午後五時五十分。
葵が退勤する十分前くらいにスタッフルームから顔を出したのは、この【Cafe:iRiS】のオーナー兼店長である向井 斎宮だった。
背中まであるダークグレーの細い髪を後ろで束ねており、薄紫色の切れ長の目、黒縁のインテリメガネが特徴的である。静かな大人の雰囲気がそこにいるだけで感じられ、姿を見せた瞬間から夜のカフェに新たな空気を齎した。
「おつかれさまです、斎宮さん」
「お疲れ様、今日はどんな感じだった?」
オーダーを受けてカウンターに戻ってきた一葉が一番に声をかける。端末を受け取りオーダーの紅茶用のティーポットを用意するため、カウンターでは黙々と竜星が手を動かしていた。
「まあまあ忙しかったけど、なんとかなったかな。あ、そだ。斎宮さん、後でちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「後ででいいの?」
「うん、まあ。今すぐ必要なことでもないから。お店が落ち着いてからでいいんだ」
半年以上一緒に働いているアルバイトの名前を知りたい、なんて。さすがに言い出しづらい。
「はい、ホットサンドできたよ」
厨房から葵がオーダーの【チーズたっぷりホットサンド】をトレイにのせて持ってきた。
「とりあえず受けたオーダーはこれで最後だから、俺は上がろうかな」
「……おつかれさまです」
「おつかれさま〜」
「後は僕が引き継ぐよ」
お願いします、と葵はにっこりと笑みを浮かべて頷いた。
「あ、そういえば一つ訊きたいことが」
「君もかい?」
「はい、ちょっと気になることがあって、」
一葉と竜星は「あ」と二人声を合わせて葵が言わんとしていることを察する。
「バイトくんの名前ってなんでしたっけ?」
包み隠すこともなく例の質問をサクッと斎宮にしてしまった葵に対して、一葉は思わず「おい」とツッコミを入れる。竜星はもはや何も言うまいと、ホットサンドの皿の横に紅茶セットを置いた。
「……上坂さん、お願いします」
「え、今⁉︎ 俺も聞きたいのに!」
「お客様が先です……」
「その通りだけども! じゃあ今すぐ運んでくるから、戻ってくるまでちょっと待ってて!」
竜星の正論に、一葉は「お待たせしました〜」とテーブルに向かいながら店内に声を響かせた。
「いったい急にどうしたんだい? あの子がどうかした? すごく良い子だし、手際もよくて仕事覚えも早いし。なにか問題でもあった?」
「まあ、色々と……、」
低い声で淡々と竜星が呟く。斎宮はなにがなんだかわからなかったが、とにかくここにいる皆が彼の名を知りたいようだ。
「戻ったよ〜。さあ、続きをどうぞ!」
「バイトくんの名前だね……ええっと、確か、」
斎宮は顎に手を当てて、うーんと首を傾げる。
「あ、嫌な予感が、」
葵はそんな斎宮の様子を見て察する。その勘は早々に当たってしまう。
「そういえば、なんて名前だったかな?」
「いや、俺たちが知りたいんだってば!」
「ああ、そうだ。履歴書のデータを見ればわかるよ。ちょっと待っててね」
もはやどんな手を使ってでもバイトくんの名前が知りたい! 三人とも同じ気持ちだったが、斎宮はゆっくりとスタッフルームへ向かい、その数分後に戻ってきた。
「斎宮さん、どうでした?」
葵は戻ってきた斎宮に訊ねる。一葉もうんうんと頷いてその答えを待つ。竜星は気にならないフリをしつつも、聞き耳を立てていた。
「ああ、うん。バイトくんの名前だけど……、」
「そんなもったいぶらないで、早く早く」
一葉は斎宮がにこにこしたまま全然その先を言わないので、思わず急かす。が、当の本人はずっと笑顔のままだ。葵は「あ、これは……」と一人なんとなく斎宮が言わんとしていることに気付いていたが、あえて傍観することにした。
「バイトくんの名前は……、」
「名前は?」
「文字化けしててわからなかったよ」
「どういうこと?」
それはこっちが知りたいよ、と斎宮は苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「なにがなんでも知りたくなってきたんだけど!」
「だから本人に訊けばいいのに……、」
竜星は嘆息し、一葉を一瞥するのだった。



