ガシャン‼︎
小さな振動と大きな音にふと目を覚ます。
「大丈夫⁉︎」
可愛らしい女性の声がぼんやりとしている意識を現実に戻してくれた。真っ暗だった視界が眩しいくらい明るくなり、状況を把握するまでかなり時間を要した。
ゆったりとした心地好いピアノの音。
甘い空気とコーヒーのよい香りが漂う店内で。
なにかを持った格好のまま立ち尽くしている状態を考えるに、足もとで無惨なことになってしまっている白いコーヒーカップは、自分のせいで割れてしまったのだと確信する。
「あ、れ……俺、ここでなにして?」
「ええっと、本当に大丈夫?」
その場にしゃがんで割れた破片を一枚ずつ慎重につまんで重ねながら、その子は心配そうに見上げてくる。亜麻色のふわふわの長めのショートボブ。緑色の大きな瞳。可愛らしい制服姿が視界に映る。
愛されキャラの特徴をぎゅっと閉じ込めたかのような、可愛らしいキャラデザ。ゲームの宣伝用PVやキービジュアルで何度も繰り返し目にした、あの乙女ゲームのヒロインが目の前にいる!
「ふたりとも。怪我をしたらいけないから、一旦離れようね」
騒ぎを聞きつけてホールからカウンター越しにこちらに声をかけてくれたのは、楽しみにしていた乙女ゲーム【Cafe:iRiS】の攻略対象キャラのひとり……。
(え? ええっ⁉︎ 雨月 葵? ……いやそんなわけないよな。ああ、なんだ夢か)
思い切り頬をつねってみるも、痛みが残った。
つまり、ここは……言わずもがな。
「ええっと……バイトくん、本当に大丈夫? 調子悪いなら奥で休む?」
せっかく推しキャラが柔らかい口調と大好きな声で話しかけてくれているにも関わらず、ましろは呆然と立ち尽くしたまま完全に固まっていた。
変な汗が背中をつたうような、ざわざわとした感覚が止まない。不意にフラッシュバックするかのように、階段で足を滑らせて身体が宙に浮かぶ光景がコマ送りで浮かんだ。あの後、自分はどうなったのだろうか。
まさか、死……?
(ちょっと待って! だとしてもなにこの状況⁉︎)
気付いたら乙女ゲームに転生? っていくらなんでも妄想が過ぎるだろう!
(けど、……転生? っていったい誰に?)
ましろは慌ててガラス窓に映る自身の姿を目にして、首を傾げる。
「俺、誰?」
こんなキャラ、いたか?
もしかしなくても、ただのモブキャラ?
元のキャラデザがいいせいか、モブキャラだけどわんこ系の可愛らしい容姿ではあるけども。
「雨月さん! 後輩くん、やっぱり大丈夫じゃないみたいです!」
「そうみたいだね。もうすぐ開店なのに困ったな。とりあえず朱莉ちゃんはホールで、回らなそうだったら俺も出るよ。バイトくんは少し休んでもダメそうだったら、今日は早退してもいいよ。斎宮さんには俺から話しておくから安心して」
二人とも一度も名前を呼んでくれないのがその証拠だ。バイトくんに後輩くん。もしかしてこのキャラ、名前すらないのかもしれない。
「だ、大丈夫です! やれます! ちょっと思考が追いついていないだけなんで!」
この際、モブでも名無しでもなんでもいい!
推しキャラとヒロインがどのように恋愛ルートを確立するのか、目の前でそれを観察できるオタク心の方が勝っていた。これが夢オチだったとしても、どうすることもできない。とにかく今は流れに身を任せるしかないのだ。
「そう? 無理はしないでね。じゃあ、お客様も並んでいるようだし開店するよ。準備はいいかい?」
「はい、よろしくお願いします」
「は、はい!」
りんりん、と綺麗な鈴の音が店内に響く。
乙女ゲームを買いに行っただけなのに、どうしてこんなことに……。こうしてなにもわからないまま、モブキャラとしての物語が始まってしまったのだった。



