『神様の居酒屋お伊勢』購入者特典SS
梨木れいあ/著

番外編SS『酔っ払いトヨさんと照れ隠し』

「つっかれたあああ」

一月の中旬、夕方六時。

伊勢神宮の参拝時間が終わると同時に『居酒屋お伊勢』へやって来たトヨさんは、いつものカウンター席で突っ伏した。


「いらっしゃい」

すかさずそう言って出迎えた松之助さんは、私に目配せをする。

神様たちの集まる居酒屋で働き始めて一週間。松之助さんの指示が少し予想できるようになってきた私は、お冷とおしぼりをトヨさんに出した。

何も言ってこないということは、これで正解だったのだろう。


「いらっしゃいませ、トヨさん。寒かったんじゃないですか?」

「風が冷たすぎて痛いくらいだったわ」


ホカホカと湯気の立つおしぼりで手先を温めながら、トヨさんは肩を竦めた。

確かに今日は風が強かった。さっきもみぞれのようなものが降っていたし、今夜はとても冷え込みそうだ。


「松之助、ビールと唐揚げお願いね」

「はいはい」


しかし、どれだけ寒くてもトヨさんの食べたいものがブレることはないらしい。この一週間ずっと聞き続けた注文を受けて、松之助さんはさっそくビールを注ぎ、ジョッキをトヨさんに渡す。

「ありがと」と受け取って、そのまま流れるような動作で口をつけたトヨさんは、ゴクゴクと喉を鳴らした。


「あーっ、しみるわ」

「見ていて気持ちいい飲みっぷりですね」

「相変わらずやな」

松之助さんは少し呆れたように笑って、冷蔵庫から鶏肉を取り出す。唐揚げの調理にうつるみたいだ。


まずは慣れることから、と指示をもらっている私に今できる仕事はもうない。とりあえず調理の邪魔をしないように気をつけよう。

そう心に決めて、よし、と意気込んでいれば「ふふ」とトヨさんの笑い声が聞こえた。


「馴染んできたわね、莉子」

「え?」

「私があげた作務衣もよく似合ってるわ」

どこか満足気にトヨさんは目を細める。


「あ、……ありがとうございます」

褒めてもらえたことがなんだか気恥ずかしくて、私は小さく頭を下げた。


“馴染んできた”とトヨさんに言ってもらえるほどのことはまだ全然できていない。でも、少しでもそう見えたのだとしたら、それはきっとこの店の雰囲気が優しいからだろう。

私自身は新しい環境に順応するまで、わりと時間を要するタイプだけれど、ここではすでに居心地の良さを感じている。

神様相手というなかなか信じがたい状況を受け入れることができたのも、お客さんたちの明るさや松之助さんの面倒見のよさがあってこそだと思う。


「みなさんが本当に良くしてくださって、助けてもらっています」

素直な気持ちを言葉にすると、トヨさんは「あら、それならよかったわ」と微笑みながらまたビールを呷った。


「それはそうと、莉子」

「はい?」

「仕事以外で困ってることはない?」

ドンとジョッキをカウンターに置いて、改まった口調で尋ねてきたトヨさんに首を傾げる。


仕事以外と言われて、パッと思いつくものがない。

「えーっと」

「たとえばね、着替えてる途中に同居人が偶然を装って部屋に入ってくるとか、下着がなくなるとか……」

戸惑っている私に、トヨさんは声をひそめる。

松之助さんとの同居を心配してくれているのだろうか。いや、それにしては顔が笑っている。


「誰が下着泥棒や」

完全に面白がっていたトヨさんを遮ったのは、松之助さんだった。

出来たての唐揚げを手に、不機嫌さを前面に押し出した顔をしている。


「あら、聞こえてた?」

「ばっちりな。撤回しやんと唐揚げあげやんで」

「ひゃ~、それは困るわ! ごめんごめん」

軽く謝ったトヨさんに松之助さんはため息を吐きながら、むすっとした表情で唐揚げを置いた。


「莉子も早めに否定しといて」

「すみません、頭の中で一軍のパンツを数えていまして」

「数えやんくていいから」

咄嗟に言い訳をすると、松之助さんは苦笑いを浮かべる。


「トヨさん、松之助さんもこんな感じで良くしてくださるので、困っていることは特に思い当たらないです」

大好物の唐揚げをさっそく頬張っているトヨさんにそう答えれば「そう」と頷きが返ってきた。


「ここに住むことを勧めたのは私だし、心配してるのは本当だから。なにかあったらいつでも言うのよ」

「はい」

「まあさっきのは冗談で、松之助なら若い子に手を出す度胸もないだろうから、そのへんも大丈夫だとは思ってるんだけどね」

「おい」

ケラケラと楽しそうなトヨさんに、松之助さんはすかさずツッコミを入れる。つられて「んふふ」と笑い声を漏らせば、隣からは大きなため息が聞こえた。


「不名誉な信頼のされ方やな」

「でも、大体当たってるでしょ~?」


松之助さんの眉間のシワが深くなるのを見て、トヨさんはジョッキ片手に嬉しそうだ。

そろそろ止めたほうがいいかな。そう思って口を開きかけたとき、ガラッと引き戸の音がした。


「よっす、まっちゃん莉子ちゃん!」

「いらっしゃい」

「い、いらっしゃいませ」


常連のおっちゃんたちが入ってきたことで会話は途切れ、松之助さんの表情が緩む。

私はホッとしながら、客数分のお冷とおしぼりを座敷のほうへ運んで、注文を聞き、再びカウンターへ戻る。

松之助さんに注文を伝えて、ひとまず自分の仕事が落ち着いたことに息を吐いていれば「莉子」とトヨさんに呼びかけられた。


「安心してね」

「え?」

何を、だろう。

首を傾げて続きを促すと、トヨさんはちらりと松之助さんに視線を向けてから、声をひそめた。


「松之助は、人の嫌がることはしないから。信頼してるの」

「……本人にもそうやって言えばいいのに」

「だって、ちょっと恥ずかしいじゃない」

素直じゃないトヨさんはそう言って、残っていたビールをすべて飲み干した。「おかわり」と空のジョッキを掲げたトヨさんに苦笑しつつ、ジョッキを受け取る。


「大丈夫ですよ、トヨさん。松之助さんが信頼できる人だってことは、ちゃんと分かってるので」

そうじゃなきゃ、きっとこんなに温かい雰囲気のお店にならないだろう。

わいわいと盛り上がり始めた座敷の声を聞きながら答えると、トヨさんはふわりと頬を緩めた。


「莉子、これ持ってって」

「あ、はい!」

返事をして松之助さんのもとへ向かえば、さっき座敷で注文を受けた品が用意されていた。


「座敷ですよね」

「うん。そうなんやけどさ……」

お盆ごと受け取ろうとしたものの、なにやら松之助さんの歯切れが悪い。どうしたのかと視線を上げると、松之助さんの両耳が赤くなっている。


「もしかして、さっきの聞こえてました?」

「あー……」

「……照れてるんですか?」

「照れてない」


音量は落としたはずだったけれど、トヨさんとの会話はばっちり松之助さんの耳に届いていたらしい。茶化すように問いかけると、ムッとしたような声が返ってくる。


「褒められるの、慣れてないだけやから」

言い訳のように呟いて、お盆を渡してきた松之助さん。

これはトヨさんがからかいたくなる気持ちも分かる。


「世間ではそれを照れてるって言うのでは……」

「うっさい」

はよ持ってって、と指示を出して照れ隠しをする。そんな松之助さんにギャップを感じて、不覚にも一瞬ときめいてしまった私は、「はあい」と返事をしてニヤニヤしながら座敷へと向かうのだった。


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