『初めましてこんにちは、離婚してください』購入者特典SS
あさぎ千夜春/著
番外編SS『夫婦らしいこと』
「ただいま」と声をかけて部屋に入ると、リビングの床のあちこちに、白い紙がちらばっていた。
俺は持っていたバッグをソファーの上にのせて、紙を一枚ずつ拾い上げる。
素描というのだろうか。白い紙に鉛筆で書かれた百合のデッサンは、素人目に見ても驚くほどうまい。本当によく描けている。
絵に全く興味がない俺だが、こんな素晴らしい絵が描ける俺の妻は、世界一じゃないか?と思うが、あまりそういうことを言うと彼女に叱られるので、心の中でつぶやくだけにしている。
俺――IT企業のCEOである高嶺正智の妻、莉央は新進気鋭の日本画家だ。
世界的に有名な日本画家である設楽桐史郎の唯一の弟子としても有名だが、そんなこと関係なしに、莉央の描く絵が俺は好きだった。
ちなみに副社長で親友の翔平なんかは、俺のことを『恋をしているドーベルマン』だなんて気持ち悪いことを言うが、正直当たらずとも遠からずだと思う。
俺は莉央にしか興味がないし、彼女に近づく異性はみんな俺の敵である。
結婚して11年だが、一緒に暮らし始めて1年とちょっと。
気分は新婚だし、なんなら俺は毎日彼女のことを好きになっている。彼女に夢中で、とにかく莉央のことが好きで好きでたまらないのだ。
そんな最愛の妻の姿を探す。
「莉央」
部屋の中を見回しても描いた本人の姿がない。
もしかしたらと、莉央の部屋のドアをそっと開くと、彼女はうずくまるようにして眠っていた。
ローテーブルの上に百合の花瓶があり、当然この部屋も素描の紙であふれかえっている。
(いつもの電池切れだな……)
莉央は集中しているとき寝食を忘れて絵に没頭するので、エネルギーが切れるとそのままことんと眠ってしまうという悪癖がある。
最初は死んでいるのではないかと飛び上がらんばかりに驚いたが、何度注意しても直らないので、そういうものなんだろうと今は納得している。
「莉央」
ゆっくりと抱き上げてベッドに寝かせる。
頬にかかるさらさらの黒髪を手のひらではらって、枕の横に流した。
ベッドサイドに腰を下ろしてじっと莉央を見つめると、胸のあたりがゆっくりと上下していて、『俺の妻が息をしている!』と妙に嬉しくなった。
たまらなくなって莉央の唇に口づける。
ちゅ、と音がして、柔らかい感触に胸がいっぱいになる。
そのまま何度か方向を変えてキスしていると、
「ん……」
莉央が身じろぎして、ゆっくりと目が開いた。
「あれ……まさ、とも、さん……」
少しかすれた声もまたセクシーだ。死ぬほどかわいい。
「ただいま」
「――あ」
莉央は少しまぶしそうに眼を細めた後、上半身を起こし、ゆっくりと壁にかかっている時計を見た後、「ごめんなさい」とつぶやいた。
「なんで謝るんだ」
「また私、寝ちゃってて……ごはん……してない」
ひどく申し訳なさそうだ。眉の端がしょんぼりと下がってしまった。悲しい顔をしないでほしい。俺まで悲しくなってくる。
「べつに食事なんてシリアルでもいい」
莉央がうちに来るまで、シリアルとプロテインと翔平からもらうゆで卵で生きていた俺だ。そもそも一食くらい食べなくとも平気だ。
だがそれを聞いて莉央は、「よくない」と、つぶやいて唇を尖らせた。
「私があなたに奥さんらしいことできるのって、それくらいなんだもの」
そして莉央は両手でぱちぱちと自分の頬を叩いて、さっとベッドから降りた。
「すぐに作るから、正智さんはお風呂に入ってね」
根がまじめな彼女らしい言葉だが、
「一緒に入りたい」
風呂と聞いて、俺は即座にそう言っていた。
彼女の手をつかんで俺も立ち上がる。
「食事はあとでいい。まず一緒に風呂に入ろう」
俺が莉央の額に口づけると、莉央は「もうっ……」とあきれたように息を吐きながら、それでも素直に俺の胸に顔を寄せた。
莉央の長い髪を洗うのが好きだ。
一度も染めたことがないという艶やかな黒髪は、人によっては重く見えるだろうが、莉央の白い肌にはよく映える。
莉央の頭をマッサージするようにして洗い、トリートメントまでしっかり仕上げて終了だ。タオルでまとめた後、一緒にバスタブに身を沈める。
莉央は俺の足の間にすっぽりと収まって、背中を預けて目を閉じている。
初めて会ったころは全くなつかない子猫みたいだった莉央のことを思うと、リラックスしてくれている今の状況が夢のようだ。
首筋や肩、腕を軽くマッサージするようにもんでやると、莉央が「はぁ……」とほどけるようなため息を漏らして、また嬉しくなった。
風呂上がりに髪を乾かしおえたところで、莉央が妙にまじめな顔をして俺の腕をつかんで、ぎゅっと抱きしめてきた。
「私……正智さんに、迷惑ばっかりかけてる……」
莉央がぽつりとつぶやく。
今日はやたら寝落ちしてしまったことを気にしているようだ。
「迷惑だなんて思ったことは一度もない」
莉央は申し訳なさそうだが、むしろ莉央の世話ができるなんて、俺にとってご褒美である。
「でも、奥さんらしいことあんまりできてないから」
「奥さんらしいことなぁ……」
俺は抱きついてきた莉央を正面から抱きしめ返すと、耳元に顔を寄せる。
「正直、莉央が生きてるだけで100点だ」
「もう……あなたはすぐそうやって私のこと甘やかす」
莉央は苦笑して、それから力を抜いて俺の体に身を寄せる。
「ありがとう、正智さん。あなたは本当に優しいのね」
寄り添う体の熱がたまらない。
彼女から向けられる信頼と愛情を感じて、突然、欲望に火をつけられた気がした。
「――ありがとうも嬉しいけど、それより嬉しい言葉がある」
「なに?」
莉央がきょとんとした顔で俺を見上げる。
「――めちゃくちゃにして」
「え?」
「なにも考えられないくらいにあなたに愛されたい……って言ってほしい」
俺の欲望丸出しの言葉に、湯上りの莉央の顔がパーッと赤く染まる。
「もう、あなたって人は……」
だが莉央は俺から離れていかなかった。
そっと俺の着ているルームウェアの胸元をつかんで引き寄せると、熱っぽい眼差しで俺を見つめてささやいた。
「私を、愛して……」
その瞬間、腹の底にカッと熱が集まる。
「喜んで」
俺はそう答えながら、莉央に口づける。
もちろん、メシなんか食っている暇はなくなってしまったのは言うまでもない――。