【Cafe:iRiS 】〜乙女ゲームのヒロインや攻略対象と仲良くなる世界線はありですか?〜


 扉に手をかけたまま、葵(あおい)は「いらっしゃい」と優しい声で迎えてくれた。朱莉《あかり》はましろを葵に託すと、「また明日ね」と言ってそそくさと自分の部屋に帰って行った。

 その後ろ姿を目で追い、部屋の扉が閉じるのを確認した後、葵はましろを見下ろして「どうぞ」と中に入るように促した。

「一部屋空いてるから、好きに使っていいよ。トイレはこっち。お風呂はその隣ね」
「あ、あの!」
「こっちも君に訊きたいことがあるんだ。とりあえずそこに座ろっか」

 葵は自然な動作でましろの背中に手を添えて、部屋の中を案内してくれた。2LDKで一部屋がそれぞれ八畳ほどの広さで、ダイニングとキッチンは合わせると十二畳くらいはあるだろうか。

 綺麗に整えられた部屋、家具は白と黒に統一しており、かなり大人っぽい雰囲気である。ましろは現実セカイでの自分の部屋を思い出し、なんだか恥ずかしくなる。

(俺の部屋は推しが出てるゲームやドラマCD、その他キャラクターグッズで棚がごちゃごちゃしてたからなぁ……逆に落ち着かないまである)

 掃除はしていたが整理整頓はそこそこしかしておらず、ベッドや床はかろうじて綺麗にしていたが収納ケースや本棚がすごいことになっていた。

 葵は二人掛けの白いレザーソファにましろを座らせ、自分はキッチンの方へ向かう。無駄にピンと背を伸ばし姿勢良く座ってしまうのは、緊張からだ。

 推しキャラであり推しの声優さんが声を当てている雨月葵。推しキャラと言ってもまだよくその人となりはわかっておらず、ましろが知っているのは、発売日前から流れていたキャラごとのPVや作品の宣伝PVの中でだけ。

 キャラPVでの葵のセリフの数々は、ずっと耳に残っている。

「君が俺を慰めてくれるの?」
「俺は、君が思っているような人間じゃないよ」
「ケーキより甘いね」
「もう、俺に関わらないでくれる?」
「君に出会えてよかった……君が、君でよかった」
「好きだよ、って言ったら。きっと君を困らせてしまうね」

 物語内で紡がれるだろうセリフが数秒ごとに映像と共に流れるあのキャラPVを、ましろは何回再生したことか。甲斐ミナト。推しの声とセリフに耳が幸せすぎた。目の前にいる葵の声はまさに推しの声そのもので、ましろが想像していた何倍もキャラに合っていた。

 いつかヒロインが葵ルートに入ることがあれば、あのセリフが聞けるかもしれない。が、朱莉は一葉ルートに入っているようなので、ここからルート変更がいけるのかは正直わからない。ヒロインが誰を好きになるか。それによって応援する攻略キャラが変わるだろう。

「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」

 黒と白のコーヒーカップを二つガラステーブルに並べ、白いカップをましろの前にすっとずらす。葵はそのままソファに腰掛けると、カップを手にしながらましろをじっと見つめてきた。

「記憶喪失のバイトくん、君のことはなんて呼んだらいい?」
「い、今まで通りで大丈夫です! 居候させてもらう上にご迷惑までおかけしてしまい、大変申し訳なく思っておりまして……、」
「別にそこは気にしなくていいよ。それよりも自分の名前も憶えていないってこと?」
「はい……朱莉先輩には伊波ましろという仮の名前で呼んでもらうことになりましたが、実際の名前は本当にわからなくて」

 伊波ましろ。完全に本名である。記憶喪失は捏造だが、このモブの名前を知らないのは本当だ。

「むしろ、俺が知りたいというか」
「君のこと、誰も知らないんだよね。一葉も竜星くんも、なんなら採用したはずの斎宮さんも。これってものすごく変な話だと思わない? 斎宮さんが拾ってくる子はみんな訳ありな子ばかりだけど、さすがに身元不明な子は初めてだよ」

 ましろは優しげに細められた薄青の瞳に囚われそうになる。

「他になにか隠し事はない? 俺がなんで斎宮さんの頼みを断らなかったと思う?」

 元々近かった距離。甘い笑みを浮かべたままの葵の顔がだんだんと近づいてくる。ましろは頭が真っ白になり、これはどういう状況だろうと脳内が大混乱を起こしていた。

「な、なぜ、ですか?」
「君に興味があったから、って言ったら? 君はこれをどういう意味で受け取る?」

 一度手に取ったカップをテーブルに置き、そのままソファに押し倒された。あまりに突然すぎて、思考が追いつかない。これはどういう状況? 推しの声が耳元で囁くように紡がれる。ここは天国ですか? 夢? ましろは重なったままの視線を逸らすことができなかった。

「気持ち悪いと思う? それとも幻滅した?」

 ましろは改めて葵のキャラ詳細を思い出していた。考えられるとしたら……。

『過去の"ある出来事"が原因で、恋愛に対してどこか一線を引いてしまうところがある』

 あの項目がずっと気になっていたのだが、もしかしてそれが関係している?

 ましろは上手く出せない声の代わりに、ゆっくりと首を振った。

「なにを言っているのか、全然わかりません……自分の唯一無二の推しと言っても過言ではないあなたを、どうして気持ち悪いなんて思うんですか? 少なくとも俺には、ご褒美でしかありません!」

 過去の出来事や恋愛が、彼にとってどんなものだったかも知らない。

 とはいえ、推しに押し倒されている今の状況は、いちファンであるましろにとっては万死に値する。推しとの距離はファンとして絶対であり、なんなら四六時中推しを眺められると浮かれていた、数分前までの自分をぶん殴ってやりたい気分だった。

「しかしながら推しは推しであり、俺はあなたのファンなので、これはダメです」

 どんな理屈だ、と自分でも思ったが、こんなご褒美は身に余る。気持ち悪いとか、幻滅とかそんなものは一切ない。こちとら推しがBL作品に出演していても絶対に買う。なんなら好きすぎてリピートする時だってある!

「どんなあなたでも、俺は推します!」

 はっきり、きっぱりとましろは言い切る。それはもう真剣な眼差しで。

(……って、なに言ってんだ俺ーーーーーっ‼︎)

 しかしましろは自分がとんでもないことを口走ってしまったことを今更ながら後悔する。だらだらと背中に変な汗がわくのを感じながら、斜め上に視線を向けて呆れられるのを覚悟しつつ、葵の顔はもう見れなかった。

 十数秒間の沈黙の後、事は意外な展開を迎える。