写真の中だけ、もうキスしてる

「おかえり、晴!」
「台風組おつかれー! 一位おめでと!」
「いえーい、ありがと!」 

 広い校庭には、四百メートルトラックを挟むようにして、四つの観覧エリアが作られていた。体育祭は三学年をクラスごとに縦割りにした色別対抗で、僕らAクラスは赤組だ。自分のテントに戻ってきた僕は、赤い鉢巻を緩めながら、みんなの手にハイタッチした。欠席が一人出たからどうなるかと思ったけど、事前にそのバージョンも練習しておいて本当によかった。

 水を飲んでいると、すぐに朝陽もやってきた。まだ息を弾ませている僕を見て、ニヤッとする。 

「おつかれ。かっこよかったじゃん」 
「思ってもないこと言うなよ。それで、他の準備は?」
「順調」

 朝陽がクリップボードをたたいた。 

「玉入れは送り出したし、遅刻名簿も体育委員に渡した」 
「了解。ちなみに――?」

 話題にしようとしていた本人が近くにいたので、僕はクリップボードの名簿を目で示して、しぐさ語に切り替えた。

(遅刻してきた人は?)
(短距離走は間に合わなかった)
(じゃあ、補欠で入った人の競技と交代を)
(もう交渉してある。代わりに午後の借り物競争出るってよ)
(助かる、ありがと) 

 一気にそれだけのことをやりとりして、僕は思わずため息をついた。最近なかった、きれいに歯車が噛み合うこの感覚。 

「……やっぱり、お前とだと楽だな」 
「へえ?」

 間髪入れずに朝陽が寄ってきて、僕は自分がうっかり何をつぶやいたのか気がついた。朝陽が、嫌な笑みを浮かべている。

「俺といると、安心するって?」 
「耳大丈夫? 楽だって言ったんだよ。だから、その〈落ち着け〉やめろって」
「なんで? 通じただろ」
「そういう問題じゃないから。まったく……」

 僕は赤ペンで名簿の端にチェックをつけながら、もう一度ため息をついた。前言撤回。完全に調子が戻るには、もう少し時間がかかりそうだ。



 お昼は、グラウンドではなく教室で食べることになっていた。土がつかないように養生されたクラスの中、赤い鉢巻をつけたいつもの五人で賑やかな食事だ。

「夏帆、短距離お疲れさま。一位だったよね、すごいな」
「ありがと理央。あんたの障害物競走も面白かったわよ。助走なしでいきなりとんだりするから」 
「おっ、オレ朝陽の弁当初めて見たかも。量やばくね?」
「少ないよりは嬉しいじゃん。 余ったらお前らと一緒に食えばいいんだし」
「じゃあ、さっき僕の手から得点表叩き落とした罰で、その唐揚げちょうだいよ。かわりに卵焼き半分あげるから」 
「ケチくさいぞ晴。あれ、でも……お前それ、今日も自分で作ったやつか?」 
「もちろん。だからありがたく受け取れよ。どっちも原材料は鶏でしょ」 
「……しょうがないな、これで示談だ」 

 朝陽の弁当箱から二番目ぐらいに大きい唐揚げをかすめ取って、かわりに卵焼きを半分にせずにそのまま置いてやる。あ、にんにく醤油が濃いめで美味しい。

「そういえばさ」 

 朝陽の弁当を撮っていた颯太が、急にニヤリとした。

「今日、お前らの異常写真また増えてたぜ。な、理央」 
「そうなの?」

 僕はやれやれと首を振りながら、理央のスマホを覗いた。

「ほら。まあ、今日はみんな撮りまくってるし、出るかなとは思ってたんだけど」 
「そうだな。何枚か増えててもおかしくない……って、は?」 
「うわ。またこっちのパターンなんだ」

 朝陽が大袈裟なぐらい驚いているのに気づいて、理央が膝を打った。

「そうか、朝陽はまだ知らなかったよね。これもそうだけど、最近なんでか、晴がやる側になったんだよ」
「しかも、不必要にキメ顔つきでね」

 僕はうんざりして言った。スマホの画面には、校庭の応援席からグラウンドへ身を乗り出している朝陽と、その背後から抱きついて朝陽の顔を覗き込もうとしている僕が写っている。

「へえ……そうなんだ」

 朝陽はニヤけるのを隠そうとして失敗したような顔をしていた。腹立つな。

「まあ、何回かは良いんじゃねえの? 五センチの逆襲、しっかり見せてみろよ」 
「いやだよ。こんなふざけたこと、僕はやらな――いや、待って」 

 僕はふと、恐ろしい可能性に気がついた。颯太のいうとおり、今日はみんなが写真を撮りまくっている。そして、これまでの検証では、異常写真は誰が何で撮っても現れる。ということは。

 急にざざっと机を引いた僕を、四人がびっくりして見た。

「朝陽。今日、僕に近寄らないで」
「え。なんで?」
「どうして急に――あ。そうよね。じゃないと、誰かが撮った写真に、あんたたちの異常構図が写り込むってことでしょ?」
「そういうこと!」

 冗談じゃない。よりによって、僕が勘違いモテ男担当になったこのタイミングで、不特定多数に写真がばら撒かれるかもしれないなんて、そんなのは絶対に嫌だ……!

「ははっ、それ面白いな!『高瀬晴の、知られざる裏の素顔』――?」 
「待てよ朝陽、オレも晴に賛成。だって、みんながこれ持ってたら、オレが晴にノート見せてもらう最強の交渉カードなくなっちゃうから」
「二人とも、ちょっと黙っててくれない?!」

 ばんと机を叩いた拍子に水筒が倒れそうになり、僕はあわてて机の上のものを押さえた。



 応援合戦を終えて席に戻ってきた僕は、奥の方で何人かが難しい顔をしているのに気づいた。

「どうしたの?」
「あ、高瀬。実は、棒倒しで白井のスタート、やっぱり失格扱いになっちゃって」
「え。順位変わったってこと?」

 棒倒しは配点が高いから、ここが変わると全体順位も結構変わる。優勝を目指すなら、これは結構まずい。

「午後残ってるのって、あと六種目だよね?」

 僕は確認しながら、指で空中に四角を描いた。要求した通り、朝陽が無言で競技名簿とペンを渡してくる。朝陽に近寄るなと言ったばかりだけど、クラスの順位がかかっている時にそうも神経質になっていられない。

「そうそう。だから、綱引きは一位必須で……」
「いや、借り物競争がビリにならなければ……」

 今の得点と残りの競技を考えて、みんなで優勝の条件を絞り込んでいく。数分後、でき上がったリストを、僕たちはそろって眺めた。

「……結局、最後の色別対抗リレー次第じゃないか?」
「ってことだよ、朝陽」

 僕は隣を見上げた。

「悪いけど、死ぬ気で走ってきてよ。リレーで勝てば、優勝の確率はかなり上がるんだから」

 二年生にして、赤組のアンカーを務める男が、面白そうに眉を上げる。

「お前、たまに運動部みたいだよな。そんなに勝ちたいか?」
「うーん。勝ちたいっていうより、負けたくないんだよね」
「そうか」

 笑った朝陽が、輪になったみんなを見渡す。

「それじゃ、リレーは任せてくれ。ただし、そこまでの点数は、ちゃんとおさえておいてくれよ?」
「おう、もちろんだ!」
「いやいける、絶対いけるって!」

 肩を叩き合うみんなの中で、朝陽がもう一度、僕を見た。チョキを僕の両目に向けてから、小さく笑って次の持ち場へ去っていく。

 〈見てろよ〉、って。

 僕は小さく息をついて、ひとまず次の綱引きに頭を切り替えた。



 それで、本当に逆転優勝する奴が、どこにいるんだろう。

 アンカーにバトンが渡った時、赤組は三位だった。二位は追い抜けそうだけど、一位とはけっこうな差をつけられてる状態だ。ただ…… 

「赤のあいつ何? ドーピング?」 
「やばいやばい! 緑抜かれる――あ、抜かれた!」

 最初のコーナーで二位に追いついた朝陽は、あっという間に一人を抜かした。四つの観客席からどよめきが起こり、やにわにあたりが騒然とし始める。直線でさらに速度を上げる朝陽を、僕はぽかんと見つめていた。いや、自分でけしかけといてなんだけど……あいつ、あんなに足速かったの?

 必死に走っている一位の青いたすきに、赤いたすきがぐんぐん迫っていく。これ、もしかして……いけるんじゃないか?! 

「朝陽!」

 気がつけば、僕は颯太と一緒になってグラウンドに身を乗り出し、大声で叫んでいた。

「行け! 絶対いけるから! 頑張れ、朝陽!」

 最後のコーナーで、ついに一位が逆転した。悲鳴の混じった大歓声の中、最後の直線を朝陽が走り抜ける。そのまま容赦なくさらに差を広げて、白いゴールテープに赤いたすきが突き刺さった。

 校庭で、何かがわっと爆発したみたいだった。信じられない逆転勝利に、僕は柄にもなくぴょんぴょん跳ねていた。

「やった! 本当に勝ったよ颯太!」
「あいつマジやべえ! 明日からちょっかい出すときは朝陽様って呼ぶわ!」
「それでもちょっかいは出すのね……でも、ほんとすごい! ちょっと痺れたわ」
「朝陽、ほんと足は異様に速いんだよね。でも、みんな速かった!」

 赤組はもう、お祭り騒ぎだった。退場のアナウンスが流れ、戻ってくる選手たちを、総立ちになって迎える。

「晴ー!」

 そんな中、我らが英雄は空気を読まず、一直線に僕の方へ走ってきた。僕は大きく腕を振った。

「朝陽、おつかれ!」
「おう! ちゃんと見てたか?」

 汗を散らし、満面の笑みでかけ寄ってくる今の朝陽は、オオカミというよりどっちかっていうと犬だ。つられて笑顔になりながら、僕は〈よくやった〉の意味を込めて朝陽の頭に手を伸ばそうとした――が。

 朝陽の背後からこっちに向けられている、いくつものカメラレンズに気づいてしまったとたんに、僕の心臓が一瞬で冷えた。

「……く、来るな」
「え?」

 戸惑って速度を緩めた朝陽から、後ずさってさらに距離をとる。

「晴、なんで……?」
「だから、さっき言っただろ! 僕はお前と一緒に写りたくないの!」

 後ずさるだけでは足りずに、とうとう僕は走り出した。後ろから、俊足のアンカーという恐ろしい敵が追いかけてくる。

「なんでだよ! 別に撮られたっていいだろ!」
「さっき見ただろ! お前は僕との誤解写真をばら撒かれたいの?!」
「あんなの、俺はもう気にしないって!」
「僕がするんだよ馬鹿!」

 校庭を逃げ回りながら、口々に叫び合う。こうして僕は、選手でもないのに、四百メートル耐久リレーに無理やり参加させられることになった。



 片付けもほとんど終わり、がらんとした校舎には、興奮した熱気の名残だけが漂っていた。忘れ物確認で見回っていた僕は、得点室にしていた教室の前で、思わず立ち止まった。中で朝陽と、白井くんが話している。

「え? ごめんって、何がだ?」
「いや……ほら、俺のミスで失格減点になったじゃん。だから、お前に無理させることになったんだし」
「別に、無理も何もしてないぞ?」

 いつもの何も考えてない口調のまま、朝陽が無邪気に笑った。 

「結果、無事に優勝したんだし。それに、減点のおかげで、午後の種目がみんなハラハラで盛り上がったじゃん。俺、けっこう楽しかったんだけど」

「……はは、そっか。ありがとな、朝陽」
「てか、さっきのスタートフォームはなんてやつなんだ? 俺もやってみたいんだけど」
「お前、それ以上速くなる気なの……」

 会話が、だんだん雑談に変わっていく。

 教室の外で、僕は一人ふっと笑った。まったく、あの人たらしめ。

「……ほんと、ムカつくな」

 小さく呟いて、僕は最終報告のために、職員室へ歩いて行った。