「サンクスノベルズって、知ってる?」
尋ねると、当然ながら友人は、ぽかんと目を丸くした。
「新しい文庫レーベルか何か?」
「ぜんぜん違う」
私は首を振って、無意味にもったいをつけてみる。
気の長いほうじゃない永田智弥子(ながたちやこ)は面白くなさそうに、ちょっと、と肘で私の肩を押した。
この高校は、校舎の一部が木造だったりするわりに、なぜか全ての教室にインターネット回線が引かれており、好きに接続できる。
ネットデイとかいう活動が流行った時、地元の団体や保護者たちが、自力で天井や壁に穴を開けて線を引きこんだのだ。
けだるい真夏の昼休み。
テニス部を引退して運動量の減った私は、食べたら食べただけ太りそうなので昼食を軽めに済ませ、教室の片隅のPC机に向かった。
「見たほうが早い」
「何をよ」
紙パックのジュースを飲みながら、智弥子が興味津々に寄ってくる。
私はもうそらで言えるまでになったURLをアドレスバーに打ちこみ、右手の薬指でエンターキーを叩いた。
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■今日のありがとう[花屋の店主]
201X-07-16 22:32:43
管理人さん、こんにちは。
今日あったお話をしますね。
夕方、小学校中学年くらいの女の子が、お母さんのお誕生日にとガーベラを買いに来たのです。
なぜガーベラかというと、お母さんの誕生花だということでした。
偶然にも、今日は私の誕生日でもあり…
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「…何これ、ブログ?」
「掲示板だね、それもかなり昔の。放置されてたのを、誰かが見つけてコミュの場にしてるみたい」
「でも、管理人って」
「それは、ある投稿者のハンドルネーム。掲示板を立てた人って意味じゃなくて」
「誰なの?」
「それを知りたいの」
怪訝そうにする智弥子に、私はいくつかの“カキコ”をすっ飛ばして“管理人”の発言まで画面をスクロールした。
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はい、と小さな手が花束から一本ガーベラを抜きとって、店主に差し出した。
店主は一瞬呆然としたものの、はっと気をとり直すとそれを受けとり、ありがとう、と震える声で言った。
トワの身体に、光り輝く鋭い何かが飛びこんできた。
いつもの感覚。
流れこんでくる、店主の心。
不仲の妻、自分を毛嫌いする娘、その娘が幼かった頃、しきりに繋ぎたがってきたふくふくと頼りない手。
全身の神経を集中させて、その熱さをじっと味わう。
収束した感覚は限界まで凝縮すると、ぱっと弾け飛ぶように拡散した。
(あと少し)
大きすぎるエネルギーを吸収したせいで一時的にふらつきながら、トワは古びた電信柱のてっぺんから飛び立った。
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そのへんの誰かの椅子を引きずってきた智弥子が、私の隣に腰を下ろした。
「何、これ」
「見ればわかるでしょ、小説」
「寄せられたコメントを元に、その管理人て人が小説を書いてる、ってこと?」
「コメントじゃなくて、カキコ」
「…それ、死語じゃない?」
「うるさいな」
偶然見つけた掲示板だった。
元は、どこかのサイトのメニューのひとつだったんだろう。
親サイトはもう閉鎖されたらしく、離れ小島状態の掲示板。
タイトルはただ「BBS」とあるだけだ。
初期のカキコを見る限りでは、個人が趣味仲間と集まる場にしていたものらしかった。
“管理人”には新しい投稿をする権限も、タイトルを編集する権限も当然ない。
だから過去の投稿に対するレスを使って、延々とやりとりが更新されている。
その彼がカキコする際のハンドルネームが【サンクスノベルズ管理人】なのだった。
「“彼”ってことは、男なの?」
「知らないけど、なんとなく」
その日にあった“ありがとう”にまつわるエピソードを誰かが書きこむと、管理人がそれを小説にする。
小説は連作で、トワという主人公が“ありがとう”の言葉を集めて回る、それだけのストーリー。
「このトワが謎でね。人間じゃないっぽいんだけど、それは伏せられてるの」
「あ、そう」
「“ありがとう”を集めると最終的にどうなるのかも、明かされてないんだよ」
へえ、と再び生返事が返ってきたので、もう好きにさせておくことにして、自分の席に戻った。
智弥子は食い入るように画面を見ながら、時折マウスをいじっている。
わかる、私も初めてあの掲示板にたどりついた時は、あんなだった。
智弥子が我に返ったのは、チャイムも鳴って、とっくに先生も教壇に上がり、にやにやとみんなが見守る中でのことだった。
予備校はサボろう、なぜなら暑いから。
なんて柔軟な発想、と悦に入りながら自転車をこぐ。
去年卒業した、大好きだった部活の先輩の卒業式の日に、半分冗談で「ください」とねだったら。
まさかの「いいよ」という返事が返ってきて以来、私の愛車となったクリーム色の自転車だ。
『ほんとですか』
『ほんとほんと。今日は彼んちで朝まで遊ぶし、そしたらチャリいらないし、ちょうど、どうしようかなと思ってたとこ』
『やばい、感動です。ですが私、これで今日チャリ2台です』
『乗ってきたほう、誰かにあげたら?』
結局、私はその帰り道から先輩の自転車に乗り換えた。
それまでのは学校の駐輪場に置いておいたら、数週間後には消えていた。
(先輩の彼氏は、サラリーマンだったはず)
どうやって出会ったのか、いまだに謎だ。
郡でひとケタ位に入るくらいテニスが上手で、美人で成績もよくて。
いきなり生徒会長に立候補したりする意味不明ぶりなのに、誰からもやっかまれたり疎まれたりしない先輩だった。
憧れだったので、彼女にあやかって、愛車にはミサキ号という名前をひそかにつけていたりする。
舗装されていたりいなかったりする道路を10分ばかり走って、このあたりでは大きな駅の駐輪場にとめた。
ちょっと遊んでから帰ろうと思ったからだ。
奇跡のようにこのド田舎に舞い降りた、シアトル発信のコーヒーチェーン店で、贅沢にフローズンドリンクでも買って涼もう。
そんなことを考えながら駅ビルに入ろうとしたところで、突然肩を叩かれた。
振り返ると、同じくらいの目線の高さの、小柄なおじさんが、こちらをにらんで立っていた。
この暑いのにくたびれた青いジャンパーを着て、すりきれたキャップをかぶっている。
「これ、開けてくれねえか」
「え?」
完全に警戒態勢に入っていた私は、いきなりのお願いごとに対応しきれず問い返す。
仏頂面のおじさんが差し出しているのは、水のペットボトルだった。
「あんまり暑くてよ。でも俺は手が利かなくてな」
早口にもごもごと、言い訳するみたいに言う。
ちらっとおじさんが視線を走らせた彼の左手は、ジャンパーのポケットに入れられていた。
「あっ、はい」
片手が不自由なんだ。
私は内心あせりつつ、ペットボトルを受けとって開ける。
「フタは、どうしときます?」
「じゃあ、軽く閉めといてくれ」
軽くってどのくらいだ、きっとこのくらいだ、と細心の注意を払ってフタをうっすら閉める。
ボトルをおじさんの自由なほうの手に渡すと、しかめつらがほっとしたように緩んだ。
「ありがとよ」
言いながら不器用に片手でフタを外しつつ、去っていく。
もっと軽く閉めておけばよかった、と無駄な後悔をしながらそれを見送っていると、突然、背後でどさっと重たい音がした。
今度は何。
おそるおそる振り返ると、足元に人が倒れていた。
とっさに、熱射病か日射病だと思った。
このふたつの違いはよくわからない。
面倒なので立ち去ろうという思いと、助けなきゃという思いが一瞬交差して、さすがに後者が勝つ。
「あの、大丈夫ですか」
若い男の人だった。
白いTシャツにジーンズを履いて、足元は…。
裸足。
まずい、変な人だ。
声かけちゃった、とうろたえつつも、変な人だって助けが欲しい時くらいあるだろうと自分を叱咤し、かがみこんで肩を叩く。
その冷たさに、ぎょっとした。
思わず手をひっこめてから、そんな馬鹿な、ともう一度さわってみると、今度は普通の体温だった。
(あれ?)
自分こそ、照りつく太陽に焼かれすぎたんだろうか。
そう首をひねっていると、男の人が身じろぎする。
何か言っているみたいに口が動くけれど、聞きとれない。
「あの、水でも持ってきましょうか」
「…アノとはなんだ」
うなるような声と共に、頭を抱えていた腕が外されて、ようやく顔が見えた。
綺麗な顔立ちだと思ったけれど、それは最初だけで、すぐに、いや意外と普通だな、と印象を訂正する。
その人は緩慢な動作で身体を起こすと、アスファルトにあぐらをかいて、眠気でも払うみたいに頭を振った。
うう…とつらそうなうめき声が聞こえる。
やっぱり熱射病か日射病か。
あの、ともう一度呼びかけると、青光りするほど真っ黒な瞳が、ぱっと私を見た。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」