王都の西、ウィンドル平原は薄い朝靄に包まれていた。
風一つない静寂の中、一万二千のローゼンベルグ王国軍が整然と隊列を組み、西へ向けて陣を構えていた。
黒髪の女性士官が隣の少女に話しかけた。
「セレス様。遂に初陣ですね。緊張しておられますか?」
「ええ、少し」
白銀の鎧と深紅の外套をまとった少女は小さく返事をした。
腰まで流れる銀髪が朝日にきらめき、蒼い瞳は真っすぐ前だけを見据えている。
その少女の名はセレスティーヌ・フォン・ランカスター。
半年前、王国史上最年少で聖騎士団長に就任したばかりだった。
そして十八歳の誕生日を迎えたばかりの彼女の姿は、まるで神話に出てくる戦女神のように見えた。
「ミリア、帝国軍の兵数は一万という報告でしたね」
ミリアと呼ばれた副官が答える。
「はい。率いる総大将は勇猛で知られる帝国軍第一騎士団ディートハルト将軍とのことです」
「では、いきましょうか……全軍、前進開始!」
澄んだ声が戦場に響き渡った。
王国軍が動くとほぼ同時に、正面の帝国軍が動き始める。
ローゼンベルク王国軍とグランゼイド帝国軍。
双方の距離がじわりじわりと近づいていく。
ミリアが声を上げた。
「敵が来ます!」
「ええ、わかっています。士気が高い我が軍が負けるはずはありません」
ミリアが静かに言葉を重ねた。
「兵力はこちらが勝っています。ここは無理をせず、厚みを持たせた陣形であたり、敵の動きを探りましょう」
セレスは副官の助言を受け流した。
「いえ、ここは正々堂々と中央突破をします。私は士官学校時代、演習で無敗だったのです」
「セレス様、実戦は演習と違います。それに敗れれば王都は丸裸になります。失敗は許されないのです」
セレスは振り返り、少し困ったように、けれど愛らしく微笑んだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫です、ミリア。戦女神の導きが、私たちに勝利をもたらしてくれます。さあ、今こそ正義を成しに行きましょう!」
「お待ち下さい。セレス様」
セレスは白銀の剣を高く掲げながら叫んだ。
「突撃!」
号令と共に、中央の部隊が一気に駆け出した。
『銀光』の異名を持つセレスの剣技は凄まじく、目の前の帝国兵を次々と倒していく。
その武勇に、味方の兵士たちの士気は跳ね上がる。
「セレス様へ続け! 帝国軍を蹂躙せよ!!」
王国軍の突撃は瞬く間に敵の前衛を食い破った。半刻が経過しても進撃は止まらず、敵の防衛線は紙切れのように引き裂かれていく。
「勝てる……! 我らが聖騎士団の敵ではない!」
「このまま本陣まで突き進め!」
歓声を上げ、盲目的に敵を追う兵士たちの後ろで、ミリアだけは冷や汗を流していた。
(おかしい……。あのディートハルト将軍が率いる帝国軍の中央が、ここまで脆く崩れるはずがない)
ミリアは戦場全体を見渡した。
よく見れば――敵の陣形は崩壊しているのではなく、一定の距離を保ちながらきれいに後退している。
(おかしい……もう半刻近く戦っているのに、敵の抵抗が最初から変わらない)
まるで、こちらの勢いを利用しているかのようだった。
ハッとしてミリアが視線を左右の遥か後方へと走らせた瞬間、血の気が引いた。
帝国軍の左右の部隊が、じわじわと前進しながら大きく回り込もうとしていた。
(罠だ……! 中央で深く引きずり込み、左右から包囲するつもりだ!)
だが王国軍はさらに速度を上げ、敵陣の奥深くへと突き進んでいく。前線から届く勝鬨に、後方の兵たちも勝利を確信していた。
「罠よ! 全軍止まって! 左右を見なさい、包囲されつつあるわ!」
ミリアが喉を潰さんばかりに叫ぶ。だが勢いに乗ったセレスの耳に、その声は届かない。
前線で悲鳴が上がった。
突出した部隊に対し、敵が左右から挟撃を開始する。横合いから突き立てられる槍、容赦なく振り下ろされる斧。逃げ場を失った騎士たちが、次々と泥の中に沈んでいく。
「退け! 誰か、退けと言え!」
指示は届かず、混乱した兵士たちが同士討ち寸前の混雑を生む。馬を失った騎士が徒歩で敵中を彷徨い、次々と斬り倒されていく。
(このままでは、ここで全滅する……!)
ミリアは即座に決断した。
「全軍、突入! 混戦に引きずり込んで!」
後方に残っていた部隊を一斉に押し上げ、勝利を捨ててあえて戦場を混戦に陥らせる。その隙を突き、馬を飛ばしてセレスの元へ駆け寄った。
「王都西門まで退いて迎撃しましょう。このままでは囲まれます!」
セレスは呆然と立ち尽くしていた。白銀の鎧は返り血を浴び、顔は紙のように蒼白だ。
「なぜ……なぜこのようなことになったの? 戦女神の加護は……?」
「セレス様。ご無礼を!」
ミリアの掌が、セレスの頬を強く引っ叩いた。
「いい加減、目を覚ましてください。周囲の現実に目を向けてください!」
弾かれたように顔を上げたセレスの瞳に、残酷な光景が映る。帝国軍に蹂躙される聖騎士団。「助けて」と手を伸ばした兵士が、敵の馬に踏みつぶされる。
「王都西門まで退きます。良いですね?」
セレスは、もはや言葉を返すことさえできず、ただ無言で深く頷いた。
◇
王都西門まで後退した聖騎士団だったが、そこに安息はなかった。
「敵を王都に入れないで!」
ミリアが叫ぶ。しかし、その命令は空しく響くだけだった。聖騎士団の兵たちは完全に士気を失っていた。
逃げ惑う市民。燃え上がる街並み。帝国軍の騎兵が濁流のように王都へとなだれ込んでいく。
「王都内に敵が……!」
ようやく我に返ったセレスが、小さく呟いた。
ローゼンベルグ王国建国以来、一度たりとも許さなかった外敵の侵入だった。
出立時に彼女を送り出した輝かしい歓声は、今や逃げ場を失った人々の悲鳴へと変わっていた。
「セレス様! お逃げください!」
セレスは襲い来る帝国兵を次々と斬り伏せる。だがそれは、広大な火災に水を撒くような、絶望的な抵抗でしかなかった。
「まだです! 私は王都を守る聖騎士団長なのです!」
「今は生きて撤退することが最優先です!」
ふと路地へ目を向けると、帝国兵に襲われる市民の姿があった。セレスは反射的に敵兵を斬り伏せ、倒れた人々へ駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
返事はない。重なり合うように横たわる人々は、苦悶に歪んだまま白く冷え切っていた。その濁った瞳が、なぜだか自分を責めるように映った。
(……ごめんなさい)
崩れ落ちそうな主君の姿を見て、ミリアは決意を込めて声を張り上げた。
「聖騎士団、一旦王都を離れるわよ! ――生き残って再起を図りなさい!」
残存兵とセレスを引き連れ、王都を脱出した。帝国軍は追撃せず、王都の占領へと向かっていた。
◇
夕闇が平原を包み込む頃、一行は王都近郊、南の森へと逃げ込み、急造の野営地を張った。
残存兵力は僅か三千。その大半が負傷しており、木々の間には呻き声だけが低く響いている。
焚き火の音だけが聞こえる、静まり返った夜。
炎に照らされた漆黒の髪を揺らしながら、ミリアは、地面をじっと見つめ続けるセレスの傍らに立った。
「なぜ、作戦を変えられたのですか」
セレスは顔を上げなかった。
「……私は、ヒルデガルドのように……」
戦女神の生まれ変わりと言われた、百年前の救国の英雄『聖女将軍ヒルデガルド』。その名を呟いた少女の肩は、夜露のせいか、それとも深い後悔のせいか、小さく震えていた。
風一つない静寂の中、一万二千のローゼンベルグ王国軍が整然と隊列を組み、西へ向けて陣を構えていた。
黒髪の女性士官が隣の少女に話しかけた。
「セレス様。遂に初陣ですね。緊張しておられますか?」
「ええ、少し」
白銀の鎧と深紅の外套をまとった少女は小さく返事をした。
腰まで流れる銀髪が朝日にきらめき、蒼い瞳は真っすぐ前だけを見据えている。
その少女の名はセレスティーヌ・フォン・ランカスター。
半年前、王国史上最年少で聖騎士団長に就任したばかりだった。
そして十八歳の誕生日を迎えたばかりの彼女の姿は、まるで神話に出てくる戦女神のように見えた。
「ミリア、帝国軍の兵数は一万という報告でしたね」
ミリアと呼ばれた副官が答える。
「はい。率いる総大将は勇猛で知られる帝国軍第一騎士団ディートハルト将軍とのことです」
「では、いきましょうか……全軍、前進開始!」
澄んだ声が戦場に響き渡った。
王国軍が動くとほぼ同時に、正面の帝国軍が動き始める。
ローゼンベルク王国軍とグランゼイド帝国軍。
双方の距離がじわりじわりと近づいていく。
ミリアが声を上げた。
「敵が来ます!」
「ええ、わかっています。士気が高い我が軍が負けるはずはありません」
ミリアが静かに言葉を重ねた。
「兵力はこちらが勝っています。ここは無理をせず、厚みを持たせた陣形であたり、敵の動きを探りましょう」
セレスは副官の助言を受け流した。
「いえ、ここは正々堂々と中央突破をします。私は士官学校時代、演習で無敗だったのです」
「セレス様、実戦は演習と違います。それに敗れれば王都は丸裸になります。失敗は許されないのです」
セレスは振り返り、少し困ったように、けれど愛らしく微笑んだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫です、ミリア。戦女神の導きが、私たちに勝利をもたらしてくれます。さあ、今こそ正義を成しに行きましょう!」
「お待ち下さい。セレス様」
セレスは白銀の剣を高く掲げながら叫んだ。
「突撃!」
号令と共に、中央の部隊が一気に駆け出した。
『銀光』の異名を持つセレスの剣技は凄まじく、目の前の帝国兵を次々と倒していく。
その武勇に、味方の兵士たちの士気は跳ね上がる。
「セレス様へ続け! 帝国軍を蹂躙せよ!!」
王国軍の突撃は瞬く間に敵の前衛を食い破った。半刻が経過しても進撃は止まらず、敵の防衛線は紙切れのように引き裂かれていく。
「勝てる……! 我らが聖騎士団の敵ではない!」
「このまま本陣まで突き進め!」
歓声を上げ、盲目的に敵を追う兵士たちの後ろで、ミリアだけは冷や汗を流していた。
(おかしい……。あのディートハルト将軍が率いる帝国軍の中央が、ここまで脆く崩れるはずがない)
ミリアは戦場全体を見渡した。
よく見れば――敵の陣形は崩壊しているのではなく、一定の距離を保ちながらきれいに後退している。
(おかしい……もう半刻近く戦っているのに、敵の抵抗が最初から変わらない)
まるで、こちらの勢いを利用しているかのようだった。
ハッとしてミリアが視線を左右の遥か後方へと走らせた瞬間、血の気が引いた。
帝国軍の左右の部隊が、じわじわと前進しながら大きく回り込もうとしていた。
(罠だ……! 中央で深く引きずり込み、左右から包囲するつもりだ!)
だが王国軍はさらに速度を上げ、敵陣の奥深くへと突き進んでいく。前線から届く勝鬨に、後方の兵たちも勝利を確信していた。
「罠よ! 全軍止まって! 左右を見なさい、包囲されつつあるわ!」
ミリアが喉を潰さんばかりに叫ぶ。だが勢いに乗ったセレスの耳に、その声は届かない。
前線で悲鳴が上がった。
突出した部隊に対し、敵が左右から挟撃を開始する。横合いから突き立てられる槍、容赦なく振り下ろされる斧。逃げ場を失った騎士たちが、次々と泥の中に沈んでいく。
「退け! 誰か、退けと言え!」
指示は届かず、混乱した兵士たちが同士討ち寸前の混雑を生む。馬を失った騎士が徒歩で敵中を彷徨い、次々と斬り倒されていく。
(このままでは、ここで全滅する……!)
ミリアは即座に決断した。
「全軍、突入! 混戦に引きずり込んで!」
後方に残っていた部隊を一斉に押し上げ、勝利を捨ててあえて戦場を混戦に陥らせる。その隙を突き、馬を飛ばしてセレスの元へ駆け寄った。
「王都西門まで退いて迎撃しましょう。このままでは囲まれます!」
セレスは呆然と立ち尽くしていた。白銀の鎧は返り血を浴び、顔は紙のように蒼白だ。
「なぜ……なぜこのようなことになったの? 戦女神の加護は……?」
「セレス様。ご無礼を!」
ミリアの掌が、セレスの頬を強く引っ叩いた。
「いい加減、目を覚ましてください。周囲の現実に目を向けてください!」
弾かれたように顔を上げたセレスの瞳に、残酷な光景が映る。帝国軍に蹂躙される聖騎士団。「助けて」と手を伸ばした兵士が、敵の馬に踏みつぶされる。
「王都西門まで退きます。良いですね?」
セレスは、もはや言葉を返すことさえできず、ただ無言で深く頷いた。
◇
王都西門まで後退した聖騎士団だったが、そこに安息はなかった。
「敵を王都に入れないで!」
ミリアが叫ぶ。しかし、その命令は空しく響くだけだった。聖騎士団の兵たちは完全に士気を失っていた。
逃げ惑う市民。燃え上がる街並み。帝国軍の騎兵が濁流のように王都へとなだれ込んでいく。
「王都内に敵が……!」
ようやく我に返ったセレスが、小さく呟いた。
ローゼンベルグ王国建国以来、一度たりとも許さなかった外敵の侵入だった。
出立時に彼女を送り出した輝かしい歓声は、今や逃げ場を失った人々の悲鳴へと変わっていた。
「セレス様! お逃げください!」
セレスは襲い来る帝国兵を次々と斬り伏せる。だがそれは、広大な火災に水を撒くような、絶望的な抵抗でしかなかった。
「まだです! 私は王都を守る聖騎士団長なのです!」
「今は生きて撤退することが最優先です!」
ふと路地へ目を向けると、帝国兵に襲われる市民の姿があった。セレスは反射的に敵兵を斬り伏せ、倒れた人々へ駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
返事はない。重なり合うように横たわる人々は、苦悶に歪んだまま白く冷え切っていた。その濁った瞳が、なぜだか自分を責めるように映った。
(……ごめんなさい)
崩れ落ちそうな主君の姿を見て、ミリアは決意を込めて声を張り上げた。
「聖騎士団、一旦王都を離れるわよ! ――生き残って再起を図りなさい!」
残存兵とセレスを引き連れ、王都を脱出した。帝国軍は追撃せず、王都の占領へと向かっていた。
◇
夕闇が平原を包み込む頃、一行は王都近郊、南の森へと逃げ込み、急造の野営地を張った。
残存兵力は僅か三千。その大半が負傷しており、木々の間には呻き声だけが低く響いている。
焚き火の音だけが聞こえる、静まり返った夜。
炎に照らされた漆黒の髪を揺らしながら、ミリアは、地面をじっと見つめ続けるセレスの傍らに立った。
「なぜ、作戦を変えられたのですか」
セレスは顔を上げなかった。
「……私は、ヒルデガルドのように……」
戦女神の生まれ変わりと言われた、百年前の救国の英雄『聖女将軍ヒルデガルド』。その名を呟いた少女の肩は、夜露のせいか、それとも深い後悔のせいか、小さく震えていた。
