葵、ともう一度名前を呼んだ。
「ありがとう」
満足気に笑った彼女にずっと伝えたかった言葉を伝えると、彼女はぼろぼろとその瞳から涙を零したのだった。
「な、なにそれ、不意打ちは卑怯だ……っ」
「……」
「っていうか私まだお礼言われるようなことしてないし、真央くんが抱えてるものの重さを知らないよ……っ」
「いや、……もう、退部、する」
「へ!?」
途切れ途切れに答えると、素っ頓狂な声が返ってくる。
もしかして私がいなかった間に自力で解決してたの、と頭を抱えた彼女はすっかり涙が止まってしまったようだ。
たった今、紛れもなく彼女が戻ってきたおかげで彼は声を取り戻すことができたというのに、まだまだ自己評価の低い彼女はそのことに気づいていないらしい。
困惑している彼女の頭にタオルを乗せれば、ようやく自分がびしょ濡れだったことを思い出したようで、くしゃみをしながら拭いていた。
「え、あ、っていうか! さっき日向先輩に会ったらこの二週間くらい洗濯部が回収来てないって言ってたんだけど、さぼってたの?」
「……」
「え、なに? なんで?」
壁に飾る用の彼女の似顔絵が、どうしても上手く描けなくて何度も描き直していたから。
そう正直に言えば、さすがに引かれるだろう。その質問には無言を貫いて、さっさと部室のドアのほうへと向かった。
五号館の玄関に出ると、いつの間にか雨は止んでいた。
まだ雲の残る空は綺麗な夕焼けをしていて、遠くに虹が架かっていた。
「ねえ真央くん、一つ約束をしませんか」
隣に立つ彼女が不意に口を開く。
じっとその顔を見下ろせば、彼女は同じように彼を見上げる。
「ここを出て洗濯部の部員じゃなくなっても、他愛のない話をしたり、お茶をしたり、たまに一緒に帰ったりするような友だちでいてくれませんか」
「……友だち」
「うん、友だち」
一点の曇りもない彼女の瞳に、溜め息を吐きそうになって寸でのところで止めた。
「……まあ、今のところは」
「え、友だちになるの嫌だった!?」
「いいよ、それで」
前を向いて生きていれば、いつかきっとこの関係を発展させることができるのかもしれない。
そう思えるくらいに、清々しい風が吹き抜けていく。
せーの、で彼女と一緒に踏み出した一歩は、可能性に溢れた未来への一歩だった。
月 日
ただ、君にこの言葉を伝えたかっただけなんだ。
ありがとう。
その日以降何も書かれていない日誌を、パタンと閉じた。
誰もいなくなった五号館二階奥の空き教室。
“死にかけ”ばかりが集うと噂されているそこは、ある人に言わせれば一時避難所であり、ある人に言わせれば更生施設である。
そんな部活の顧問を任されたとき、生徒たちから魔女先生と呼ばれている養護教諭は、そこが“死にかけ”たちの居場所になってほしいと思った。
人は人からの影響を、良くも悪くも受けている。
多感な時期の彼らが“洗濯部”の部員として関わり合うことで、何かが生まれていくのではないかと考えた。
たくさんの生徒がここで成長していく姿を見守ってきた。
明るい表情でここを出て行く姿にやりがいを感じてきた。
ベランダでは、保健室で使う白いシーツがはためいている。
絵が飾られている壁側の窓を開けて、大きく息を吸い込んだ。空は快晴。夏の匂いがしている。
「洗濯日和、だなあ」
登校してくる生徒たちを見下ろしながら呟けば、その声は楽しげな色がしていた。
今日も、君たちの一日が晴れやかなものでありますように。
―fin―
こんにちは、はじめまして、お久しぶりです、梨木れいあです。
いつか書きたいと思い続けていた“洗濯部”の話をこうして書き切ることができて、超絶ほっとしています。
自分が高校生のときに「こんなちょっと変わった部活あったら面白そうだな~」と思っていた設定に、肉付けして肉付けして肉付けして出来上がったのが、この作品でした。
個人的な話になりますが、この作品を執筆しているとき教育実習に行ったり教員採用試験を受けたりしてまして、その勉強をしている中で気になったのが、子どもの自殺に関する資料といじめに関する資料、そして無気力に関する資料でした。
高校生の約6割が「死にたいと思ったことがある」と答えているアンケートなどもあって、すごく衝撃を受けつつも「確かに私も思った時期があったかもなあ」と考えていました。
本当に亡くなってしまう前にもう一度考え直すような場所があればいいのに、ということでちょっと変わった部活だったはずの洗濯部はかなり変わった部活へと変貌を遂げました(笑)
そうそう、今回は節タイトルをすべて天気俚諺にしてみました!
昔の人はこうした日常の中から天気を予想していたのかと思うと、何だかとっても楽しい気持ちになります〜!
洗濯部の部員の成長を、わくわくしながら見守っていただけたのであれば本望です!
では、また、いつか会える日まで!
最後までお付き合い、ありがとうございました!
2016.08.31 梨木れいあ
中学時代の失敗がきっかけで人と関わることが苦手な葵は、掲示板に貼られていたポスターに導かれて“洗濯部”に入部した。そこにいたのは“死にかけ”の部員たち。
男性恐怖症の幼なじみと話すために女装している紫苑先輩の抱えていた問題を解決へと導いたことで、葵は自分の存在価値を感じ始める。走ることができなくなった元陸上部エースの日向先輩が再び走り出した姿に影響を受け、自分も殻を破ることに成功した葵は、洗濯部を退部する。しかし、部室のある五号館は本来存在せず、戻って来ることができない場所だった。
葵はたった一人洗濯部に残してきた、複雑な家庭環境にあり声が出ない真央くんのことを救うため、もう一度“死にかけ”に戻る。実は昔、葵に救われたことのある真央くんは「ありがとう」と伝えられなかったことを後悔していた。想いを伝え合い、互いに前を向いて生きていくことを約束した葵と真央くんは、また新しい一歩を踏み出した。