わけあって腹黒イケメンと偽装恋人をはじめたら、後戻りできなくなった話


 祭り当日。遠くで聞こえる太鼓の音と、賑やかな人の声が交差する。空は暗くなっているのに、あたりは光に包まれていた。

  集合場所は祭り会場の入口付近。大きな神社の鳥居が目印だ。僕はこれから、ここにやって来る遠坂隆二と、二人で祭りを回ることになっている。そう約束したからだ。
  実を言うと、終業式の日。例のごとく僕を迎えに来た遠坂隆二と、他愛もない話していたとき。


  ──なあ千街、遠坂。おまえらも一緒に祭りに行かないか?


  面識のあるクラスメイトから、ふたり合わせて祭りに誘われた。参加するメンバーは男女構わず大勢らしい。おそらく景也も居るのだろうと察した。が。


  ──透と二人で行くから断る。デートなんだ。


  周りに見せつけるように僕の頬へキスをして、そう答えた彼の横顔を思い出す。
 仲睦まじい恋人を演じるためとはいえ、あそこまでする必要はあっただろうか。いま思い出しても、顔から火が出てしまいそうだ。


 ──ええっ、俺も遠坂と千街くんと祭りに行きたかった! イチャイチャする二人を近くで見たかったのによお! くそ……なんで俺は、今年もこの真面目野郎と祭りに行かなきゃならないんだ?
 ──落ち着け流。おまえが千街くんたちと祭りに行ったって邪魔になるだけだ。どうせ他に回る友達も居ないんだし、諦めて俺と回った方がいい。
 ──おい秀てめえ、あんまり俺を舐めるなよ! 俺だっておまえ以外の友達くらいいるわ!
 ──は? 誰だ?
 ──……えっと、し、篠原景也くん? とか?
 ──そうか。なら本当に友達なのか、本人に確認しに行こう。
 ──ば、ばかばかっ、ちょっと待てって……!


 石渡流と陣内秀も、どうやら二人で回るらしい。相変わらず仲のいい彼らを見て、ほっこりとした気分になったのを覚えている。

 ※

  集合時間まで、あとどれくらいだろう。スマホで時間を確認して、僕は「えっ」と堪らず声を漏らした。そうして、笑い混じりのため息をこぼす。


 「ちょっと……いやかなり、早く来すぎたな」


  集合時刻の三十分前に着いてしまうなんて、彼と出会ったばかりの僕が知ったら、どんな顔をするだろう。思えば今日は、朝から時計ばかり見ていた気がする。

  まさか高校生にもなって、祭りに行くのが楽しみだなんて……遠坂隆二にバレたら笑われるに決まってる。


 「よし、時間まで散歩でもしてよう」


  三十分もここでジッと待つなんて無理だ。
 夜と言えども蒸し暑いし、なんだか落ち着かない。僕は柄にもなく緊張していた。時間になればやって来る彼の姿を思い浮かべて、ぎゅっと心臓のあたりが苦しくなる。この感情の正体に気づく前に、人混みに紛れてしまいたいと思った。


  ──もしかして透、ぜんぶ思い出したの。


  ふと、景也の言葉が頭に浮かぶ。僕の首筋に手を当てて、瞬きせずに発されたアレは、いったいどういう意味だったのだろう。

  思えば本人に聞くタイミングもないまま、こうして夏休みに突入しまった。遠坂隆二は何か知っているようだったが、今日話を聞くチャンスはあるだろうか。

  人の波に流されるようにして、緩やかに歩を進める。毎年お馴染みのこの祭りは、神社の鳥居から何十メートルも先まで屋台が広がっているほか、左右に設置されたステージで太鼓やのど自慢、お笑いショーなど多くのイベントが行われている。

 三十分以内に全て見て回るのはとても不可能だ。あまり奥には行かないで、少し先にある木陰のベンチで休んでいこう。

  もう何度も足を運んだ場所だからこそ、人気のないベンチくらいは把握している。僕は人の波から抜けると、光り輝く屋台に背を向けて歩き出した。

 ※

  こんなこと、誰が予想できただろう。遠坂隆二が来るまでの間。たった数十分の時間を潰すために、ベンチへやって来ただけなのに。


 「このイカ焼きうめえ!」
 「ね〜花火何時から?」
 「誰か射的で対決しようぜ」
 「祭りって最高!」


  偶然とは恐ろしいものだ。ベンチに座っていたはずの身体は、気づけば木の影に隠れていた。なぜか? 僕を祭りに誘ってくれた面々が、ベンチにやって来たからだ。

 いや、違う。普通に彼らが現れただけなら、僕の顔くらい見せたはずだ。しかしどうだろう。


 「ねえ篠原くんっ、今から二人で抜け出そ」
 「ちょっと抜け駆けしないでよ! 私だって篠原くんと話したいんだから!」
 「篠原くんも祭りに来てくれるなんて嬉し!」
 「分かる! てっきり千街くんが来ないから来てくれないと思ってたっ」


  可愛らしい声が一斉に沸き上がり、一人の男を囲んでいる。木の影から視線を向ければ、そこにはもちろん、見知った顔が立っていた。僕の幼馴染である、篠原景也だ。

  彼の姿が視界に入った瞬間、僕は反射的に傍の木陰に隠れていた。どうしてそんなことをしたかは分からない。この前のことについて聞くいい機会だったのに、隠れた手前、今さら出ていくこともできなくて焦る。


 「私、実は前から篠原くんと仲良くなりたいと思ってたんだよね」


  景也が女子生徒からモテているのは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。夏の風より熱い視線を向けられていながら、肝心の本人はクールな表情を崩さないのだから驚いてしまう。

  女子生徒の一人が、景也の身体にボディタッチする。その艶かしい雰囲気ときたら、まるで映画のワンシーンでも見ているようだ。普通の男子生徒なら、たまらず顔を赤くしたに違いない。だが景也は、可愛らしい女子生徒からのアタックにも、相変わらずのクールな表情で黙っているから恐ろしい。
  それより、ここに長く留まるわけにはいかない。もうすぐ集合時間になるからだ。

  神社の鳥居に戻って、遠坂隆二と合流しないと。問題は、どうやってこの場所から離れるか、だ。傍で繰り広げられる光景を眺めながら、そんなことを考えていた僕は、不意に「あれ」と疑問を覚える。
  普通、好きな人があんな風にモテていたら、誰だって嫌な気分や嫉妬心が芽生えるはず。なのに今、僕は何を考えた?


  ──透。この祭り、俺たち二人で行くぞ。


  最近、遠坂隆二のことばかり頭に浮かぶ。景也を前にしているときでも、彼の笑顔を思い出すくらいだ。僕たちはただ、偽装恋人として演じているだけなのに。


 「そういえば今日、千街と遠坂は? 誘ったのか?」


  僕たちの名前が聞こえたのは、それからすぐのことだった。景也や女子生徒のすぐ傍にいた男子生徒たちが、注目を集めたいと言わんばかりに、声を大きくして話し出す。


 「誘ったけど、二人で行くって断られた」
 「あいつら、最近いつも一緒だよな」
 「ていうかさ、誰も言わないから言うけどさ。ぶっちゃけアイツら本当に付き合ってんの?」


  聞こえた言葉にドキッとする。急に身体が熱くなって、心臓の鼓動が早まった気がした。まさか、バレたんじゃないだろうな。

  男子生徒たちの会話を耳にした女子生徒が、景也から目を離す。ぞろぞろと集まり、推理する探偵のような顔つきで語り出す。


 「まあ付き合ってるのは間違いないだろ。千街はともかく、遠坂は本当に好きなんじゃねえの? ベッタリだし」
 「俺はお似合いの二人だと思うな。なんかアイツら、すげえ幸せそうだし」
 「いいや、俺は演技に一票だな。だって、そっちの方が面白いだろ」
 「遠坂って入学当時めっちゃモテてたし、告白逃れのためだったとか?」
 「ばかか、告白逃れのために千街と付き合うのか? あいつは確かに男らしい顔立ちじゃねえけど、でも男だぞ」
 「アタシはまだ遠坂くんのこと諦めてないからねっ」
 「私も! 今日も祭りに来てるんでしょ? 見つけたらアタックしてやるんだから」
 「本当に付き合ってるのか、千街くんに問い詰めたいのに、いっつもタイミング悪くて話せないんだよね〜」
 「分かる! 遠坂くん、授業以外は千街くんから離れないもんね」
 「やっぱ演技か?」
 「もしくはマジでホモの可能性も」
 「えーだとしたら引くわ」
 「な、篠原もそう思うだろ?」


  心臓が止まりそうだった。変な汗が沸き上がり、呼吸が荒くなる。生徒の目線がいっせいに景也を向く。
  僕と景也が幼馴染であると知っての質問に違いない。彼らにとっては何でもない、ただの雑談だったはずだ。しかし聞き耳を立てている僕から言わされば、この状況は、息が詰まりそうなほど、苦しいものだった。

  景也はなんて答えるのだろう。たった数秒の間が、数時間に感じられた。聞きたいのに、聞きたくない。聞いてはいけないような気がする。焦る気持ちが強くなればなるほど、心臓の鼓動は激しくなった。そんな僕の思いも露知らず、景也は早々に返事をした。


 「俺もそう思う」


  ひゅっと喉が鳴る。彼の回答を受けてすぐ、また賑やかな雑談に戻るクラスメイトの背をよそに、僕は惨めにも震えることしかできなくなる。
  景也は肯定を示した。それは、僕たちの関係が「演技だ」と主張する生徒への同調か。それとも、男同士で付き合っていることへの嫌悪か。

 どちらにせよ、景也の返事が僕の胸を深く刺したのは間違いない。傷ついた場所を中心に、痛みが広がっていく気がした。目の前が真っ暗になって、いま自分が立っている場所でさえ、分からなくなりそうで──


 「馬鹿なやつらだな」


  耳元で聞こえた、そっと囁くような声に、思わず肩を震わせる。視線を向けようとした矢先、僕の頭に小さな衝撃が走った。触れてみると、どうだろう。僕の頭には、狐のお面が被せられていた。


 「あんな露骨な演技なのに、まだ俺たちが偽物の恋人だって気づいてないやつもいるんだな。はっ、まんまと騙されてやがる」


  並びのいい歯を見せて笑う、墨色髪の男を見上げる。クラスメイトたちの会話を聞いていたのか。傷のついた手の甲で前髪を掻きあげて、何でもないように笑う姿に、なぜか可愛いと思ってしまった。


 「どうして隆二がここに居るんだ? 集合場所は神社の鳥居だろ」
 「時間より早く来たから、先に探索してたんだ」
 「この狐の面は?」
 「歩いてる途中、面屋のおじさんに無理やり買わされたんだ。いわく、『この面をつけた人は生涯幸せに過ごせる』だそうだ」
 「隆二でも騙されることがあるんだね」
 「騙されてたって、事実にすればいいだけだろ」


  僕の頭に付けられた面を、遠坂隆二が片手で奪う。何をするつもりかと黙っていると、彼は悪戯を思いついた子供のような顔をして、僕の顔にお面を被せた。視界がより薄暗くなる。

  まさか、僕にお面をつけて祭りを回れと言うつもりだろうか。彼の真意を探るべく、無理にお面を取ろうとしたときだ。

  まるで僕の動きを読んでいたかのように、伸ばして腕を緩やかに掴まれる。ちゅっと小さなリップ音が響いたのは、それからすぐのことだった。面を被っていたせいで感触こそ分からなかったが、遠坂隆二がキスをしたのは何となく察した。それもおそらく……口に。


 「この面、透にやるよ。生涯幸せに過ごせるんだ、大切にしろよ」


  僕に渡していいのか。なんでお面にキスしたんだ。聞きたいことが次から次へと湧いてくるのに、彼の優しい声を聞いたら、それどころではなくなってしまった。耳が熱い。両手に乗った狐の面を見下ろして、僕は小さく「……ありがとう」という。それから、恥ずかしさを隠すように言った。


 「隆二はどうして、僕の居場所が分かったんだ? ここは人気の少ない所なのに」
 「透が来るまで、ベンチに座って暇を潰そうと思ったんだ。歩き続けてようやく見つけたのがこの場所ってことになる。そうしたら偶然、木陰に隠れて怪しい動きをする不審者を見つけた」
 「僕は不審者じゃないよ」


  お面を頭の横に動かして、ムスッとして答える。すると遠坂隆二は、弾んだ声で大きく笑うから驚いた。何がそんなに楽しいのか。今日の彼はずっと笑顔で、機嫌が良さそうだ。


 「あ、祭り会場を歩き回ったってことは、隆二も三十分前に来てたのか?」


  尋ねてようやく、自分の間抜けな失言に気がついた。これじゃあ、僕が早く来たことを教えるようなものだ。揶揄されるに決まってる。


 「いや、一時間前には着いてたな。正直、楽しみすぎて昨日は寝れなかったし、朝から時計ばっかり気にして何も手につかなかった。挙句の果てには、柄にもなく時間前行動しちまうしで……本当、おまえには敵わない」


  さらりと答えた遠坂隆二に、僕は唖然としてしまう。監視の目もないというのに、恋人の演技を徹底する彼のプロ意識には、感心せずにいられない。分かっている。これが演技で、ぜんぶ嘘だと理解している。

  それなのにどうしてだろう。彼の言葉一つ一つに、僕の心臓は激しく反応するのが分かった。落ち着かないし、妙に身体が熱い。ど、ど、ど、と鳴り響く音が、彼に聞こえていないか心配になった。


 「それじゃ、行くぞ透」


  薄暗い木陰から逃げるように、遠坂隆二が僕の手を握って歩き出す。その大きな背中は、景也のことで不安になっていた僕の心を、あっという間に掻き消していまうような安心感があった。暗闇から連れ出してくれた彼の存在に、なぜか救われたような気分になる。

  祭りの賑やかさが近づいてくる。ネオンの光に吸い込まれるように、僕らの身体は人混みへ消えた。

 ※


 「透、どっちが射的上手か勝負するぞ」
 「腹減ったな。なんか食おうぜ」
 「見てみろ透、この熊の人形おまえにそっくり」
 「かき氷食おうぜ。一番人気はブルーハワイだってよ」


  それから僕たちは、射的で戦ったり、屋台の食べ物を楽しんだりと、かなり充実した時間を過ごした。景也やそのクラスメイトと遭遇するかもと思っていたが、人が多い上、祭り会場も大規模のため会うことはなかった。

  僕たちは屋台の最奥まで歩いたあと、近くのベンチでかき氷を食べていた。階段を登った先にある秘密基地のような場所で、見渡しが良いから穏やかな気分になる。
  人が密集する場所でもないので、辺りは思いのほか静かだった。


 「透、べーってしてみろ」


  ベンチはそれなりに広いというのに、遠坂隆二は僕にぴったりくっつきながら聞いてくる。何がしたいか分からないが、言われるがままに舌を出すと、彼は「やっぱり」と真相を見抜いた名探偵のように口元を緩ませた。


 「おまえの舌、真っ青だ。海みたいな色してる」
 「え」
 「自分でも見てみろよ」


  スマホのカメラを内カメにして、遠坂隆二が差し出してくる。まさかと思って見てみれば、そこには確かに、舌を真っ青にした僕の姿が映った。隣の彼が楽しげに笑うから、なんだか恥ずかしさが込み上げてくる。


 「ぶ、ブルーハワイ味を食べたからだろ!」
 「恥ずかしがらなくていい。可愛いだけだから」
 「そういう隆二はどうなんだよ。君もべーってしろ」
 「ほらよ」


  遠坂隆二は真赤な舌を覗かせて、にやっと笑う。そこでようやく、彼がイチゴ味のかき氷を食べていることを思い出した。ブルーハワイが一番人気、なんて言われて購入したが、なんだか騙されたような気分だ。


 「イチゴ味を食べるなんてズルだ。君もブルーハワイを食べた方がいい。もしくはメロンとか」
 「俺の勝ちか?」
 「勝負なんてしてないだろ」


  くだらないやり取りをして、顔を見合せて笑う。すぐ隣から聞こえる弾んだ声は、祭りの賑やかさを忘れてしまうくらい魅了的で、目が離せなかった。彼と居ると、些細なことでも楽しく感じてしまうからしょうがない。空になったかき氷のカップを見下ろして、僕は、ふと尋ねてみることにした。


 「……隆二はなんで、僕なんだよ」


  今までずっと思ってきたことがある。けれど口に出す勇気がなくて、遠回しにしていた。


 「告白されるのが嫌だからって、わざわざ男の僕と恋人の振りをする必要ないじゃないか。それに、景也が好きだってバレそうになったとき、君は僕を助けてくれたけど……方法は他にもあったはず。なのに、どうして」
 「俺もそう思う」
 「え」
 「たしかに方法はいくらでもあった。今みたいなことなしに、ただ透を助けることもできたし、おまえと恋人のフリをするのが、どれだけリスクのあることなのかも分かってた。……でも俺はこの方法でおまえを無理やり巻き込んだ。いま思えば、これは賭けだったんだ。おまえを諦めるための──」


  バンッと大きな音が響く。
 それと同時に、色鮮やかな光が弾けた。花火だ。僕たちが座るベンチの正面に、美しく大きな花火が上がった。

  祭りの終盤に花火が上がるのは、毎年恒例のことだった。立ち並ぶ屋台から花火を見上げるのが当たり前だったのに、今はどうだろう。人気のないベンチで二人、真正面から花火を見るのは新鮮だった。
  次々に上がる綺麗な花火に、僕は思わず目を奪われる。ドンッと弾ける音に合わせて、心臓が強く鼓動した。視界いっぱいに映る光から、目が離せない。


 「ここ、穴場なんだ」


  花火に夢中になっていると、耳元でこそっと囁く声が聞こえた。視線を向けると、遠坂隆二が嬉しそうに頬を緩ませている。花火の光が反射して、彼の顔が赤にも黄色にも光っていた。


 「この場所を見つけたとき、まっさきに透のことが頭に浮かんだ。おまえとここで花火を見たら、楽しいだろうなって」


  並びのいい歯を見せて、ニッと笑う彼の顔に、僕は思わず目を剥いてしまう。花火のせいだろうか。傍にいる彼の温かい笑顔が、眩しくて仕方ないと思った。これが偽物の恋人に向ける顔だというなら、なんて恐ろしい演技力だろう。

  心を掻き乱された気分だ。ど、ど、ど、と激しく鳴る心臓の鼓動がうるさい。顔も熱いし、なんだかすごく落ち着かない。
  けど僕は、この感情の正体に、まだ気付かないふりをする。


 「透、暗くて見えないだろうけど、この花火は海の方から上がってる」
 「ああ、この間、僕と隆二で行った場所だろ」


  虹色に光る海を思い出しただけで、自然と頬が緩んでしまった。
  あのときの記憶は、未だ鮮明に覚えている。砂浜で彼と走ったことも、貝殻のキーホールダーを貰ったことも。
  子供の頃から知っている海だ。溺れかけたこともあったけど、僕はあの場所が大好きだった。


  ──せんがい、とおる。


  ふと、頭の中に見知らぬ声が流れてくる。幼い子供の声だった。少しの不安と疑いを混ぜて、彼はボソッと僕の名前を呟いた。まるで初めての友達を前にしたような、ぎこちない姿だった。


  ──僕は苺が大好きで、今日は友達と海に遊びに来たんだ! ……でも、はぐれちゃって。ねえ、君はなんていう名前なの?


  それからすぐに、幼い頃の自分の声が浮かび上がってくる。白い砂浜の上で、僕は誰かに手を伸ばした。世の中の怖さをまるで知らない純粋無垢な顔で、僕は誰かに声をかけた。するとその人物は、やはりぎこちない様子で僕の手を取って、言ったのだ。


  ──俺の名前は……隆二、遠坂隆二。


  どくん、と心臓が大きくうねる。


  ──景也と隆二! 一緒に砂のお城作ろうよ!
  ──お城のてっぺんに旗を立てよう! 僕と景也と、隆二のお城だよ!


  ふと、ある記憶を思い出した。景也と海に遊びに行ったときのこと。好奇心旺盛だった僕は、気の向くままに砂浜を歩き、気づけば大人や景也からはぐれていた。そこで、一人寂しそうに海を眺める「彼」と出会ったのだ。


  ──透は俺とだけ遊ぶんだよっ。
  ──透以外はここから居なくなって。


  僕を探しにやって来た景也は、「彼」の存在が気に入らなかったのか、すぐに不満を口にした。いつもの僕なら「分かったよ」と折れて、景也の言う通りにしていたかもしれない。しかしその日、なぜか僕は、出会ったばかり彼から、離れたくないと思った。
  その結果がどうだ。


  ──透! 大丈夫か!
  ──おまえ……いま自分が何したか、分かってるんだろうな!


  耳元で聞こえたあの怒声は、どう考えても景也のものではない。僕を心配し、何度も名前を叫んでいたのは誰だった? 頭がズキンと痛む。
 だけど海で溺れかけたとき、目覚めた僕の隣には景也がいた。景也しかいなかった。その事実は変わらない。


  ──景也が僕を助けてくれたの?


  尋ねると、彼はたしかに「そうだよ」と答えた。溺れたときの記憶が曖昧だった僕は、これまでずっと、景也の言うことが本当だと信じて疑わなかった。けど。

  薄れゆく意識の中でみたのは、茶色の髪ではなかった。光をいっぱい浴びて輝いていたのは、墨のように美しい髪だ。

 その人物は、僕を海から引き上げるとき、落ちていた剥き出しの木で、どこかを怪我した。真赤な血が見えた。痛いに違いなかった。それなのに彼は、抱きかかえた僕を、絶対に離さなかった。あのとき彼は──。

  その瞬間、僕を現実世界へ引き戻すように、バアンッと大きな花火が上がった。視界に広がる白い光は、まるで青白い海のようだ。


 「……君だったのか?」


  どうして今まで、こんな大事なことを忘れていたんだろう。


 「ん?」


  まだ頭が整理しきれていないみたいだ。動揺のあまり声が震えて、妙な汗が滲むから怖かった。花火から目を逸らし、隣に座る彼を見つめる。

  そんな僕の焦る想いを知らない彼は、不思議そうに首を傾げるだけだった。改めて見る彼の顔は、少しの悪戯心と多くの優しさを含んでおきながら、どこか悲しそうだった。
  それもそのはず。彼はずっとずっと、僕を待っていてくれたのだから。


 「あのとき僕を助けてくれたのは、君だったんだね。隆二」


  震える声で話す僕に、遠坂隆二は一瞬だけ目を丸くしたあと……溢れ出す感情をぐっと堪えるように眉を寄せ、不器用な笑顔を浮かべて答えた。


 「気づくの遅えよ。ばか透」


 ※