Prologue



馬鹿ね、と友人のひとりが私に言った。


馬鹿な恋をしているわね、と。

あんな男といつまでも、と。


あなたのは愛情じゃなくて、ただの執着でしょう、とも言った。




―――わかってる。


誰かに言われなくたって、私が一番、わかってる。



彼がどんなに最低の酷い男かってことくらい。


私がいないところで、誰と何をしてるかってことくらい。


私はちゃんとわかってる。



それでも私は―――。




………きっと、あなたには、わからない。


ほんものの恋を、

したことがない人には、わからない。


にせものの恋しか、

したことがない人には、わからない。



うわべだけの、ひまつぶしみたいな、うすっぺらい恋しか、

したことがない人には。



手の届く範囲で、消去法みたいにして選んだ恋しか、

したことがない人には。



絶対に、わからない。




―――わからない。



あなたでなければ駄目なのだと、泣き叫ばずにはいられないような恋を、

したことがない人には。



手の届かないものが欲しくて欲しくて、どろどろに融けてしまうような恋を、

したことがない人には。



触れてはいけないものに焦がれて焦がれて、燃え尽きてもなお、求めてしまうような恋を、


底なし沼に魂ごと引きずり込まれるような、溺れるほどの、狂おしいほどの恋を、


世界にその人さえいれば、他には何ひとついらないと、確信できるほどの恋を、


その人がいない世界では生きていられないと、そう叫べるほどの恋を、


身も心も全て捧げてしまえるほどの、どうしようもないほどの、深い、深い恋を、


したことがない人には、わからない。



私がどれほどの幸福感の中にいるのか。

私がどれほどの絶望感の中にいるのか。




恋は、するものじゃなくて、落ちるもの。


そのことを知らない人には、私の思いは理解できない。




私は、ほんものの恋を知ってしまった。


一度とらわれたら、もう二度とのがれることなんてできない、そんな恋。



彼を手に入れるためなら、何を失ったっていい。


彼と一緒にいられるのなら、誰を傷つけたっていい。


彼以外、何もいらない。



たとえ世界が破滅したあとの渇いた荒野であっても、

そこに彼さえいれば、私にとっては、

薔薇の花と聖なる水に溢れた、美しい楽園になる。



………そんな恋を、私はしている。



たとえ、その恋が、奈落の底へと堕ちるしかない運命だとしても―――




私はこれっぽっちも、この恋を諦めるつもりはない。



彼以外、いらない。


彼以外、どうでもいい。


すべて、どうでもいい。



















部屋の中にいるというのに、自分の吐き出した息が白くて、そういえば暖房をつけていないことに気がついた。


ゆっくりと顔をあげて、時計を見る。

帰宅してから、たぶん二時間以上。


照明さえつけていない部屋は薄暗く、座り込んだフローリングの床は金属のように冷たい。


カーテンの隙間から射し込む街灯の明かりに照らされて、私の吐息は白く凍った。



一人の部屋にいると、いつもは耳にも入らない微かな音が、こんなにも大きく聞こえてしまうのは、どうしてなんだろう。



彼の好きなワインが入った冷蔵庫のうなる音。

彼の帰宅の遅れを知らしめるように時計の針が時を刻む音。

―――聞きたくない音ばかりが聞こえる。



彼が廊下を歩いて部屋に向かってくる足音。

彼が玄関の鍵を開ける音。

―――聞きたい音は、いつまで経っても聞こえてこない。



私はまたひとつ、深く息をついた。


頬のあたりで凍る吐息。


この部屋には、私のため息が充満している。



夜色の静寂の中、私は脇に置いていた紙袋を持ち、ふらりと立ち上がって、照明のスイッチを入れた。

ぱっと点灯した蛍光灯のそらぞらしい明るさが、空虚な部屋を照らし出す。


紙袋を手にしたまま、キッチンに入る。

調理台に置くと、かさりと乾いた音がした。


しゃがみこみ、シンク下の収納から手鍋とボウルを取り出す。


手鍋に水をはり、火にかけて沸騰させる。

ぐつぐつと煮たってきたところで火を消し、水を足して適温にする。


そこにボウルをいれ、私は紙袋の中に手をつっこんだ。

がさごそと手探りをしていると、平べったく硬いものに手が触れたので、つかんで取り出す。


銀色の包み紙をぺりりと剥がすと、深いブラウンが姿を現した。


手づかみにして、適当な大きさに割り、ボウルの中に入れていく。


指に触れた部分がゆるりと溶けて、私の肌は温かいのだと知る。

甘い香りが微かに漂った。


最後のひとかけらを、気まぐれに口に含む。


濃厚な風味が口の中に広がった。


チョコレートってこんなに甘かったっけ、と独りごちながら、ゴムベラを手に取る。







湯で熱されたボウルの肌に触れたチョコレートは、みるみるうちにぐにゃりと歪み、あっけなく形を変えていく。


彼に触れられたときの私の身体も、こんなふうに、あられもなく熱を帯び、柔らかく崩れ落ちる。


ふっと自嘲的な笑みが洩れた。

さっき火を使ったので、キッチンはわずかに暖かくなっていて、私の吐息はもう凍らなかった。



ゴムベラを差し入れて、溶けだしたチョコレートをかきまぜる。


思わず、きれい、と呟いた。

滑らかに艶めく、とろみのある赤みがかった茶色の液体。


鼻腔にこびりつくような、濃密な甘い香り。



チョコレートが溶けきったところで、紙袋から生クリームのパックを取り出す。


入れるべき分量はよく分からない。

調べていないから。


べつに、美味しく作ることなど、求めていないのだ。



パックの口を開けて、そっと傾けると、もったりとした白い液体が、細く細く流れ出してきた。



チョコレートの焦茶に、生クリームの純白が鮮やかな模様を描き出す。


半分ほどを注ぎ入れて、ゴムベラでかきまぜると、さっと染まるようにチョコレートが淡くなった。



混ざりきったところで、手を止める。


振り返って、戸棚の扉をあけた。


中から、二つの小瓶を取り出す。



一つは、バニラエッセンス。


もう一つは………毒薬。


―――彼を殺すための。




彼がここにやって来たら、手作りのチョコレート・トリュフを渡す。


毒薬入りのチョコレート。



彼は、来ないかもしれない。

今日はバレンタインデー。

向こうの女と過ごす可能性も高い。



彼は、食べないかもしれない。

甘いものは好きではないし、女の手作りの菓子を喜ぶような男でもない。

迷惑そうに顔をしかめて、「いらない」と冷たく答える可能性も高い。



それでも、もしも、

彼が今日、ここに来たら。


そして、私の作ったチョコレートを食べたら。



―――彼は死ぬ。


私の手で、彼が死ぬ。



唇を歪ませる笑いをこらえるのは難しかった。



どろどろに溶けたチョコレートの海に、バニラエッセンスを3滴。


それから、毒薬を、3滴。


それでは足りないかもしれないと思い直して、何度も何度も瓶を振り、空っぽになるまで続けた。


毒薬の瓶を置くと、笑えるくらいに軽い音がした。


致死量を調べておくべきだった、と少し思ったけれど、まあいい。


売人が『ほんの数滴で簡単に死ぬよ』と言っていたから、充分だろう。




チョコレートが滑らかに溶けきったところで、手鍋の湯をシンクに捨てて、代わりに水道水で満たす。

冷凍庫を開けて、ありったけの氷を入れる。


氷水の中に、チョコレートの入ったボウルをうずめる。

ゴムベラでかきまぜると、みるみるうちにチョコレートが硬くなる。


固まりきる前にボウルを氷水から外し、粘土のようなチョコレートを手で丸める。

平皿に敷いたココアの粉の上で転がし、冷蔵庫にしまう。


あとは、冷えて固まるのを待つだけ。


リビングに戻り、冷たい床に座る。

背筋にぞくりと寒気が走った。


窓ガラスにうつる自分の姿をぼんやりと見つめながら、ただ、ただ、ひたすら待つ。


来るか来ないかも分からない彼を、待つ。



彼と出会ってから、どれくらい彼を待っただろう。

彼を待った時間をぜんぶ合わせたら、何時間だろう。

何十時間――何百時間?



いつだったか、十年来の友人が、『人生を無駄にしてる』と言った。


『馬鹿ね……あんな男を待って。あんな男に尽くして。あなたは若さを、人生を、無駄にしてる』


そうよね、と私は答えた。

そう答えるべきだと思ったからそう答えただけで、少しもそう思ってはいなかった。


『早く別れなさいよ。それに、あっちの奥さんが可哀想よ、知らないところで旦那に浮気されてるなんて。人を傷つける恋愛なんて、絶対に自分も幸せになれないんだから』


友人の忠告に、そのとき私は、神妙な顔で頷いてみせた。

でも、心の中では苦笑していた。



わかってる、彼が酷い男だってことくらい。

わかってる、自分のしていることが世間的には許されないってことくらい。


でも、あなたにはわからないわ、と私は内心で蔑んだ。

にせものの恋しかしたことがないあなたにはわからないわ、と。


皆、退屈と孤独を紛らわすための相手を、消去法で探しているだけだ。

身近にいる人間の中で、手の届く範囲内で、自分の恋愛対象になりうる性別・年齢・容姿の者に狙いを定め、自分に好意をもつかどうかを見極め、条件に合えば行動にうつす。

それだけ。


―――私は、ちがう。

そんな、低俗で陳腐な恋ではない。


彼は、手の届かない場所にいる人だった。

出会ったとき、彼はすでに他の女のもので、私は彼を欲することさえ許されなかった。


でも、私は………彼が欲しくて、欲しくて、欲しくてたまらなかった。

どうしても彼が欲しかった。

彼に触れたかったし、触れられたかった。


彼以外は目に入らなくて、私の世界には彼しか存在しなくなった。

迷惑がられたって、突き放されたって、振り向いてもくれなくたって、私は盲目的に彼を追いかけつづけた。


やっとのことで、彼が呆れたように微笑んで、諦めたように触れてくれたとき、

私の世界は一瞬にして極彩色に輝きはじめた。


やっと私の人生が始まった、と思った。

これまでの人生はただの胎児期で、これからが私の本当の人生だと。