「千街くん、遠坂と何かあったのか?」
景也と二人で移動教室に行こうと歩いていた矢先。僕たちの前に現れたのは、はだけたシャツを着た金髪の男、石渡流だった。
何かあったのか。そう聞かれたとたん、昨日のキスを思い出して、僕はあからさまに「え、いや」と動揺してしまう。叩けば埃が出ること間違いなしの動揺だった。しかし、石渡流の辞書に、駆け引きや読み合いという言葉は存在しないらしい。
「だって様子が変だからさ〜。いつもは口を開けば千街くんの話ばっかりなのに、今日は気の抜けたコーラみたいにぼーっとしてるんだ。そうかと思えば、急に顔が赤くなって、『……くそ』って言いながら顔を抑えてる。今は先生に雑用を押し付けられたからいないけど、あの間抜けな顔見せてやりたかったな〜。やっぱ何かあったとしか思えないだろ」
まさか遠坂隆二も、昨日のことを気にしているのだろうか。それとも、僕に怒っているだけなのか。
どう答えるべきだろう。目を細めて悩んでいると、僕の隣に居たはずの景也が、石渡流に一歩近づいて言った。
「そんなこと透に聞かなくても、遠坂本人に聞けばいいと思うよ」
にいっと、静かに笑う景也は不機嫌なのが明らかで、普通の人なら一目散に逃げ出したはずだ。
だが彼はひと味違う。マシンガントークが大好きな石渡流は、景也の登場でトーク心に火がついたらしい。
「えっ、篠原景也だ! やば、近くで見ると超絶イケメンじゃん。こんな顔面国宝存在していいのかよ? もしかして千街くん、篠原くんと仲良いの?」
「あ、幼馴染で……」
「ええまじかよ。篠原くんと千街くんが幼馴染とか最高じゃね? 俺も二人の幼馴染に生まれたかったわ。だってそうだろ? こんな可愛い子と格好良い子に毎日会えるんだからさ!」
「えっと……石渡くん?」
「それに比べてうちの幼馴染はどうだ? 頭のてっぺんからつま先まで真面目な男だぞ! 今朝だって一緒に登校したとき、俺の寝癖をこっぴどく叱ってきたんだ。頼んでもないのにトイレに連れていかれて、丁寧に寝癖を直されたんだから困っちまうぜ!」
それは感謝すべきなのでは。石渡流の幼馴染こと、陣内秀の真面目な顔立ちを思い出して、僕は口元を緩ませる。隣では、石渡流のマシンガントークを受けて、疲れ果てた様子で黙る景也がいた。
「しかも秀のやつ、最近は夜の十一時に電話を掛けてくるんだ。ゲームの誘いかと思って出ると、なんて言うと思う?」
「なんだろう……? 宿題やったかの確認、とか」
「いいや違う。宿題の確認は、夜の九時に毎日メールが来るからハズレだ。十一時はな、『もう寝ろ』っていう電話なんだよ! 俺が授業中に寝ないように、あいつ遂に、俺の睡眠時間まで管理するようになったんだ! ったく、おまえは俺の恋人かよって──」
「おまえが夜更かしするからだろ」
永遠と口を動かしていた石渡流の動きが、ピタリと止まる。それもそのはず。とつぜん背後から現れた人物が、彼の両頬を握り潰す勢いで掴んだからだ。
乱れひとつない髪が揺れる。現れたのは真面目な男、陣内秀だった。
「千街くん、篠原くん、迷惑かけてすまなかった。代わりに謝らせてくれ。この馬鹿のことは俺に任せて、早く移動教室に行くんだ。あと三分二十秒でチャイムが鳴るからな」
なんて頼もしい人なのだろう。あの石渡流を黙らせることができるのは、きっとこの世の中を探し回っても、陣内秀しかいないに違いない。
手を振る彼と、半泣き状態の石渡流に見送られて、僕と景也は移動教室へ行くことにした。
※
太陽の日差しがアスファルトをじりりと焦がし、蝉の声が辺りに響く。無事に授業を終えて教室に戻ると、クラスメイトたちはとたんに、ある話題を口にした。そう、みんな大好き「夏休み」だ。
「みんなは夏休み、何して過ごすんだ?」
「そりゃ彼女とデートだろ」
「勉強だ勉強」
「私はおばあちゃん家で過ごすよ〜」
「俺の夏は部活で消えるぜ……」
「とりあえず祭り行って花火見るだろ」
テストが終わってからというもの、クラスメイトたちはあっという間に夏休み気分になった。かくいう僕も、明後日から始まる長期休みに心を踊らせ、浮き足立っていたと思う。
放課後になったということは、もう時期「彼」が現れるだろう。思い返せば、いつもはどんなときでも僕の隣にいるくせに、今日は会えない時間もあったから気になる。
優等生らしく、先生から頼みごとを任されていたみたいだけど……昨日のキスのことを、まだ気にしているのだろうか。
まあ連絡もない以上、今日も一緒に帰ることになるはず。そう信じて疑わない僕は、遠坂隆二が迎えに来るまでに、帰りの支度を済ましておくことにする。偽装恋人として生活することになったときは、どうなることかと思ったが……僕は思いのほか、彼と過ごす時間を楽しんでしまっていた。
「透、ちょっといい?」
だから、突然後ろから肩を掴まれたときは驚いた。まさかもう遠坂隆二が迎えに来たのか。そう思って振り返ると、彼とは似ても似つかない、茶色の髪が視界に入る。
「え、景也」
相変わらずの優しい笑顔を浮かべて、篠原景也が僕を見ている。澄んだ瞳は夏の太陽よりも眩しくて、鼓膜を揺らす声は心地良い。
いつもの僕なら、至近距離で景也と向かい合うだけで、心臓がありえない音を響かせていたに違いない。けれど、遠坂隆二と偽の恋人を演じる中で慣れてしまったのか。今は緊張よりも驚きの方が勝ってしまった。
「どうしたんだ?」
「透と二人で話したいんだ。あまり時間は取らせないから、着いてきてほしい」
改まってどうしたのだろう。心なしか落ち着かない様子で、薄い唇を必死に動かす景也に、なんだか僕まで不安になる。何か大変なことでもあったのだろうか。
「いいよ。行こう」
もう少しで、遠坂隆二が教室にやって来るはずだけど……今はそれより、景也の話を聞くのが優先だ。僕が頷くと、景也は無いはずの尻尾をブンブン振って、「こっちだよ」と歩き出す。鼓膜を揺らす優しい声にしたがって、僕は、教室から離れることにした。
※
景也に連れられてやって来たのは、人気のない中庭だった。
アスファルトを照る太陽の目から逃れるよう、僕らは木陰で向かい合う。中庭を囲むようにして立つ建物を、何とはなしに眺める。辺りは蝉の声だけが響いていた。
「それで、急に話だなんて……何かあったのか? 景也」
僕の方から尋ねてみる。熱風に吹かれたせいだろう。目前に佇む景也の目が、少し赤くなっていると気づく。
思い返せば、今では誰もが認めるクールイケメンとして有名な景也だが、ああ見えて彼は子供時代、かなりの寂しがり屋だった。人見知りする性格で、僕以外の人とは仲良くなろうとしなかったし、僕が他の人と話すのを極度に嫌がった。
──透は俺とだけ遊ぶんだよっ。
──透以外はここから居なくなって。
ぎゅっと僕の腕にくっついて、涙目で怒ることもそう珍しくなかった。ほかの友達を徹底的に睨むから、「みんなで遊ぶのも楽しいよ」と宥めてみたことがある。すると景也は、瞳いっぱいに涙を貯めたと思えば、たちまち頬を膨らませ、しばらく拗ねたから大変だった。
高校生になった今、そんな寂しがり屋な性格も無くなったと思っていた。が、どうやらそうではなかったらしい。
「透はもう、俺と一緒にいてくれないの?」
尋ねる景也の目が潤んでいる。今にも涙が零れてきてしまいそうだ。おそらく、僕と遠坂隆二の関係について聞いているのだろう。
ぐっと感情を押し殺すように唇を噛んで、僕を見つめる景也は、まるで主人に縋る従順な大型犬のようだった。その姿を前にした僕の身体は、気づけば動き出していた。景也の傍に歩み寄る。
「僕が景也から離れるなんて、そんな馬鹿なことあるわけないよ」
長いまつ毛に涙の粒がついている。僕は彼の頬に触れると、光る涙を指で拭った。景也の弱った姿を見たのは久しぶりで、何とかしなくてはと思う。
「急に不安になったのか?」
「誰にも邪魔されたくないんだ。透の隣は俺だけがいい」
景也は、僕と遠坂隆二が本当に付き合っていると思っている。これはきっと、友達が他の人と仲良くなる姿に不満抱いての言葉に違いない。分かっている。分かっているのに……景也が僕に好意を抱いているのかもなんて、馬鹿な思い込みをしそうになる。
だって僕は、あの海で助けられたときから、景也のことが好きだったから。
──……俺の勝ち!
ふと頭に、遠坂隆二の笑顔が浮かぶ。ついこの間、二人で海に行ったときの思い出だ。彼と出会って、まだそんなに経っていないのに、まるで昔から一緒に居たような、懐かしさを感じるから不思議だ。
光る海より輝いていたあの眩しい笑顔が頭から離れなくて、なぜか胸が痛くなる。
「僕の……僕の隣は、いつだって景也が居ただろ? 昔から何も変わらない。だってほら、海で溺れた僕を助けてくれたときも……ずっと隣に居てくれたのは、景也だった」
彼を安心させるために言ったはずの言葉が、妙に震える。頭には、ベッドに横たわる僕の手を握ってくれた景也の顔がはっきり浮かんでいるのに──何か、大切なことを忘れているような気がしてならない。モヤモヤとした影が、僕の周りを漂っている。
「透、嘘ついてるでしょ」
そんな僕の動揺を掻き消すように、景也の腕が僕の両頬を掴んだ。咄嗟のことに驚いて、されるがままになってしまう。
潤んだ目の奥に、激しく揺れる炎を見た気がした。彼の瞳に射抜かれるように、僕の心臓がドクンと激しく鼓動した。急に胃の中が熱くなって、落ち着かない気分になる。
「なんだよ……嘘って」
動揺を悟られないように言ってみるが、吐き出した息は震えていた。
まさか、僕と遠坂隆二が偽装恋人を演じていると、バレたのだろうか。それとも、僕が景也に好意を寄せているとばれたのか。焦る僕の心を見透かすように、景也は淡々とした声色で言った。
「透、本当は遠坂隆二と付き合ってないんでしょ」
びくっと身体が震えた。息苦しさに吐きそうだ。どうしてバレたんだ。まさか僕の気持ちにも気づいたんじゃ。
すぐに返事をしなければならないと分かっていた。沈黙は肯定と思われても可笑しくないのに、それでも僕は、何も言えなかった。
──最悪の場合は、俺のせいにして逃げればいい。無理やり付き合わされてたって言えば、まあ納得するやつも居るかもしれない。
遠坂隆二の言葉を思い出す。バレたのなら、腹を括って真実を話せばいい。そうすれば誤魔化せるかもしれない。
そんな考えが頭を過ぎると同時に、ふと、海で見た彼の笑顔を思い出した。それから、僕にキスされて苺より赤い顔をした姿も。一緒にいると時折見せる、どこか悲しそうな彼の横顔も──。
「付き合ってるよ」
そうして気づく。僕はこの期に及んで、まだ、彼とのよく分からない関係を、続けたいと思ってしまっていると。
景也に気持ちがバレたくないからとか。遠坂隆二との偽装恋人を維持しなきゃだからとか。そんな思いを抱くより前に、言葉が出ていた。それが自分でも不思議で、僕はきっと、間抜けな顔をしていたと思う。
「僕と隆二は付き合ってる」
「……そんなわけない」
「本当だよ」
「入学式で透を見ても、他人のフリをしていたくせに、急に付き合ってるだなんて可笑しいよ。何か、そうせざるを得ない理由があるんでしょ。もしくは、彼が透を騙してるんだ」
「違うよ景也、これは僕の意思で」
「そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃ……」
景也は目を丸くすると、突然、僕の両頬空手を滑らせて、首筋に手をかけてきた。力は一切込められていない。獲物を見つけた蛇のように、細長い指先が僕の首に絡まるだけだった。互いの距離がぐっと縮まる。
彼から聞き捨てならない言葉が降ってきたのは、それからすぐのことだった。
「もしかして透、ぜんぶ思い出したの」
ゾッと身体に悪寒が走る。何が何だか分からなかった。なのに、どうしてだろう。嫌な予感を感じずにはいられない。僕の反応を見逃さまいとしているのか、景也は瞬きすらしない。
「け、景也。君の言ってることが分からないよ」
「思い出してないなら、なんで彼と付き合ってるなんて嘘つくの。透、何か隠してるんでしょ」
思い出したって、なんのことだ。分からない。分からないから、不安になる。僕は何か、忘れてはいけないものを、忘れているのだろうか。
「その言い方だと、まるで僕が、記憶喪失にでもなってるみたいじゃないか」
戸惑いながら尋ねる。頭がクラクラするのは、この暑さのせいだろうか。もし、もし景也の言うことが本当なら、僕は──。
「透!」
腰に伸びてきた腕が、僕の身体を後方へ引き寄せる。肩を掴んでいた景也の手が離れ、聞き慣れた声が鼓膜を揺らす。
「りゅ、隆二」
「教室に居ないと思ったら……こんな所で何してるんだ」
墨色の髪が視界に入ったとたん、なぜかとてつもない安心感を覚える。僕を景也から引き離したのは、遠坂隆二だった。
走って来たのか、珍しく息が切れている。彼は僕の無事を安全するように見回すと、目前に立つ景也に、ギッと鋭い視線を向けた。
「篠原景也だったか。懲りないな、おまえ。俺の透を勝手に連れ出すなんて、また殴られても文句言えないぞ」
「……君は本当に変わらないね、あのときからずっと。どうせ覚えてすらもらえないのに」
「はっ、嫌味か?」
「事実だろ」
「何がしたいのか分からないが、透を傷つけるつもりなら許さない」
「それはこっちのセリフだよ。今さら出てきたくせに、掻き回さないでほしいな」
「俺がどうしようがおまえには関係ないはずだ。これ以上邪魔するな。次はないと思った方がいい」
行くぞ透。
遠坂隆二は僕の腕に優しく触れると、景也に背を向けて歩き出した。されるがままに後を追うも、僕の頭は混乱していた。
一抹の不安が胸を指す。隆二と景也は初対面のはずなのに、どうして、まるで昔からの知り合いのように話していたのだろう。
頬をすべる熱風が、不安を掻き立てるように感じる。視界を埋める遠坂隆二の後ろ姿に、僕はしばらく、目が離せなかった。
※
学校を出てようやく、掴まれていた僕の腕は自由になった。しかしまだ、遠坂隆二は何も言わない。制服のポケットに手を入れて、静かに歩を進めている。終始無言の重苦しい空気に、僕は何も話せない。
景也との関係を聞くタイミングは今しかない、と分かっていながら、臆病にも口を開けることすらできなかった。今思えば、真実を知る覚悟がなかったんだと思う。
僕の半歩前を歩いていた遠坂隆二が、ぴたっと足を止めたのは、それからしばらく経った頃。壁の方へ釘付けになっているのが不思議で、僕も遅れて足を止める。
彼の視線の先を追うと、寂れた掲示板が見えた。イーターネット社会には珍しい、地域の情報や連絡事項を紙媒体で貼り付けるもので、複数貼られた情報のうち、一際目立つものがある。
今週末に行われる、祭りの告知貼り紙だ。出店や提灯、花火の写真が映っている。
「ああ、そういえば今週だったな」
ぼそりと思い出したように呟く。その頃には夏休みが始まっているだろうから、多くの生徒も来るはずだ。もしかして、祭りに興味があるのだろうか? そんな僕の疑問が伝わったのかもしれない。
掲示板に釘付けになっていた遠坂隆二が、くるりと僕に視線を戻す。そこにはもう、さっきまでの殺気立った雰囲気とは違う、いつもの彼が立っていた。
「これ……行きたい」
「え」
「透。この祭り、俺たち二人だけで行くぞ」
なぜ決定事項なのだろうか。急に祭りに行くことになり、僕は唖然と立ち尽くす。
小さい頃は、よく景也と一緒に来ていたけど……去年は受験勉強やら何やらで忙しく、祭りがあることさえ、終わったあとに知ったくらいだ。今年も特に、行く予定はなかったはず。
けど、どうしてだろう。並びのいい歯を見せて、楽しそうに笑う遠坂隆二を見ていたら、自然と僕まで心が踊るから、不思議な気分になった。
「うん、いいよ」
僕が素直に頷くなんて、予想していなかったのだろう。遠坂隆二は一瞬、驚いた様子で目を丸くした。それからすぐに──
「約束な。絶対来いよ」
心底嬉しそうに笑うのだった。
※

