『ご懐妊!!』購入者特典SS
砂川雨路/著

番外編SS『それはすべてが始まる少し前』

「あ」

階段を降りたところで足を止めてしまった。


私の目的地は自販機。本日納期の仕事に疲れ果て、甘いカフェオレでも飲もうかなとオフィスから階下に降りてきたところ。

自販機の先の中庭、屋外喫煙スペースに、タバコを吸わないはずの人がひとりいる。うわ、しかもあいつだ!


我が社、アプローズ株式会社は大きくはないけれど業績良好な広告代理店。ほんのひと月前、この会社に転職してきた私にとって、目の前にいる人間はあまり仲良くなれそうもない存在だった。


上司、一色禅。

二十代後半だけど、すでにこの会社では部長職に就いている男だ。


どうしよう。自販機を使ったら、音でこっちに気づくよね。そうすると、今日納期の看板デザインはどうなったーっ、サボってる場合かーってまた怒られる。

うう、やだ怒られたくない。この件で、すでに二回怒られてるんだもの。


一色禅は、俳優みたいなイケメンなのに、とにかく厳しい上司だ。

私が仕上げたデザインは、客先より一色部長にリテイクを食らうほうが多い。納期がギリギリでもクオリティは限界まで要求され、文句を言おうものなら、ひと睨みされてから百倍くらいのお説教が返ってくる。その迫力たるや。とにかくいちいち怖い。鬼だ、鬼。


そうだ、こんなところで一色部長と鉢合わせなんて、仕事のテンションに関わる。カフェオレを買うのは後にして、出直すことにしよう。


ところで、一色部長は空なんか眺めちゃって、どうしたんだろう。片手にブラックコーヒーを持って、普段よりぼんやりしているように見える。

いやいや、気にしないでおこう。自分から会話したい相手じゃない。関わらないのが吉。

踵を返そうとしたら、手からお財布がこぼれ落ちた。

どさっという音に部長がこちらを見る。半分開いたガラス戸の向こうから、私の姿を確認したようだ。ま、まずい。


「梅原佐波、何をやってる」

低い声で尋ねられ、頬をひくつかせながら笑う私。

「えっと、……カフェオレを……飲もうかと」


サボるな!と怒られるかと思ったら、部長はつかつかと屋内に入ってきた。自分の小銭入れからお金を出し、自販機に入れる。

「これか? この甘いの」

「へ、へへえ」


まさかのおごりに、変な返しをしてしまう。

あれ? 怒らないの?


「ほら、飲め」

「あ、ああ~、ごちそうさまです」

「疲れたんだろ。俺もだ。少し休憩してる」


部長がまた屋外の喫煙スペースに出て行くので、なんとなく私も後を追わなければいけないような気分になる。

というか部長、『疲れてる』って言った? 空耳じゃないよね。いつもサイボーグみたいな完璧男が、疲れたりするの?


「部長、今日納期の件はあとちょっとで仕上がりますので!」

「俺が納得するかはわからないぞ」


彼が納得しなければ、私は家に帰れないだけだ。ぞっとしながら、一刻も早く仕上げようも思う。リテイクの時間も考えたら、こうして休んでいる暇はない。


「まあ、それはそうと、少し休め。頭がすっきりしないと、満足いく仕事はできない」

「はあ」


私は部長の横に並んで立ち、さらには一緒に空を見あげてみた。


「部長も頭をスッキリさせてるんですか?」

「概ねそんなところだ」

「今日の打ち合わせ、うまくいきませんでした?」

「馬鹿野郎、俺が失敗するわけないだろうが」


で、ですよね。無神経な質問が地雷を踏んでしまったかしら。しかし、部長は特に怒っているわけじゃなさそうだ。


「うまくいってても、失敗しても、休憩は平等に必要だ」

「ええ、その通りかと」

「だから、梅原がどれほど仕事が遅く、小さなミスやそもそもの思い違いが多くても、おまえに休憩する権利はある」


嫌味、頂戴しました。

うええん、やっぱりこんな人と並んで休憩すべきじゃなかったよう。

はあ、早く終わらせて帰りたい。ビールを飲みながら、するめをかじって、だらだら録画したドラマを見たい。二十五歳女子の余暇にしてはおじさんくさいかもしれないけど、いいじゃない! ビール大好きなんだもの。焼酎も日本酒もウイスキーも好きなんだもの。


「はあ、ビール……」

思わず口から願望が漏れてしまい、慌てて口を押さえた。真昼間、嫌味を言われながらお酒のことを思い浮かべる部下ってどうよ。

案の定、部長は横で怪訝そうな顔をしている。すると、次にその表情が変わった。厳しい視線がなんとなく緩んだというか。


「梅原、そういえばおまえ酒が強かったな」

部長と飲んだことは……、ああこの前の歓迎会だ。確かにそこそこは飲んでいたけれど。


「あの、強いというほどではないです。人並です。ただ、好きなだけで」

「いや、充分飲んでいたぞ。おまえも見ただろう。うちの部署の連中はそろいもそろって下戸ばかりだ。甘いカクテルやチューハイばかり頼んで。飲み放題で元を取る程度に飲んでいるのは俺くらいだぞ」


いったい、何を威張っているんですか。しかし、急に仕事以外のトークになったので、ちょっと面白くなってきた。


「一色部長、確か日本酒飲んでましたね。お酒、お好きなんですね」

「まあまあだな。得意先が飲める人間ばかりで、必然飲むようになってしまった」


若くして部長なんて役職を与えられている彼だ。得意先の年上の担当者たちと渡り合うために、仕事以外でも工夫しているのだろう。お酒のコミュニケーションもそのひとつなのかもしれない。


「梅原が入ってきてくれてよかった。飲むヤツが増えれば、『飲み放題はつけなくていいですよね』なんて言いだす人間が減る」

「そんなこと言われてるんですか?」

「弾圧だ、弾圧。飲める勢が駆逐されてしまう」


真顔で言うので、思わず吹き出してしまった。

なんだか、面白い人だぞ。こういう面もあるんだなあ。っていうか、いつもこのくらい面白くていいんだけど。


「次の飲み会から、おまえの飲む分は俺が注文しておく。アルコール消費に役立て」

「ええ~? そんなに強くないんですから、嫌ですよ。部長のペースで頼まれても困ります」

「そう言うな。ペースは考えてやる」

「というかお酒は自分で選びたいです。ビール気分の時にハイボール持って来られても嫌じゃないですか」

部長がおお、という表情で私を見た。


「意外と自分の意見を言うんだな。もっと大人しいヤツなのかと思ってた」

「入社ひと月ちょっとですから。そりゃ猫被ってますよ」

まあ、あとはあなたが怖いので萎縮してるんですけどね。


部長がふっと微笑んだ。その表情は、びっくりするくらいイケメンで、今のひとコマだけきり取ったらドラマのワンシーンみたいだ。

一瞬見とれていると、部長が笑顔のまま言った。

「梅原、面白いな。よし、今日納期の仕事を片付けたら飲みに連れてってやる」


え? ええ? ふ、ふたりきりで?

言葉にならずに驚いていると、あっさり部長が付け足す。


「和泉さんのグループも今日納期の案件があったはずだ。声をかけておく。梅原、俺の奢りでビールが飲めるチャンスだぞ。気合い入れろ」

「は、はい!」

よかった、ふたりだったら間が持たなかった。こんなイケメンとふたりきりで飲む機会はきっとないだろうけれど、それでもよかった。うん、残念じゃないぞ。


「じゃあ、戻るか」

「そうですね」

部長の後ろにくっついて喫煙所を後にする。階段をのぼりながら、部長の背中を眺めた。


怖い上司だと思ってた。なんでこんな男に多くの部下はついていくのだろうと思ってた。

きっと、みんな彼の面白い部分を知ってるんだ。私は今日、初めて片鱗を見ただけだし、いきなり彼への恐怖感がなくなるわけじゃないけれどね。


よし、ひと仕事終えて、今日はたっぷり奢ってもらっちゃおう。

私は部長の後ろで、小さくガッツポーズをした。



(おしまい)

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