午後六時三十分。朱莉はましろと一緒に【Cafe:iRiS 】の扉を開けた。
「いらっしゃいませ〜」
一葉の明るい声が店内に響く。しかしふたりの姿を目にするなり、疑問だらけの表情のまま数秒ほど間があき、それからいつもの笑顔で「どうしたの?」と訊ねてくる。
「おつかれさまです。向井さんは奥にいますか?」
「斎宮さんなら厨房だけど、呼んだ方がいい?」
お願いします、と朱莉は頷いた。ましろはその横でなにか言うでもなく、待機状態。二人はレジ横の壁際にある待合席で並んで待つことにした。数分後、奥から斎宮が姿を現した。
「珍しい組み合わせだね。なにか相談事かな?」
「すみません、少し込み入った話があって……、」
朱莉はちらっとましろに視線を向けるが、ましろはなんだか心ここに在らずというぼんやりとした顔で立ち尽くしていた。
「そうなの? じゃあスタッフルームに行く? 今ちょうど落ち着いたところだから少し時間も取れると思うし」
「あ、はい、ではお願いします」
カフェのオーナーであり店長である斎宮。一見、落ち着いた雰囲気や穏やかな感じは葵と微妙に被るのだが、そこにインテリっぽさが足されてまた違う個性を醸し出しているキャラである。そしてちょっと天然っぽい。
斎宮を観察していたましろのことなど知らない朱莉は、その腕を掴んで歩き出す。そんな二人の様子を接客をしながら横目で見ていた一葉は、スタッフルームに入っていくのを確認し、再び笑顔でお客さんの相手をするのだった。
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スタッフルームに入り、各々椅子に腰を下ろす。
「向井さん、突然こんなことを訊くのもあれなのですが、後輩くんの住所ってわかりますか?」
唐突な朱莉の問いにも、斎宮は「どうしたのかな?」と落ち着いた声で問い返す。ましろは事の経緯を話すことにした。記憶喪失、というワードにさすがの斎宮も驚いていたが、そこに朱莉がフォローを入れてくれたことで、疑われている感はあったもののちゃんと最後まで話を聞いてくれた。
「事情は理解したよ。実はさっきバイトくんの履歴書のデータを確認したんだけど、データが壊れててなにもわからない状態なんだ」
「そうなると、新しく社宅を借りることもできないですよね? 身分証明書も学生証くらいしかないみたいですし」
大学の学生証はあったが、名前と学科が記載された程度の簡易的なものだったため、大した情報は得られなかったのだ。大学に問い合わせて大事になるのも良くないと思い、そこはなにも手立てがなかった時の最終手段にすることにした。
「なんだか、すみません。ご迷惑をかけてしまって……けど、本当にわからなくて、」
「うん、そこは君と朱莉さんを信じるよ。ともあれ、そういう事情なら……ちょっと待っててね」
言って、斎宮はスマホを取り出してどこかに電話をかけはじめる。正直、病院や警察に行こうと言われたらどうしようかと思っていたので、ましろはひとまずほっとした。
「やっぱり私の部屋に居候する?」
「ダメです。先輩の部屋に居候するくらいなら、公園で寝ます」
ヒロインの部屋に転がり込むなんて以ての外だ。そういう意味で拒否したつもりだったが、朱莉が一瞬にして見たこともないような暗い顔になる。ん? とましろはその反応が自分が思っていたのとは違ったため、首を傾げるしかない。
(そもそも女性の部屋に男が居候とか、友だちでもあんまりしないよな? あれ? 俺、間違ってる? なんでそんな絶望的な顔になる必要が?)
まさに「ガーン‼︎」という効果音が後ろで鳴っていそうな朱莉の様子に、ましろはますますわけがわからなかった。そんなやり取りをしている内に、斎宮の電話が終わったようだ。
「とりあえず、話はわかったよ。葵が承諾してくれたから、君はこのまま必要なものを用意して、朱莉さんと一緒にマンションまで行ってくれる?」
「は? え? なぜ?」
「雨月さんが、良いって言ったんですか?」
「うん。期間限定ならいいそうだよ」
朱莉の反応も気になったが、ましろの脳内はそれどころではなかった。
(推しキャラと同棲⁉︎ 無理無理無理無理無理無理!)
朝も昼も夜も推しの顔を眺められるなんて幸せすぎて死ぬ!
「じゃあそういうことだから、よろしくね」
「はい……ありがとうございました」
「ありがとうございます!」
全く逆のテンションで二人は斎宮に礼を言い、そのまま裏口から店を出るのだった。マンションまでは徒歩で十五分ほど。その間、朱莉はずっと元気がなかった。朱莉の提案はありがたかったが、やっぱりその選択肢はあり得ない。
ましろは気持ちだけもらっておくことにして、途中にあったコンビニに寄ることにした。そこで歯ブラシや下着、お茶や食べ物などの必要な物を購入し、外で待っている朱莉と合流する。ましろはビニール袋を漁って、朱莉に「はい」と差し出した。
「先輩、さっきは本当に助かりました。よかったらこれ、もらってください」
ペットボトルの温かいミルクティーを手渡し、にっと満面の笑みを浮かべる。こんなものでは足りないくらいだが、とりあえずのお礼ということで。
「俺が知ってる先輩は今日の先輩だけだけど、きっと今までもお世話になってると思うし、これからもよろしくお願いしますという意味で」
「……ありがとう、すごく嬉しい。私、このミルクティー好きなんだ」
「そうなんですね! それはよかったです」
さっきまでの暗い顔が、花でも咲いたかのように可愛らしいはにかんだ笑みに変わる。その可愛らしさにちょっとドキドキしてしまったわけだが、それ以上に、これから推しと暮らすというあり得ないイベントが待っているという現実に、ましろは完全に浮かれていた。
(雨月葵……中の人がきっかけで好きになったキャラだけど、実際の葵もめちゃくちゃカッコいいし、俺、キュン死しないよな? 息できるかな……)
ましろはマンションが近づくにつれて心臓が爆発しそうだった。
(ましろくん……私のために考えて選んでくれたのかな? さっきまでショックすぎて立ち直れなかったけど、こんな些細なことで笑顔になっちゃうのは、やっぱりそういうこと……だよね?)
朱莉はもらった温かいミルクティーを両手で大事そうに抱え、少し前を歩く自分とあまり背の変わらないましろをじっと見つめ、自分の中に芽生えた感情を再確認するのだった。



