写真の中だけ、もうキスしてる

 三秒間、僕らの間から、言葉が全部なくなった。普通の言葉も、しぐさ語も、何もなかった。耳が痛いぐらいの静けさの中で、朝陽の息だけが聞こえていた。

 朝陽の腰に腕を回しかけた中途半端な体勢のまま、僕は指一本も動かせなかった。前と同じように、朝陽は目を閉じていた。重なったままの唇が、何かを伝えるように、わずかに固くなる。それから、顔を挟む手がゆっくりとゆるみ、朝陽が静かに顔を離した。

「……え」

 自分の声で、僕はようやく瞬きした。音楽室の赤い絨毯のせいか、足元が奇妙に歪んでいる気がした。

「え……何してんの?」

 朝陽は、答えなかった。僕を見つめる切れ長の目が、いつもより大きく見開かれている。まるで、自分のしたことに、自分で戸惑ってるみたいな顔だ。いや……お前がその顔する権利ないでしょ。というか、待って、本当に……どういうこと?

「何のつもりだよ」

 無意識に手を唇のあたりにやりかけて、またすぐに下ろす。

「これ……どういう意味? ごめん、全然わかんないんだけど」

 朝陽が眉間にぐっと力を入れ、僕から目を逸らした。

「……悪い」

 それだけ言って、さっと僕の横をすり抜けようとする。僕は慌ててその腕を掴もうとしたけど、一歩遅かった。朝陽の足がどんどん速くなり、絨毯の上をほとんど走るみたいにして、出口に向かっていく。

「待てよ。ほんと、何だったの? おい、朝陽!」

 一度も振り向かずに部屋を出た朝陽の後ろで、重いドアがバタンと閉まる。

 呆然としている僕だけが、無音の音楽室に取り残された。



 それから朝陽は、徹底的に僕を避けるようになった。みんながいるところでは普通にしているし、学級委員の仕事を頼まれれば最低限の会話はする。でも、しぐさ語も、前のような小競り合いも、一切しなくなった。おまけに、僕の呼び方が「高瀬」に戻った。理解不能すぎる。

「晴」

 休み時間になって、颯太たちがやってきた。中間テスト後の席替えで、僕が運良く獲得した窓際のスペースに、夏帆が微妙な顔で座り込む。

「写真、どうするの? 来週になったら体育祭準備で教室使いづらくなるし、全教室で試すなら今日か明日やらないと……」
「でも、朝陽があれじゃ無理だよね」

 理央がつぶやいて、廊下側の席をじっと眺めた。バスケ部の友達に囲まれた朝陽が、立ち上がって教室を出て行こうとしている。颯太が珍しく顔をしかめた。

「ほんと、どうしちゃったんだよあいつ。晴、何やらかしたんだ?」
「僕の方が知りたいよ……。理央、なんか聞いてない?」
「ううん。まあ、朝陽がああいう時は、何言っても無駄だよ」
「それ、一番どうしようもないやつ……」

 夏帆がため息をついた。膝に巻いた黒いサポーターを直しながら、僕の方に視線をよこしてくる。

「で、写真はあと何が残ってるんだっけ。教室っぽい場所写真と、最初のキス――え、晴、なんか言った?」
「な、なんでもない」

 思わず漏れた小さな唸り声を、僕は貼り付けた笑顔でごまかした。そう、それそれ。僕らがこうなってる原因は、まさにその二文字だ。でも、そのことをみんなに言う気には……なんとなく、まだなれなかった。

「こう見ると、知らないうちにだいぶ戻ったよな」

 颯太がカメラロールをスクロールしている。

「マジで夏帆の言うとおりかも。残ってるのは、最初の……え、待って。これ、なんかおかしくね?」

 急に颯太が、僕らに一枚の写真を向けてきた。全てがここから始まった、因縁のキス写真だ。ただし……

「これ、こんな構図だっけ。前は、朝陽が晴にしてたような……?」
「……は?」

 僕は目が点になった。颯太のいう通り、前は朝陽が僕にキスしていた。なのに今、写真の中でキスを仕掛けているのは僕の方だ。僕が朝陽の胸ぐらを掴んで、自分の方に引き寄せている。

「待って、え、待って? なんで僕がしてるの? いま一番ありえなくない?」
「えーと……晴、よかったね? 前に朝陽にやられてばかりなの嫌だって言ってたから」
「良くないよ! 確かに言ったけど、こういうのはいらないから!」
「じゃあ、写真は戻るだけじゃなくって、別の構図にも変わるってこと? えーまたルールが読めなくなっちゃったじゃない、頭が痛いわ……」
「頭が痛いのは僕の方だよ夏帆。ちょっとは同情してくれない?」

 ただでさえ意味わかんない朝陽のことでもやもやしてるのに、そのうえ写真まで意味わかんなくなって、頭が爆発しそうだ。ずるずると椅子に座り込む僕をよそに、三人は興味津々で会話していた。

「これ、他の写真も変わるのかな。試してみたくね?」
「でも、いま晴と朝陽の写真撮るの無理だよ。どうするの?」
「なんとかなるっしょ。朝陽にバレないように、遠景にいれて――あ、やべ、予鈴だ」

 キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴り始めて、颯太たちが立ち上がる。

「んじゃ晴。撮影の方は、俺たちが隙を見てなんとかするから、お前は朝陽の方をどうにかしてくれ」
「え……そう簡単に言われても」

 思わず反論しかけた僕を、夏帆が諭すようにじっと見つめた。

「写真が撮れても、戻るかどうかはあんたたちの再現次第でしょ。自分のことなんだから、文句言わないの。頼んだわよ」

 散っていく三人の向こうに、時間ぎりぎりで教室に戻ってきた朝陽が見える。絶対にこっちを見ないその横顔を見つめて、僕は大きくため息をついた。



 体育祭が近づき、体育委員ほどではないにせよ、学級委員の仕事も目に見えて増えていた。応援幕の製作に競技の割り振り、名簿の確認。どれも細かいくせに、ミスすると他学年まで巻き込むから厄介だ。

 そして何より、朝陽がめちゃくちゃめんどくさい。

「あとは『台風の目』の補欠だけなんだけど……誰か、もう一種目出てもいいって人いないかな?」

 お馴染みのロングホームルームで、僕は壇上からみんなを見渡した。何となく手を上げづらい空気の中、教壇の端にいた朝陽が、近くに座る男子に悪戯っぽい顔で何かを耳打ちする。その子は笑って、しょうがないなという顔で手を上げた。

「俺やるよ。朝陽、ありがと」
「ああ。任せたぞ、宮地」

 ここまでは役に立つ、いつも通りの朝陽だ。問題は、その先だった。

「朝陽」

 みんなが帰り支度を始める中、ポケットの紙くずを教室の反対側にあるゴミ箱へぽーんと投げ入れている朝陽に声をかける。そのまま、無意識に黒板を四角で囲むようなしぐさをしかけて、途中で止まり、口に切り替えた。

「今の最終版、書いておいてくれる?」
「ああ。メモでいいか?」
「違う、これにだってば。名簿に。メモだと無くしちゃうかもしれないだろ」
「そうじゃなくて、綺麗に書かないでメモする程度でいいのかって聞いたんだけど」
「……もう、なんでもいいよ。とにかく、黒板消したいからそれでわかるようにして」

 めんどくさい。いちいち説明するのも、前は普通にやってたことができないのも、本当にめんどくさい。

 ここ数日、僕は朝陽がしてきたキスの意味を、ずっと考えていた。普通に考えたら好きな人にする行為なんだけど、僕らの間ではそれが一番ありえない。だってもう、一回しちゃってるから。それでお互い何も感じなかったんだから、二回やろうと十回やろうと、何も変わるはずがない。

 だったら、あれも朝陽なりの新しいしぐさ語だったんじゃないか、というのが今のところ僕の有力説だった。僕が颯太に使ったのを、あれだけ気にしていたんだし。負けず嫌いのあいつなら、もっと強い何かで上書きしようとしてもおかしくない。

 でも、それならさっさと正解の意味を教えてくれればいいのに。伝わらなかったからって、なんで僕を避けるんだ。とにかく、一回ちゃんと話してほしい――

「朝陽、今日の放課後空いてる?」
「悪い、体育委員の手伝い頼まれてんだ」

「朝陽、ちょっと話したいことがあるんだけど」
「長くなるか? 今めちゃくちゃ急いでるから、またな」

「朝陽、帰る前に五分だけ――」
「おーい颯太! 高瀬が一緒に帰らないかって言ってるぞ!」

 ――いい加減にしろよ。

 一週間が経つころには、僕の我慢も限界に達していた。そんな矢先に、再び二人揃って先生に呼び出される。

「体育祭の前日準備、お前らの持ち場はここだ。よく読んでおくように」
「はい」

 僕は、割り振り表にざっと目を通した。点数計算用の教室設営と、記録用機材の準備。重要だけど、中身は単純作業だ。この間なら、朝陽も逃げられないだろうから、話をするなら絶好のチャンスだ。

 そう、思ったのに。

「先生。この内容なら、俺の代わりに久保田理央が入ってもいいですか?」
「……は?」

 思わず横を見た僕を置いて、朝陽が先生に苦笑してみせる。

「俺、こういう系の細かい作業ぜんぜんダメで」
「ほう」
「前に大失敗して、理央に次こういうことがあったら絶対自分にやらせてくれって言われてるんですよ。代わりに、後片付けの方は俺がメインでやるんで――」
「いや」

 はっきりとした声で、僕は割って入った。

「学級委員の仕事を勝手に代わるのは違うでしょ。立花がミスしても、僕ならカバーできますよ」
「おっ。頼もしいな、高瀬」
「はい。だから、いつもみたいに二人でやります。僕と、立花で」

 微妙な顔で振り向く朝陽を、真正面からじっと睨みつける。

 お前が、そこまでして僕を避けたいのはよくわかった。だったら僕は、なおさらそうしてやるもんか。勝手にキスして、勝手に僕らの言葉まで捨てて、簡単に逃げ切れると思うなよ。

 今度こそ全部、お前の口から聞いてやるからな!