園田くんは、顔を覆ったまま、続けた。
「続かねえよな。続かねえって、なんか分かるもんな」
「そんな、こと……」
「ない、って? いや、ヒィも本当は分かってるよな。この奇跡は、永遠じゃない。必ず終わりがあるって」
園田くんの声が、潤んだ。
肩が、カタカタと震えている。
広い背中が、とても頼りない。
その背中に手を添えようとして、ひっこめた。
ぐっとこぶしを作って、膝の上に置く。
園田くんが欲しい温もりは、私じゃない。
しかし、園田くんは片手を伸ばして、私の手を掴んだ。
痛いくらい、強く。
遠い感覚じゃない、はっきりとした、園田くんの熱。
ああ、遠くの蝉の声が、うるさい。
こめかみから顎先に、汗が流れ落ちていった。
あまりにも近い熱が、私の思考をマヒさせる。
「ずっと傍にいて欲しい」
園田くんの熱っぽい声が、とても近くから聞こえる。
マヒした頭はその言葉をきちんと処理できない。
「ずっと、美月に傍にいて欲しい」
「……うん」
「だけど、分かってるんだ。それが、叶わないって」
掴まれた手が、痛い。
園田くんは、私の手を離したらどこかに流されてしまうんじゃないかというように、強く強く握りしめてきた。
『すげえ怖いんだ』
園田くんは、私たちの前で見せていた笑顔の陰に、深い不安を抱えていた。
美月ちゃん以外の、私に掴まりたくなるくらいに……。
どれくらい、そうしていたのか。
繋がった手は汗ばんで、熱がこもっていた。
今、園田くんの体の中にはたくさんの感情が溢れている。
それをゆっくりと吐き出すように、園田くんは深く息をついた。
それから最後に、小さく思いを落とした。
「どうして、死んだんだよ。俺を置いて、どうして死んだんだよ、美月」
「……あたしだって、死にたくなかった」
ふいに背中で声がして、びくりとする。そっと後ろを見る。
いつの間に目覚めたのか、美月ちゃんが体を起こしていた。
大きな瞳から涙をころころと溢れさせて、美月ちゃんは叫んだ。
「あたしだって、死にたくなんてなかった! ずっとあーくんの傍で生きていたかったよ!
でもしょうがないじゃない! あたし、死んじゃったんだもん!」
美月ちゃんの叫びは、園田くんの背中に届かない。
振り返ることのない園田くんの背中に、美月ちゃんはぎゅっと唇を噛んだ。
「ねえ、こっち見て! あたしのこと見てよ! 声を聞いてよ! ヒィ越しじゃなくて、あたしを見て!」
園田くんは、片手で顔を覆ったまま、動かない。
美月ちゃんがこれだけ泣いているのに。
これだけ、求めてるのに。
果たして、美月ちゃんが、あはは、と哀しく笑う。
「見えない、よね。分かってる。あたし、死んじゃってるんだもん。幽霊だもん……」
「美月……、なんで、死んだんだよ……」
「……あたし、ここにいるよ? あーくん」
「美月……」
「ここに、いるよ。まだ、ここにいる。だから、見て……」
ああ。
どうしてこんなにも、残酷なまでに、何も伝わらない。
「園田、く……」
「やめて、ヒィ!」
耐えきれなくなって声を掛けようとした私を、美月ちゃんの鋭い声が止める。
美月ちゃんは目を真っ赤にして、涙をボロボロ零して、そして首を横に振った。
「ヒィ、言わないで。今は、あたしのこと何も伝えなくっていい。言ったって、どうしようもないもん……」
美月ちゃんは、泣き咽びながら、言った。
「ここに長くいられないこと、あたしが一番よく分かってる。あたしはまた、近い未来、あーくんを置いていってしまう」
ぐっと唇を噛んだ。園田くんに掴まれたこぶしに力を入れる。爪が手のひらに刺さる感覚があった。
「あたしは、もう一度、死ぬ。そんなあたしが、今あーくんに何を言えっていうの……」
それとほぼ同時に、晴れ渡った空から小さな雨粒が降り注いだ。
「うわ! 雨だ!」
「やだなんで? 天気いいのに!」
通り過ぎていく人たちが、慌てて駆けだして行く。
狐の嫁入りだ。
夏の日差しを受けて、雨粒が煌めきながら街を彩ってゆく。
青い睡蓮の上にも、緑の葉にも、光の粒が降る。
花弁の上に、宝石をばらまいたように見えた。
とても綺麗で、幻想的な景色。
モネの絵画をそのまま現実にしたかのようだ。
でも、こんなの、いらない。
私、もうどれだけ綺麗な景色も、見なくていい。
だから、神様お願い。
私の目に映る美月ちゃんを、どうか園田くんに見せてあげてください。
彼女の声をどうか、園田くんに届けてください。
私が何かを引き換えにして、それが叶うというのなら、私はそれを差し出します。
だから、お願いします。
奇跡を下さい、どうか。
短い通り雨はすぐにいなくなって、空に大きな虹がかかった。
真っ青な空の中央にかかる綺麗なアーチ。
湖畔の木々や蓮の葉は、水滴をキラキラと反射した。
鮮やかな生の世界が、私の目の前に広がる。
それを見ながら、私の目からころんと、涙が零れた。
「ああ、神様って、すごくいじわるだね……」
やっぱり世界は綺麗だと思う自分が、哀しかった。
「ねえ、彼に伝えて」
4.自己満足と偽善と、確かな恋心
見てるだけでよかった
あの人が幸せそうに笑っていれば
私はそれだけで満足だったんだ
だって私は
あなたのことが
本当に好きだから
あれから、美月ちゃんは糸が切れたように眠りに落ちた。
私は最後まで、園田くんに彼女が起きていたことを伝えることができなかった。
私たち三人はとても近くにいるのに、思いは交わることが出来ないでいた。
「二時間経ったし、来たー。さっきの虹見た? すげえ綺麗だったよねー。って、あれ?」
ニコニコしながら現れた穂積くんが、ベンチでうなだれている私と穂積くんを見て、「何かあったの?」と訊いた。
「二人とも、なんて顔してんだよ」
「ごめん。俺、頭冷やしながら帰るわ。穂積、ヒィを頼むな」
園田くんはぱっと立ち上がると、そのまま自転車に乗って行ってしまった。
背中に穂積くんが声をかけたけれど、ペダルを漕ぐ足は止めなかった。
「なんだよあいつ。えっと今はヒィちゃんだよね。何があったのさ? っていうか、なんか泣いてない?」
「あ、うん。私は陽鶴。あっと、顔汚いよね」
鼻水を啜って、バッグの中からハンカチを取り出して目元を拭った。
「なんでヒィちゃんが泣くの」
「色々、あって」
「色々って?」
顔を拭いて、私は目の前に立つ穂積くんを見上げた。
「ねえ、どうしたらいいんだろうね、穂積くん」
もう、何から言っていいのかわからない。
この問題に明確な答えを見つけ出せる人はいるのだろうか。
「どうしたら、って?」
「美月ちゃんと園田くんには、もう奇跡は起きないのかなあ」
「……とりあえず、話聞くよ。えっと、美月ちゃんは寝てるの……って、寝てなきゃこんな話題ふってこないか」
「うん」
頷くと、穂積くんは私の横に腰かけた。
背もたれに体を預け、空を仰ぐ。
「とりあえず、これまでの経緯を順を追って教えてくれる?」
「ん……」
私は、すん、と鼻を啜って目覚めた時からの話を始めた。
「キス⁉」
けっこう最初の方で、穂積くんが大きな声を上げた。
「マジで⁉ ヒィちゃん、されたの?」
がしっと肩を掴まれて、顔を覗き込まれてびっくりする。
「いや、私であって私じゃなくて……。それに、してない」
「あ……よかった。そっか」
ホッと息をついた穂積くんがぎこちなく笑った。
「あの、話の重点はそこじゃないんだよね、穂積くん。
どうして園田くんがそういうことしたのかってところが大事で」
「いや、そこも大事だろ!」
きっぱりと言って、それから穂積くんはふっと口を噤んだ。
少しだけ考え込むように視線を彷徨わせて、それから私を見た。
手を伸ばし、頬に触れてくる。
穂積くんの手のひらが私の左頬を包んだ。
しかし、それも一瞬のことでぱっと離れた。
「な、なに? 穂積くん」
意味不明。
穂積くんは、私の頬に触れた手を確認するように何度かグーパーを繰り返して、「うん」と言った。
「……まあ、杏里の気持ちがわからない、とはいえないや。わかるわ、俺」
「どういうこと?」
私の頬に触れて、何が分かるっていうんだ。
眉根をきゅっと寄せると、穂積くんは少し笑った。
「触れるって、大切なんだってこと。やっと好きな子に触れられると思ったら、そうしたくなるよ。外見なんて、関係ないかもしれない」
「それは、園田くんも同じようなこと言ってた。あと、キスしたら、奇跡が起きるんじゃないかって……」
「奇跡、な。うん、願っちゃうよな。だって、もう既に起きてるんだもん。もう一回くらいって、思うよ」
「園田くんね、そういう奇跡とかを考える自分を欲張りだっていうんだ。でもそれは、欲張りなんて感情じゃないよね」
「ああ、それはもちろんだ」
好きな人を想う心を、誰が欲張りだと責めるだろう。
もっと傍にいたいというのは『欲』なんかではなくて、『願い』だ。
それはとても、純粋な願い。
キラキラした、綺麗なものだ。
「そのあとね。美月ちゃんが、いつまでこうしていられるのかって話をしたんだ……」
「……ああ。それか」
穂積くんが、ふうとため息をついた。
「まあ、いずれは辿り着く問題だよね。だって、美月ちゃんは、幻のお姫さまになっちゃったから」
あえて『死』という単語を使わない穂積くんの優しさは、今の私の胸に滲みた。
「うん……。ホントだね、幻のお姫さまだ」
「これが童話の世界ならよかったのにな。そしたらみんなに愛されたお姫さまは必ず生き返って、王子さまと幸せになれるのに」
「うん……」
ああ、ダメだ。涙が出てしまう。
私の涙腺、壊れてしまってる。
簡単に、バルブが緩むんだ。
「でも、これが現実なんだもんね。お姫様は誰にも見えないし、声も聞こえない。王子様にも見えなくて、そして、生き返るなんて魔法は起きないんだよ。私はここが現実だって知ってる」
こんな残酷な童話があるわけない。
ここはどうしようもない、現実だ。
ず、と鼻水を啜ると、ポン、と頭に手がのった。
横に座る穂積くんが、ゆっくりと私の頭を撫で始める。
「ヒィちゃんは、辛いよなあ。二人の擦れ違いを、一人で目の当たりにしてるんだもんな」
「私は、いいんだ。ただせめて、私の目も耳も、園田くんにあげられたらよかったのにって、思う……」
視覚も、聴覚も、あげる。
そうしたら、少しくらい、二人の距離を縮めることが出来るよね。
さっきみたいな擦れ違いだけは、避けられるよね。
ああ。
だから、何度だって、思う。
美月ちゃんが見えるのが、私じゃなくて園田くんだったら。
声を聞けるのが、園田くんだったら。
どうして、私なの。
ぐずぐずと泣いている私の横に、穂積くんは黙って座っていた。
それから、私が少し落ち着いた頃、口を開いた。
「俺は、杏里が美月ちゃんを見えなくて、よかったと思うよ」
「どうして?」
「ヒィちゃんっていうクッションがあるから、杏里はまだ冷静でいられるんだと思う」
クッション?
私がそんなものになっているとは、思えない。
涙で濡れた目で穂積くんを見たら、彼は優しく笑った。
「杏里にだけ見えていたら、杏里と美月ちゃんの二人で世界は完結してしまう。それはきっと、杏里にとってよくないよ」
そうなんだろうか。
私には、正解が分からない。
園田くんと美月ちゃんが笑いあえないままよりはいいんじゃないかと、思ってしまう。
「あと、ヒィちゃんだけが美月ちゃんを視れるのには、意味があるんだろうなって俺は思う」
「意味って、なに?」
「まだ、きちんとは分からない。だけどきっと、あるよ。俺はそう思えて仕方ない」
「本当?」
「うん、本当。だから、自分を責めないで。ヒィちゃんは何にも、悪くない。君は、出来ることを精一杯してる」
「そう、なのかな」
私は、もっとできるんじゃないかな。もっと、もっと。
だけど、穂積くんは私の頭を撫でる手をますます優しくして、言う。
「そうなの。だから、ほら、少し笑って。ヒィちゃんは、笑ってる方がいい。ああそうだ。さっき散歩してるときに、美味しそうなカフェを見つけたんだ。好きな物、食べさせてあげる」
「え、本当?」
「何でもいいよ。陽鶴ちゃんは、何が好き?」
立ち上がった穂積くんが、私に手を差し出した。
「えっと、ねー」
言いながら大きな手のひらに自分の手を重ねようとして、私は手を止めた。
ぱちんと何かが破裂するように、瞬間的に、私は理解した。