銀光のセレスティーヌ ー 虚像の聖騎士と風変りな軍師 ー

王都は陥落した。
守ると誓った人々の悲鳴が、今も耳の奥に残っている。
――なぜ、こんなことになったのだろう。

思えば、セレスティーヌの歩んできた道は、幼い頃から周囲とは少し違っていた。

五歳の時――。
他の貴族令嬢たちが花を摘み、刺繍を楽しむ中、彼女だけは父親の書庫に忍び込んでいた。
胸に抱いていたのは、古ぼけた革装丁の本。百年前、この国を救った伝説の英雄の伝記――『聖女将軍ヒルデガルドの生涯』だった。

六歳のセレスが父であるランカスター公爵に尋ねた。

「お父様。ヒルデガルド将軍は、本当に戦女神(エイリーン)の生まれ変わりなのですか?」

公爵は、娘の小さな頭を優しく撫でた。

「そうだとも、セレス。舞うように駆ける馬上でのヒルデガルドの姿は神々しく、彼女の進軍は敵の士気を砕き、戦場では奇跡が起きたという」

「わたしもなりたい!」

公爵は苦笑した。

「お前は公爵家の女の子だぞ。貴婦人になってくれれば、それでよいのだ」

しかし、セレスは熱っぽく言った。

「そんなの嫌よ。私はヒルデガルドみたいになりたいの!」

公爵は思った。
幼い子供が物語の主人公に憧れているだけであろうと。
そして、そのときは「やれやれ」と呟いただけだった。

しかし、セレスの願いは消えなかった。七歳にして剣の稽古を始め、十歳で騎士見習いと互角に戦うまでに成長した。

母親が病で亡くなった――十二歳の冬。彼女は決断した。

「お父様、士官学校に行かせてください」

「馬鹿なことを!」

公爵は激怒した。

「公爵家の令嬢が軍人に? ありえない!」

「ですが母上は仰っていました。『自分の道を選ぶ自由を持ちなさい』と」

公爵は沈黙の中で、妻の言葉と娘の瞳に宿る意志を天秤にかけた。

「……わかった。好きにするがいい」

これ以降、公爵が彼女を遮ることは二度となかった。

だが、それは父としての譲歩ではない。
公爵の脳裏では、娘の熱き意志さえもが――家名を高めるための手段へと、すでに置き換えられていた。

それでも、それが本当に娘のためなのか、公爵自身、答えを求めることを避けていった。



翌年の春。セレスティーヌは、国内最難関の王立士官学校に入学した。

規定の年齢に達する前での特例入学。表面上は公爵家令嬢としての特別扱いなど存在せず、彼女もまた男子学生と同じく、泥にまみれる厳しい訓練に身を投じた。

彼女の才能はすぐに開花した。座学の成績は常にトップクラス。
しかし、父の勧めによって選択させられたのは、建国期の輝かしい英雄譚や、古めかしい騎士道精神に基づく教条的な戦術ばかりであった。

剣の実技だけは本物だった。三年次には剣術大会で男子学生をことごとく打ち破り、いつしか周囲は畏怖を込めて彼女をこう呼ぶようになった。

――『銀光のセレスティーヌ』。

同級生たちは惜しみない称賛を送った。

「君は天才だ」

しかし、彼女の心は別のところにあった。

講堂の壁に飾られた、大きな肖像画。白銀の鎧を纏い、深紅の外套(マント)を翻す一介の騎士から伯爵へと登り詰めた英雄、ヒルデガルド・フォン・シーデルランド。

聖女将軍(ヒルデガルド)……」

セレスは、いつもその前で立ち止まった。

「私も、いつかあんな風になりたい」

しかし、指揮官としての彼女の才覚は、あまりに不自然な勝利の上に成り立っていた。
部隊演習で、セレスは一度も負けなかった。卒業年度の大演習(グラン・トールノワ)でも優勝を飾った。

だが、もし戦いを知る者が注視していれば気づいたはずだ。対戦相手の部隊は一様に奇策や伏兵を弄さず、彼女の得意とする「正々堂々の正面衝突」しか仕掛けてこなかったという事実に。



十七歳の夏。彼女は士官学校を首席で卒業した。
通常なら小隊長か、家柄を考慮しても中隊付の副官として経験を積むのが通例だ。だがセレスだけは『完全なる例外』だった。

「セレスティーヌ・フォン・ランカスター。お前を聖騎士団長に任命する」

国王の言葉が響いた瞬間、王宮前の戦女神(エイリーン)広場は割れんばかりの歓声に包まれた。

女性初。王立士官学校首席卒業。凛々しくも麗しき公爵令嬢。そして史上最年少での聖騎士団長就任。

並べ立てられた輝かしい肩書きに、人々は熱狂し、新たな英雄の誕生を確信した。

当然、すべてはランカスター公爵による根回しの結果であった。

聖騎士団の任務は名目上『王都防衛』だが、攻めてくる外敵などいない。
セレスは式典の警護や治安維持の任務で日々を過ごしていた。

しかし、公爵は高名な画家に戦場を駆ける娘の肖像を何枚も描かせ、各地に掲示させた。
苛烈な剣撃で敵陣を切り裂き、降り注ぐ矢を叩き落とすセレスの勇姿。

一度も経験したことのない「大勝利の場面」が、事実として塗り替えられていく。

公爵家としての役割分担も、すでに父によって決められていた。一つ下の妹、ルチアが貴族の社交界で姉の不在を埋める。

セレスは国民の期待を一身に背負うこととなった。実戦経験ゼロの少女。しかし街に出れば、人々は彼女を「現代の戦女神(エイリーン)」と讃える。

そして残酷なことに。セレス自身もまた、その虚飾を疑うことはなかった。



事の発端は、一か月前に遡る。

北東国境で帝国軍の大規模な侵攻が確認された。王国主力は五万の兵を挙げて、国境付近のベスティア領へ防衛に向かった。

ランカスター公爵は、厳かな声で呼びかけた。

「セレスティーヌ。お前は王都防衛の任に就け」

「……ですが、父上」

セレスは食い下がった。

「私は主戦場のベスティア領へ行くべきではありませんか?」

「いや」

公爵の目には、暗い光が宿っていた。

「これは王命だ。王都には老弱の兵と女子供が多い。それを守るのが、お前の使命だ」

公爵は考えていた。娘を最前線から遠ざけつつ、無敗の聖騎士団長という華々しい肩書きを維持し続ければ家名の名声を保てる。

なにより、建国以来、王都(ローゼリア)が敵に攻められたことなど一度もない。実戦など、まず起きないだろう――と。

「……承知いたしました」

セレスは真っ直ぐに父を見据えた。

「最前線でこそ我が剣を振るうべきと考えておりましたが、戦えぬ者たちを守るのも真の騎士の務め。その命、謹んでお受けいたします」

しかし公爵の計算は、脆くも崩れ去ることになる。

帝国軍は主力が国境を押し上げる裏で、一万ほどの兵を密かに王都の西方から迂回させていたのだ。

「国王陛下!」

内務卿の報せは、あまりにも衝撃的だった。

「帝国別動隊が、王都西側のウィンドル平原に接近中との報告が……!」

宮廷は一瞬で騒然となった。
しかし、ランカスター公爵以外の誰もが、同じことを考えていた。

「大丈夫だ。聖騎士団長セレスティーヌがいるではないか」

聖騎士団の出陣が決まった。

戦女神(エイリーン)のご加護があらんことを!」

高い城壁を持たない王都ローゼリアは、構造的に籠城には向いていない。さらに聖騎士団は騎兵が中心だ。城に閉じこもるより、平原で機動力を生かす方が理にかなっていた。

国王から下されたのは、野戦による迎撃命令。もはや、ランカスター公爵にはその王命に従う以外の道は残されていなかった。

公爵は自分に言い聞かせた。

(こちらの方が兵数が多いのだ。それに優秀な副官がいると聞いた。どうか無事でいてくれ……セレス)



王宮前の戦女神(エイリーン)広場には、隙間もないほどの民衆が集まっていた。

「セレスティーヌ様なら、必ず守ってくれるはずだ!」
「まさに聖女将軍(ヒルデガルド)様、いや、戦女神(エイリーン)の再来だ!」

浴びせられる声。
少女はその期待の重みに震えながらも、同時に、胸の奥で熱い使命感を燃やした。

「皆様に約束します。この私が、必ずや王都を守り抜いてみせましょう!」

地を揺らすような喝采が沸き起こる。その光景はまさに、幼い日に憧れた『伝記』のワンシーンそのものだった。



あの輝かしい喝采から、わずか数日。夢のような栄光は跡形もなく消え去り、残されたのは冷酷な現実だけだった。

王都郊外の森で一夜を明かした翌朝。彼らは王都に放った斥候から、衝撃の事実を知らされた。

帝国軍一万。損害を最小限に抑えた彼らは、今まさに王都全域を掌握しようとしている。そして――国王、ランカスター公爵をはじめとする重鎮たちは、全員が行方不明。

「陛下や父上たちは、王都(ローゼリア)を脱出されたの?」

セレスの問いに、斥候は重く首を振った。

「わかりません。あの混乱の中、脱出は困難かと……」

絶望が胸を締め付ける。
王国の中枢は消滅した。今やセレスは、完全に孤立したのだ。
王都(ローゼリア)の象徴だったはずの聖騎士団長が、一夜にして亡命同然の身へと転落した。

セレスティーヌは泥と血にまみれ、絶望に打ちひしがれていた。なぜ、自分の歩んだ戦場だけが、あの伝記のような美しい奇跡に繋がらなかったのか。

「セレス様。いつまで座っているのですか」

副官ミリアの冷徹な声が響いた。

「敗軍の将に、立ち止まっている時間などありません。……私たちに残された道は、南に一つだけです」

「南……?」

「ええ。ヴァルデン領へ向かいます。この絶望的な戦況を覆す最後の希望です」

セレスティーヌは震える足に力を込め、一歩を踏み出した。