まだあったんだ、これ。
私と遊んでいる時に、ついた傷だ。
一度それに気づくと、林太郎の顔に、昔の面影が重なる。
他の子よりも半回りくらいちっちゃくて、どこに行くにも足手まといだった林太郎。
別れの言葉を交わす間もなく、突然引っ越していったあと、一度だけ手紙をくれた。
返事を書きあぐねていたら、次はもう、届かなかった。
「…どういう意味やの」
その静かな声に、はっと我に返った。
林太郎が、賢そうな顔を歪めて、こちらを見ている。
「言葉どおりだよ」
「僕が、ほんなことしたがってるって、思ってたん?」
声がかすかに震えていたので、最初、動揺しているのかと思い、すぐに違うと気がついた。
林太郎は、怒ってる。
「したくないなら、いいよ別に」
「そうやって勝手に終わらさんといて、あっちゃんは今、ひどいこと言ったんやで」
「そっちこそ話変えないで、したいわけ、したくないわけ?」
「ほんなん答えられん、わかってるくせに」
泣きだしそうに見えた。
積年の習慣で、つい私は、慰めなきゃと頭に手を伸ばし。
それを振り払われて、目の前にいるのが、もう病気がちのか弱い林太郎じゃないんだってことを、思い出した。
「あっちゃんは、ひどい」
「情けないこと言うな」
「馬鹿にすんなま!」
突然の大声に、ぎくっとした。
林太郎が、上半身を肘で支えて、きつい視線を送ってくる。
「僕は…僕は、あっちゃん好きやけど、それは好きにしたいって意味やない」
震える唇で、涙ぐみながらも毅然と私と対峙する。
全身が、私を責めていた。
「あっちゃんが、笑ってると嬉しいってことや、ほんで一緒にいたいってことやで」
「林太郎…」
「ほんとに好きにしたいんやったら、僕なんていくらでもチャンス、あるわ」
威勢のいい台詞とは裏腹に、子供みたいに手の甲で目をこすり、鼻をすする。
「馬鹿にせんといて」
吐き出された言葉が、胸をえぐった。
ごめん。
ごめん、林太郎。
「降りて」
「林太郎、あの」
「いいから、降りてや」
言うなり林太郎は、私の両脇に手を入れて、ひょいと自分の上からどけた。
あまりに軽々とだったので、私は抵抗するタイミングもなく、おとなしく動かされるままになる。
林太郎は、短く鼻をすすりながら、立ちあがった。
そのまま玄関のほうへ向かうのを、なすすべもなく見ていると、戸口でふと、振り返る。
行き場のない熱い息を、苛立たしげに吐いて。
畳に座りこんだ私を、濡れた目で、上からじっと見つめていた林太郎は、やがて、ぶつけるように言った。
「好きやよ、あっちゃん」
喧嘩腰ともとれる、押し殺した声。
自分でも、状況にそぐわない発言だと感じたのか、林太郎はめったに見せないような仏頂面で。
溜まった涙を乱暴に拭うと、不機嫌な視線をあちこちさせて、一瞬、私を見る。
すぐに、傷ついたようにまた、うつむいて。
「言っつんたわ」
不本意そうにしかめた顔で、低く吐き捨て、出ていった。
気づくと部屋の中は、文字も読めないほど暗く、窓のサッシに伸二さんが腰かけていた。
学校に行く機会を、自分が永遠に失った実感が、じわりと押し寄せる。
昨日が最後だったのだ。
たぶん、どんなことでも、終わってみるまで、最後は最後と認識されないんだろう。
これが最後だとわかって何かに臨むことができたら、それは幸運なんだ。
「…嫌なもんですね」
「何がだ」
「続いてたことが、いきなり断ち切られるのがです」
外から入る、仄かな光が逆光になって、伸二さんの表情は見えない。
「たとえばね、私が何かしでかしたら、なんであんなことしたのって誰かが訊いてくれるわけです」
「うむ」
「すると私は、説明できるわけですよ、イライラしてたとか反省してるとか、でももう、そういうの、ないんです」
そうだな、と影がうなずいた。
「きっと新はこんな気持ちだったのねって推測されて、それが答えになっちゃうんです、私は弁解も言い訳もできない」
「それが、嫌か」
「嫌ですよ、もう誰にも、今以上に私のことをわかってもらうことは、できないんです」
これまでの私で、全部。
そんなつもりじゃなかったんだけど、なんてことがあっても、もう訂正もできない。
「ごめんとか、ありがとうも、言えないんです」
「きみの時間は限られており、きみもそれを知っている」
頭痛がするのか、片手でこめかみのあたりをもみながら、伸二さんが言った。
「時間は減るが、増えない、1分後には1分減っている」
「わかってます」
「そして、残りの量が最も多い瞬間は、常に、今だ」
畳に正座したまま、伸二さんを見あげた。
柱に背中を預け、窓枠に片足をかけたシルエットの中で、瞳がきらりと光った。
「1時間後のきみより、60分も多く、今のきみは、持っている」
「そうですね」
「この家を出て、あの邸に行き、呼び鈴を鳴らすのに、1分もかからない」
「でしょうね」
すっと窓の外を指さした伸二さんが、にこりと微笑んだ気がした。
「だがきみは、動かない」
「あとがないくらいで、変われたら、苦労しないんですよ」
自己嫌悪にさいなまれながら、肩を落とした。
「この家を出て、あの大きな家まで行って、呼び鈴を押して、顔を見ながら、さっきはごめんね、って言うなんて、死んでも無理です」
「当然、死んだら無理だ」
「生きてても無理って意味です」
「難儀だ」
「もしかして、これが後悔ってものですかね」
「ヒトらしくて好ましい」
「素直に謝るのは、人間らしくないですか」
「それもまた、ヒトらしい」
伸二さんは、妙に陽気だった。
思えばこんなふうに、彼のほうから導くような言葉を口にしたのは初めてだ。
穏やかな声は優しく、あざけりも憐憫も、そこにはない。
「あれは、なんだ」
伸二さんが、外の何かに目をやった。
近寄ってみると、だいだい色の灯りが列をなして、村の畦道を進んでいるのが見える。
「お神輿ですね、今日は朝から一日、このあたりを練り歩いてたはずです」
「あれがそうか」
「夜は夜で、風情がありますよね」
「あれだろう、デアイガシラにドンパチ、とやらをするんだろう」
浮き浮きと言う伸二さんには申し訳ないけど、喧嘩御輿の文化はこのあたりには、ない。
説明すると、そうか、と残念そうに言った。
「神様の乗り物ですよ、喧嘩っておかしくないですか」
「だからこそ見たかったんだ、自分たちの縄張り争いを、人間に代理させている、怠惰な横暴さを」
「神様と、知りあいですか」
「神様とは、誰だ?」
それを今、訊いたんですよ。
きょとんと問い返してきた彼は、どうやら本気らしい。
「自分で言ったんでしょう」
「俺は神様なんて、言ってない」
そうだっけ。
じゃあ誰が“人間に代理させている”わけ?
「きみたちが神と呼ぶものだ」
「伸二さんたちは、なんて呼んでいるんですか」
突然伸二さんの声が、混線したみたいにノイズと混ざりあって、ガアガアピイピイと鳴いた。
私がびっくりしているのを見て、失敬、と口をつぐむ。
「今、近い言葉を探す」
検索結果を片っ端から読みあげるみたいに、伸二さんが次から次へと、単語を流れるように発した。
ぼそぼそと低く、あまりに速いので聞き取れない。
あるところまで来ると、ふつっと言葉をとめ、これかな、と頭の中を探るように、視線を落とす。
「摂理」
伸二さん、それはね。
逆らっても無駄、と私たちが考えるものです。
急に、きっぱりとしたあきらめのようなものが私を襲った。
別に不快じゃない。
どちらかというと心地いい、すべての権利の放棄。
伸二さんたちに、何かを変える力があるわけじゃないんだ。
彼らも何かしらの、抗えない流れの中で、動いている。
「摂理が喧嘩するんですか」
「似て非なるものがふたつあれば、争うだろう」
言いながら、摂理という単語の選択に自信がなくなったらしく、間違えたかな、と首をひねる。
「トワが消えちゃったのも、摂理ですか」
「俺にはすべてはわからないが、その可能性はある」
「トワは、かなり長い間、村長を担当していたことになりますよね、そういうことってあるんですか」
サンクスノベルズが始まったのは、数か月前だ。
少なくともその頃から村長は、トワと知りあっていたのだ。
村の誰も知らないところで患っていた彼に、余命宣告をしたのは、お医者さまとトワと、どちらが先だったのか。
「まれにだが、ある」
「どういう基準で」
「どこの世界にも、特別扱いされる顧客というものはいる」
伸二さんが人差し指を立てて、口の端を上げた。
「VIPと、クレーマーだ」
はは、なるほど。
面倒そうな人には、特別対応するのか。
トワのように、死神が消えてしまう事態というのは、どんな時なんだろう。
そう尋ねようとしたら、伸二さんが窓の外に気を取られた。
「シンデモムリ、が来るぞ」
「は?」
間もなく、玄関の戸が叩かれ、応答する前に誰かが飛びこんできた。
「あっちゃん!」
「林太郎!?」
玄関先で息を切らして、なんでこんな暗いん、と不審そうに見回す。
「いいでしょ別に、何よ」
「一緒に病院行こ、今大町さんから連絡あってな、お父さんのところに、おばさん、来たんやって」
「お母さんが?」
そういえばこの時間まで、帰ってきていない。
ついに突撃しちゃったか、という驚きの中、林太郎の気がかりそうな顔つきが気になった。
「何か、あったの」
「だいぶ暴れたんやって、おばさん、病院の人が落ち着かせてくれて、今、別の部屋で治療受けてる」
胃のあたりが、ぐっと重たくなった。
この平穏が、永遠に続くとは思っていなかったけれど。
母が綺麗な姿で、穏やかに過ごしていて、話しかければ筋の通った返事が来る。
そんな当たり前のことが、幸せだったんだけどなあ、と振り返る。
でも、そうか。
これで真正面から、母とお別れせずに済む。
それは、お互いにとって、いいのかもしれない。
母は青白い顔で眠っていた。
いかにも薬で眠らされましたという雰囲気で、両手両足をまっすぐ伸ばして、真上を向いて寝ている。
人形みたい。
「アルコール依存症はね、治るとか治らないとかいうものではない、とにかくお酒を飲まずにいるしかないんだ」
「はい」
看護士さんに連れていかれた先の、小奇麗な診察室で、予想外に若い、背の高い男の先生が、気の毒そうに私に語った。
「けれど依存症の人にとって、お酒を飲まずにいるのは、たとえばきみが、トイレに行くなと言われるのと同じくらい、きつい」
「それはきついですね」
「想像がつくかな、意志しかないんだよ、脳と身体は求め続ける、お酒をやめるには、本人の意志しかない、あとは周囲の協力」
はい、と丸椅子に座ってうなずいた。
この椅子の上にいると、まるで私が診察を受けに来たみたいな条件反射に襲われる。
「最近は飲んでいなかったと言ったね」
「はい、家にアルコールもなかったはずなんですが」
「大人であれば、いつでも手に入るからね、飲ませずにいるのは、とても難しい」
ですよね、と同意しながら、私はどうも腑に落ちずにいた。
このあたりで、お酒を売っているお店はふたつしかない。
エンドレスで飲んでいた頃の母が酩酊状態で行ったのなら、さっさと売ってしまうのもわかるけど。
ここ最近の母が買いに行って、はいどうぞと売るだろうか?
それを見越して、遠くまで買いに行ったんだろうか。
そこまでして飲みたかったんだろうか。
「あれ?」
「彼なら村長の部屋だ」
母の病室に戻ると、林太郎がいなかった。
伸二さんの言葉に、納得する。
来たついでに、様子を見てくることにしたんだろう。
「ちょうどいいや、テン、いる?」
「いるぜ」
真っ黒な上下に身を包んだ姿が、ベッドの向こうにじわりと現れた。
伸二さんが、どことなく嫌な顔をした。
「お母さんにお酒をあげた?」
「欲しい、欲しいって言ってんのが聞こえたからよ」
意識する間もなく、そこにあった電気スタンドをつかんで投げた。
それはコードを引きちぎって飛び、テンの身体を直撃した。
「悪魔」
「ほんと人間てのは、オレらを好きに呼ぶよな」
物理的な攻撃には案外不慣れなのか、痛そうにおなかをさすりながら、電気スタンドがガシャンと床に落ちるに任せる。
その悪びれなさから、一瞬、厚意でお酒を与えたのかと信じかけたけれど、違うとわかった。
私の怒りに対して、明らかに、にいと愉快そうな笑みを浮かべたからだ。
「あんた、何がしたいの」
「オレは人助けしたんだぜ、酒瓶見た途端、飛びついたんだからな、どれだけ我慢してたのかって話だ」
ああでも、と嫌らしくその笑い顔が歪んだ。
「そういや、あーちゃんごめん、あーちゃんごめんって泣きながら飲んでたわ」
突然、その黒い身体が吹き飛び、横の壁に叩きつけられて、ぺちゃんこになった。
私が、怒りの叫びを発する間もなかった。
壁についた汚れみたいに、どろっとした黒い染みと化したテンが、しゅうしゅうと煙をあげながら、元の形を取り戻す。
べりべりと音を立てて、壁から自分を引きはがすようにして、牙を見せて笑った。