未完成なクレバーたち

 高校三年の春なんて、人生でいちばんつまらない。
「いいかー? 第三希望までちゃんと書けよー」
 担任の間延びした声に乗っかって、前の席から進路調査票が回ってきた。肩越しによこされた紙を指先でつまみ取り、「進路希望」という文字に目を落とす。
 用紙に名前だけ書いて、紙の角を指先で弄びながら、教室を見渡した。
 まわりのやつらは、紙を受け取るやいなやシャーペンを走らせている。その先に、まともな未来が続いていると、本気で思っているらしい。その迷いのなさを、少しだけ羨ましいとも思った。
 高一のときの進路調査票には、迷わず書ける志望校があった。成績だけ考えれば、まだ手が届くと思う。
 視界の端で、ベージュ色のカーテンが膨らんだ。次いで、少し埃っぽい春の風が廊下側の俺の席まで届く。目を閉じて、その春の匂いを吸い込んだ。
「おい。それ書いたならちょうだい」
「ああ、これ?」
 前の席のやつが、振り返りながら手を差し出してきた。こいつの名前を俺はまだ知らない。まあ、知ろうとも思わない。
 3年A組・黒川旭(くろかわあさひ)としか書いていない進路調査票を、てきとうに半分に折って彼に渡した。前へ前へ送られていくそれを、あくびをしながらぼんやり眺めた。

 特進科の三年は、成績順でクラスが組み直される。おかげで教室には知らない顔が増えた。
 新しい顔ぶれに浮き足立った教室では、やっと同じクラスになれたねと歓喜する声や、あの先生が担任はハズレだと落胆する声が飛び交った。
 でもその嫌悪は、担任だけに向けられるものではなかった。
『黒川旭って、あの……?』
『女を取っ替え引っ替えしてるっていう?』
『顔がいいからって、ろくでもねえやつだよなぁ』
 始業式のあと、教室に入った瞬間からそう囁かれた。席が廊下側の一番後ろなのは、せめてもの救いだった。背中に声や視線が刺さらないだけ、まだマシだから。
「いま回収したこの調査票をもとに、来週から個人面談するからな」
 この担任は確か――佐藤、と言ったか。去年も三年を受け持ち、クラスの全員を志望校へ合格させたとかなんとか、始業式のときに話していた気がする。スーツ越しでも分かる筋肉質な上半身に、否応なしに目がいく。体育教師に見えて実は数学教師だとか。
 その佐藤が、少し早いが今日はここまでと言って終礼し、初日は解散となった。
 教室中に張りつめていた空気がほどけ、たちまち安堵のざわめきへ変わった。そのざわめきの向こうから、好奇の視線がちらほら飛んでくる。バレバレだ、とこっそり舌打ちし、机の脇に引っかけていたスクールバッグを肩へかける。鬱陶しい視線を振り払うように、そのまま教室をあとにした。
 早く切り上げられたせいで、思ったよりずいぶん時間ができてしまった。バイトまでどうやって時間を潰そうかと、メッセージアプリを立ち上げる。だが画面をスクロールし、いまから会えそうな子に目星をつけていくものの、どれもしっくりこなかった。

「あっ! あさひぃー!」
 スマホをポケットにしまいながら廊下を歩いていると、視線の先で俺の名前を呼びながら手を振る宮本かなの姿が見えた。短いプリーツスカートをなびかせ、かなはまっすぐこちらへ向かってきた。俺を呼ぶ声が大きいからか、もしくは「旭」という名前に反応したのか、まわりのやつらは俺とかなを交互に見た。
「旭は何組?」
 そう言いながら、さも当たり前のように俺の腕に絡みつく。
「ん〜? 俺はA組」
「え、Aぇ? トップじゃん。さっすが旭〜!」
「まあね」
「わたしなんて、下から二番目のHだったよ……普通科も学力順なんて聞いてないっ!」
 かなは頬を膨らませた。
 三年の教室だけは、特進科と普通科がそれぞれ成績順で同じ階に並んだ。行き来しやすいせいで、いまみたいにかなが特進科へ来ることも増えそうな気がした。できれば二年や一年のときみたいに、普通科とはもう少し離れていてほしかった。
 まあでも、バイトまでの時間潰しには、なりそうだ。ひとの声や体温に身を委ねるときだけは、なにも考えずに済むから。
 俺は足を止め、彼女の耳元に顔を寄せた。
「ねえ、これから暇?」
「え、うん。夕方までなら」
「ちょうどよかった。これからかなの家に行ってもいい?」
 囁いた途端、彼女の肩がぴくりと揺れた。わずかに俯いた顔は、面白いほど耳まで赤くなっている。
「う、うん……」
 こくりとうなづくのを確認してから、俺は腕をほどき、そのまま彼女の腰に手を回した。
 進路のことを考えるより、こうしているほうがずっと楽だ。先のことなんて、考えたところでどうにもならない。いまが埋まるなら、それでいい。
 ちらちら見てくる奴らに一瞥をやり、かなの腰をさらにぐっと引き寄せ、廊下をあとにした。

 午後十時すぎ。閉店まであと三十分。
 ポポール南文京店の夜は、昼間より少しだけ静かだ。木目と白を基調にした店内は、オレンジがかった照明に照らされると、全国チェーンにしては妙に落ち着いて見える。
 テスト期間なら、参考書やルーズリーフを広げた学生が閉店ぎりぎりまで居座ることもあるが、新学期が始まったばかりのいまはそんな客もいない。
 客足もこのまま落ち着きそうだったので、俺はエスプレッソマシンの清掃に取りかかった。レジのほうもひと段落ついたらしい。工業高専に通うひとつ年下の内田くんが「あ、オレ、洗浄入ります。客が来たら旭先輩、レジもお願いしぁっす」と言いながら、ドリンクカウンター横のシンクに回ってくる。そうして、溜まっていたグラスの予洗いを始めた。
「そいや旭先輩って今年三年っすよね? バイト続けてていいんすか?」
 緑色の髪を揺らして、内田くんがシンクから顔をのぞかせる。
「大丈夫だよ」
「えっでも、ブンナン特進科の三年って、めちゃくちゃ勉強忙しいですよね!? 全員進学だし」
「アー。俺、大学行く気ないから」
 ダスターを握ったまま、天井のオレンジ色の照明を見上げ、有線から流れるジャズに耳を傾ける。そして、自分で吐いた大学という言葉に引っぱられるみたいに、白紙の調査票を見た担任の顔が視界にぼんやりと浮かび上がった。
「ええっ? 大学いかないんすか?」
 蛇口から流れる水音と内田くんの声で、意識が戻る。
「うん。そのつもり」
 内田くんは舌ピアスを見せるように、げぇ、と顔をしかめた。
「ぅええ、もったいなぁ……」
 言いながら、業務用食洗機のドアをガジャンと下ろした。
 だが次の瞬間、何かを思い出したみたいに、あっと顔を上げる。
「そういえば。ブンナンの特進科でここ辞めないひと、もう一人いますねぇ」
「へ? そんなやつがほかにもいたの?」
紬生(つむぎ)先輩ですよ? 火木土でシフト入ってる……」
「誰? つむぎ? 男? 女?」
「男です、って先輩知らなかったんすか?」
「うん」
秦野紬生(はたのつむぎ)先輩! サラッサラ黒髪ショートヘアーの! ほんとに知らないんすかぁ同じ学校で同じ学年なのにぃ?」
 内田くんは、食洗機の豪快な音にかき消されないように声を張った。
 その声に圧倒されつつ、エスプレッソマシンを拭いたダスターをもてあそびながら宙を仰ぐ。黒髪ショートヘアーの秦野紬生という人間は、脳の裏側をめくって探してみても、俺の記憶にはなかった。
「ああ。旭先輩は月水金のシフトだから、二人は被ってないのかぁ」
「そもそも、学校の人間に興味ないしね」
「なんじゃそりゃ」
 内田くんが笑ったところで、食洗機のブザーが鳴った。蓋を持ち上げると、白い湯気がどっと立ちのぼる。熱を含んだ湿った空気が、ドリンクカウンターのほうまで流れてきて、頬をむわっとかすめた。
「秦野紬生、ねぇ」
 アチアチ言いながらプレートラックを引き出す内田くんを傍らに、口の中で転がすみたいに、もう一度その名前をなぞった。
 大学受験のためにあると言われているブンナン特進科に通いながらも、三年になったいまもアルバイトを続けている。そんな変わり者が俺以外にもうひとりいたのかと、わずかに興味をひかれた。
「受験大丈夫かって店長が心配してましたよ」洗い終えたマグカップを俺に渡しながら内田くんは続ける。「自分たちがどんな学校に通っているのか自覚ないでしょ」
「いや、分かってる分かってる」
 本当ですかぁ〜? と内田くんは顔を近づけてくる。俺は返答に困りながら、両手でこっち来んなと押しのけた。
 ――秦野紬生。
 つまらない春の底に、知らない名前がひとつ落ちる。ほんの少しだけ、刺激を加えてくれるような響きだった。


 目を閉じて机に突っ伏しているところへ、朝のSHRのチャイムが鳴った。
 うっすら目を開けると、前髪に遮られた視界の先で、立ち話をしていたやつらが足早に席へ戻っていった。
『黒川君って遅刻しないんだね……』
『不良かと思ってた』
 寝ているふりをしていたせいか、隣の列からそんな声が聞こえてきた。べつに不良ではないと思うのだが、真面目そうな彼女たちから見れば、似たようなものかもしれない。突っ伏したまま体をわずかにを動かすと、その会話はぴたりとやんだ。
 重たい頭を持ち上げあくびをしたところで、担任の佐藤が教室に入ってきた。日直の号令に促されるように挨拶をし、俺らが席につくや否や、
「出席取るぞ—」
 とせっかちな様子で名簿を開き、あ行から順番に名前を読み上げた。
「黒川」
「はぁい」
 そういえば、秦野紬生ってどこのクラスなのだろう。朝、ほかの教室を覗いてみたけど、黒髪ショートなんてそこら中にいた。どれが秦野かなんて分からないから、探すのはそうそうに諦めた。内田くんが言っていた特徴はまったくあてにならない。
「野崎」
「はいっ!」
「秦野」
「はい」
 ……ん?
 いま、秦野って言った? え、どこ。どいつ?
 その名に似つかわしい後ろ姿を探していると、三列隣、前から二番目の席に座る黒髪ショートの男子生徒が、不意にこちらを振り返った。
「――あ」
 一瞬、目があった気がした。
 けれど次の瞬間には、そいつはするりと視線を逸らしている。目があったというより、あれはただ、鋭い視線がこちらをかすめただけだったのかもしれない。
 遅れて、担任の声が耳に入ってくる。出席はすでに取り終わり、教室では連絡事項が読み上げられていた。けれど俺の意識はまだ半分ほど、あの黒髪ショートの後ろ姿に引っかかったままだった。

 一時間目の授業が終わって休み時間になり、そいつの席へ行った。
「ねえ、さっき俺のこと睨んでたでしょ?」
 ぼんやりと黒板を眺めているそいつの顔を、しゃがんで覗き込む。切れ長の一重の奥にある透き通った茶色の瞳が一瞬揺れた。
「――だったら何?」
 その冷たい声が俺に向けられたものだと気づくまで、少し時間がかかった。さっき揺れた瞳は、俺をきつく睨んでいる。
「えと」
 視線から逃れるように黒板へ横目を流した。けれど、その声音が妙に引っかかる――この声、さっき
「もしかして、秦野紬生?」
 そう訊くと、少しだけ目を見開いた。
「お、ビンゴ〜?」立ち上がり秦野の瞳に向かって指をさす。「秦野もポポールでバイトしてるんだって? 実は俺も働いてて! いやぁ、同じ学校の人間が働いてるなんて知らな――」
「知ってる」
「え?」
「黒川が働いてるの、知ってた」
「へえ」
 秦野がこくりと頷く。「目立つから、黒川って」
「目立つって……。まさか、睨んできたのはそれが理由?」
「ああ」秦野は背中を丸めて机のなかを覗く。「同じクラスは嫌だなぁって思って」
「は、嫌?」
「女の子をとっかえひっかえしてる、とか、変な噂ばかりあるし」秦野はずるりと数学ⅢCの教科書を取り出す。「バイトが一緒だとばれたら、こっちまでなにか言われそうで」
「なにかって、なんだよ」
「知らない」
「おいっ!」
 と声を張ったところで、二時間目のチャイムが鳴った。いたるところから足音がして、クラスのやつらがそれぞれの席にもどっていく。
「チャイム鳴ったけど、戻らないの?」
「は? 言われなくても戻るし」
 苛立ちとやりきれなさを踏み潰しながら自分の席へ戻った。着席して、ふと左斜め前に目をやる。秦野は前を向いたまま、こっちに視線を寄越そうともしない。俺だけがあいつの言葉に振り回されているというのか。
 はっきり面と向かって「嫌だ」と言われたのは初めてだった。そもそも嫌いとか嫌だとか、そんな言葉を、他人から直接言われたこともない。
 誰もが俺に直接言わなかったことを、秦野はあっさり言ってのけた。
 机の脇に引っかけたバッグへ手を突っ込む。数学ⅢCの教科書に触れた指先が、ぴくりと止まった。さっきそれを取り出した秦野の横顔が不意に頭をよぎる。思わずかぶりを振った。