わけあって腹黒イケメンと偽装恋人をはじめたら、後戻りできなくなった話


  どうしてこんなことになったのか。
 どうして僕は、偽恋人の家に──しかも、彼の部屋に座っているのか。


 「なあ透、炭酸とオレンジジュース、どっちがいい?」
 「あ……じゃあオレンジ」
 「この部屋暑いか? 温度下げる?」
 「ううん、ちょうどいいよ」
 「ケーキあるけど甘いの食える? 好きか?」
 「えっと好きだよ」
 「取ってくる。ちょっと待ってろ」


  至れり尽くせりな状況に、困惑が隠せない。景也以外の人の家に来るのは久しぶりだからか、妙に緊張してしまう。

  僕が遠坂隆二の家に来たのは、今から数分前。クリーム色の外観は綺麗で、家の中もすっきりしていた。二階の奥にある彼の部屋も、同様に整理されていた。母親は仕事に行っているらしく、家には僕たちしかいない。

 父親も仕事なのかと聞くと、彼は「あー」と言葉を濁すように間延びした声を発すると、やがて小さな声で「俺が小さいときに死んだ」といった。
 そうとは知らず無神経なことを。とっさに謝ろうとする僕を見て何を思ったのか。遠坂隆二は「それより早く部屋に来い」と僕の肩を抱き寄せると、有無を言わせず歩き出してしまった。

 そうして現在にいたる。
  彼の本棚は、難しそうな小説や参考書が詰まっていた。高校生の部屋というより、まるで大人の一室みたいだ。
  するとどうだろう。探索するつもりはなかったが、たまたま視界に入った勉強机だけは、他とは違う雰囲気を放っていると気づいた。勉強道具が並べられたその空間にふたつ、美しい輝きを放つ物があったのだ。


 「これは……」


  近づいてみると、貝殻だった。栗色と墨色の、宝石みたいに綺麗な貝殻だ。この間、海に行ってきたときに、遠坂隆二が貝殻を探していたことを思い出す。

  厳格にみえる空間の中で、寄り添うように並べられた貝殻に、気づけば口角が緩んでいた。あの海での思い出を大切にしているのは僕だけではなかったと、改めて思えたのが嬉しかった。


 「なに見てるんだ?」


  不意に後ろから声が聞こえて、びくーっと大袈裟に肩が跳ねる。心臓が口から飛び出るかと思った。慌てて振り向くと、遠坂隆二が僕の目と鼻の先に立っていた。傍のテーブルには、ショートケーキとオレンジジュースが置かれている。


 「貝殻を見てたんだ。これ、二人で海に行ったときのかなって」
 「よく分かったな。綺麗だったから飾ったんだ。透も俺の家に来て、これを見る度にあの日のことを思い出せるだろ。そうすれば、今度は忘れないで済む」
 「……今度は?」
 「それより、まあ座れよ。俺のお願いも聞いてもらわないとだしな」


 遠坂隆二の言葉に、少し引っかかりを覚えた。問い詰めようと口を開いてすぐ、そういえば、と本来の目的を思い出した。
  そうだ。僕は今日、勝負に負けた代償として、彼の願いを叶えるためにここへ来たんだった。他のことを考えている場合じゃない。

 いったい遠坂隆二は、僕にどんなお願いをするのだろう。好奇心と少しの不安をないまぜにして、僕は彼の隣に座った。

 ※


 「それで、隆二のお願いって何なんだ?」


  ショートケーキの上に乗った苺を頬張って、僕は尋ねる。口いっぱいに広がる甘みに、堪らず笑顔が溢れそうになった。

  これはきっと偶然だろうけど。実は、僕がこの世で最も好きな食べ物が苺なのだ。恥ずかしい話。小さい頃は、出会った人のほとんどに自己紹介として「苺が好きです!」と言っていた。それくらい苺が大好きだった。


 「透、俺の苺もやるよ」
 「えっ……! いいの?」
 「ああ。ただし、俺の願いを聞いたあとでな」
 「分かった。何でも言って!」


  苺ひとつでこんなにも従順になるのだから、簡単なやつだと思われたかもしれない。その証拠に、僕を見つめる遠坂隆二はとても楽しそうだった。飼い犬と遊んでいるような気分かもしれない。まあ苺が食べれるなら、そんなことはどうだっていい。

  はやく、はやく、と。
 急かすように遠坂隆二を見つめる僕に対して、彼はいたって平然と言ったのだった。


 「キスしてみろ」


  ……え? 言葉の意味がすぐに理解できなくて、思わず唖然としてしまう。キスだって? 僕が隆二に? なんで急にそんなこと。僕が景也に好意を抱いてるって知ってるくせに──。


 「ずっと思ってたんだ。学校であれだけバカップルを演じてるくせに、いつも俺の方からキスしてただろ。遠坂隆二の一方通行だ! なんて言われたら面倒だし、陣内や石渡も騙さないとだからな。だから、今ここで練習させてやる。やってみろ」
 「え、そ、そんな、急に言われても」
 「……じゃああれだ。おまえにいつ本物の恋人ができても良いように、練習だと思えよ」


  さっきまでの楽しげな表情とは一変して、「本物の恋人」と呟いた遠坂隆二が、どこか悲しそうに見えたのは気のせいだろうか。

  とはいえ、真剣勝負で負けたのは僕なのに、彼のお願いを無視するわけにもいかない。偽の恋人を上手く演じるために、ここは覚悟を決めるしかないだろう。練習だ。授業の復習をするのと何も変わらない。やるんだ、僕。

  ぐっと拳を握りしめて、目前に座る遠坂隆二と向き合ってみる。しかしどうだろう。お願いした肝心の本人は、僕の覚悟に気づかないのか、「ははっ」とその場にそぐわない笑い声を漏らした。


 「……ていうのは嘘だ。ふざけただけだ。透の嫌がることを頼むつもりはない。本当の願い事……そうだな、じゃあ肩でも揉んでもらおうかk──」


  ええいままよ! ぶつぶつ呟く遠坂隆二の言葉も聞かずに、僕はぐいっと顔を近づける。そこでやっと、彼は僕が何をしようとしているのか気づいたようだった。しかし、気づいたところでもう遅い。

  ちゅっと小さなリップ音が響いた。唇に触れた柔らかい感触が癖になりそうで、僕は慌てて彼から離れる。互いの唇が、ちょんっと触れただけだった。なのにどうして、こんなに心臓が痛いのか。顔から火が出てると言われても納得できるくらい、僕の身体は火照っていた。

  上手くできただろうか。どうして遠坂隆二は何も言わないんだろう。不安になって、ちらりと彼に目を向ける。するとどうだ。


 「……え?」


  僕は夢でも見てるのだろうか。
  子供騙しに近い、少し触れるだけのキスをしただけだと言うのに。座ったままでいる遠坂隆二の顔が、ショートケーキの苺よりも赤くなっていることに気づいた。耳も首も、全部が真っ赤だ。しかも、彼の丸くなった瞳は潤んでいて、あからさまに驚いているから、さすがの僕も心配になる。


 「な、なんだよその顔」


  下手くそだと言いたいのか。いや、それにしては顔が赤すぎる。腰が抜けたのか、その場に尻を着いたまま、遠坂隆二は固まっている。いつもの彼らしくない。


 「おい隆二……君、大丈夫か?」


  まさか具合が悪くなったんじゃないだろうな。そう思い、彼の肩に触れてみる。するとどうだ。

  指先が身体に触れた瞬間、ど、ど、ど、と激しく脈打つ心臓の音に気がついた。僕は慌てて彼に近づく。向かい合った瞳の中に、互いの顔が映り込む。


 「……ない」


  遠坂隆二がようやく喉を震わせた。だが、その声はいつもより覇気がなくて弱々しい。僕が「え?」と聞き返せば、彼は顔を苺色に染めたまま、くしゃりと前髪をかきあげて言った。


 「く、口にしろなんていってない……頬だと思ってたのに……」
 「あっ」


  言われてようやく、僕は自分の犯した失態に気づいた。たしかにキスしろとは言われたが、あれは「頬にしろ」という意味だったのか。思い返せば、学校でもいつも、遠坂隆二は僕の頬にキスしていた。誰も「口にしろ」なんて言ってなかったのに……!


 「ご、ごめん隆二っ、僕まちがえて」
 「べつにいい……はあ、くそ、ばかだろ透」


  いつにも増して、遠坂隆二の歯切れが悪い。耳も首筋も真っ赤にした彼の心臓は、まだ激しく動いているようだ。
  少し触れ合っただけなのに、唇の感触が忘れられない。ど、ど、ど、と。気づけば僕の心臓も、彼と同じ速さになっていた。

 ※