穏やかな波音と、柔らかい砂浜の感触が心地良い。日が伸びたせいか、空はまだ灼熱の太陽に覆われていた。視界一面に広がる海は大きくて、宝石みたいにキラキラしている。
学校の傍にあるバス停を利用して、遠坂隆二は、僕を海に連れてきた。
「すげえ潮の匂いだな。あ、こっちに来てみろ透。栗色の貝殻があるぞ。おまえの髪と同じだな。墨色の貝殻はないのか?」
海から少し離れたところには、軽食を摘める屋台やお土産を買う場所がある。平日というのに、意外と繁盛しているみたいだった。
周りの客から、僕たちはどう映っているだろう。制服を着た二人の男が、年齢に見合わずはしゃいでいるように見えるだろうか。
はあ、もう我慢できない。屈んで貝殻を探す遠坂隆二の前に立ち、僕は顎をあげる。
「おい隆二、君はふざけてるのか」
「ふざけてる? 俺はいつだって真面目で一途だぞ」
「ちゃんと答えろ。どうして僕が、君と二人で海に来てるんだ。クラスメイトの前でもないのに……演技する必要なんてないじゃないか」
「外でも頻繁にデートしてるって思わせた方が都合いいだろ。疑われる前に動いておくべきだと思ったんだ。周りの目だけじゃない。石渡は馬鹿だからともかく、陣内の方は賢いからな。敵を騙すにはまず味方からっていうだろ」
そんな言い訳を信じろというのか。本心の読めない彼に、振り回されてばかりだ。
ここで負けてはいけない。僕はぐっと腕を組むと、この口からでまかせ男を鋭く睨みつけてみた。その圧が功を制したのか。遠坂隆二は「分かった分かった」と両手を上げて立ち上がると、降参するように本音を語った。
「正直に話せば納得するんだな。まあ、あれだ……普通に来たかったんだよ。おまえと海に」
「僕と?」
「そうだ。おまえと」
「いきなり過ぎだろ」
「自分でも馬鹿なことをしたと思ってる。けど急に気になったんだよ。おまえが海、嫌いなのか」
「なんだよそれ……?」
「嫌いなら、悲しいだろ」
傍に広がる海を見つめて、遠坂隆二はぼそりと呟く。いつも人を小馬鹿にしたような顔をしているくせに、そのときの彼はなぜか寂しそうだった。
ぶら下がった右手には、相変わらずの切り傷がある。その手の中には、さっき見つけた貝殻が入っているようだ。
今になってようやく、この海に見覚えがあると思い出す。ここは幼い頃、景也と遊びに来た海であり、溺れた場所でもあるのだ。
プールや釣りはともかく……あの事故があってから、無意識に海を避けていたのかもしれない。思い返せば、ここへ来たのは久しぶりだった。
僕は海が嫌いなのか? 自分の心に尋ねてみる。潮風に打たれながら、遠くの景色を眺める間、遠坂隆二は何も言わなかった。僕の答えを待っているようだった。
「……嫌いじゃないよ」
光に照らされて艶やかに光る波をみていたら、自然と口角が上がっていた。隣で遠坂隆二が、息を呑む音が聞こえた気がした。視線を向けると、彼はこの広く美しい海ではなく、なぜか僕の顔を見ていた。
「な、なんでこっちを見てるんだよ」
「本当に嫌いじゃないんだな」
「え? あ、うん……むしろ好きだよ。久しぶりに来たけど、海はやっぱり綺麗だね。隆二、連れて来てくれてありがとう」
「……ははっ」
頬を緩ませる僕を見てすぐに、遠坂隆二は顔を背けた。それどころか、急に背を向けて歩き出してしまう。いつもの彼とは大違いだ。耳と首筋が赤く染まって見えた。この短時間で、もう日焼けしたのかもしれない。
「透、競走しよう」
遠坂隆二がこちらを振り返ったと思えば、その手には木の枝が握られていた。潮風に揺れる墨色が、光に照らされて輝いている。
「競走? 着替えもないのに泳ぐのか?」
「走るんだよ」
地面の砂で簡単な山を作り、頂上に一本の木の枝を挿す。枝が倒れないことを確認すると、遠坂隆二は僕のいる場所まで戻ってきた。
「二人同時に走り出して、先にあの木の枝を取った方の勝ちってルールだ。ズルはなしだぞ。真剣勝負だ」
目元を緩ませ、楽しそうにルール説明をする遠坂隆二は、まるで子供のようだった。その無邪気な姿に、なぜか見覚えがあるような気がするから不思議に思う。
とはいえ、勝負を挑まれたなら、乗るしかないではないか。足の速さに自信があるわけでもないのに、気づけば僕は、彼の提案に頷いていた。
「いいよ。受けてたt──」
「よーいドンッ!」
隣に居たはずの男が、全速力で走り出す。びゅんっと無いはずの効果音が現れ、僕の前髪をふわりと浮いた。真剣勝負だと言ったくせに。ズルはなしだと言ったくせに。
「卑怯だぞこの腹黒悪魔っ!」
ムキになって追い掛けるが、当然追いつくわけがない。僕がゴールにたどり着いたときにはもう、遠坂隆二が、木の枝を片手に大笑いしていた。
足場の悪い砂浜を走ったというのに、息切れ一つしていないから恐ろしく思う。それはそうと、平凡な容姿に見合わず、かなりの負けず嫌いな僕は、頬を膨らませて眉を釣り上げる。
「今のはナシだ! もう一回勝負しろ隆二!」
「くっ……ふふ」
「ズルしないって約束だったのに! 真剣勝負だって言ったくせに! やり直しだよ! こんな子供騙しをするなんて──」
「透」
目と鼻の先に顔が近づいてくる。そう気付いたときにはもう、頬に柔らかな感触が届いたあとだった。僕は彼にキスされていた。ここは学校じゃないのに。演技をする必要なんてないのに。
「……俺の勝ち!」
宝石のような輝きを放つ海を背景に、そう言って満面の笑みを見せる遠坂隆二は、この世のものとは思えないくらい綺麗だった。なぜだろう、心臓の辺りが、ぎゅっと掴まれたように痛む。
何なんだ。なんでこんな、変な気持ちになるんだ。苛立っていたはずの心が、すーっと穏やかになっていく。目前の男に影響されたに違いない。気づけば僕も、この可笑しな状況に、気づけばふっと吹き出していた。
「隆二って、なんだか子供みたいだ」
「どこがだよ。身長も体格もおまえより上だぞ。運動神経も学力もそうだ」
「何を根拠に言ってるんだ、僕を甘く見るなよ。他はともかく、勉強なら、隆二に勝つ自信がある」
「じゃあ次は学力勝負だな。テストの成績で」
「また今日みたいにズルをするつもりか」
「テストでズルは無理だろ」
他愛もない会話をして、二人揃って笑い合う。日常の一部でしかない光景のはずなのに。いまこの瞬間を、僕はなぜか、忘れたくないと思った。
※
さっきまで青く澄み渡っていた空が、気づけば茜色に染まろうとしていた。そろそろ家に帰らなければならない。時間の流れがあっという間に感じられて、少し寂しくなる。
バスが発車するまで、あと数十分はあるようだった。そこで「せっかくだから」と、僕たち二人は売店へ足を運んで来ていた。
海をモチーフにした、お菓子や人形が立ち並んでいる。店内に流れる陽気なジャズが心地良い。
「透」
売店の商品を眺めていると、ふと視界に青い光が映った。海が見えたのかと思ったが、夕日に照らされた今、海が青く見えるはずもない。なら、いったい何が。
「これやるよ。付き合ってくれた礼だ」
反射的に両手を出して、青い光を受け取っていた。遠坂隆二が、僕に何かプレゼントしてくれたらしい。見てみると、青い貝殻のキーホルダーと目が合った。ガラス細工の繊細な模様の奥で、白い砂が宝石のように散りばめられている。
「え、いいの? なんで……」
そもそも、どうして遠坂隆二は、僕と偽の恋人を演じているのだろう。ふと湧き上がった疑問を顔に出さないよう、唇を舐める。
──色んなやつに告白されて面倒だったんだ。
一ヶ月前、彼はたしかにそう言っていた。利害関係が一致したから、恋人ごっこをしようと言った。半ば脅される形で頷いたが、僕はしばらく、「一体どんな熾烈な恋愛劇場に巻き込まれるか」と不安に思っていた。
だが実際はどうだろう。僕は誰かに虐められたことはもちろん、嫌がらせを受けた試しもない。なぜか? いつも隣に遠坂隆二が居るからだ。約束通り、僕の身の安全を保証してくれているのだろうか。そうだとして……どうして彼は、ここまでしてくれるのだろう。
「せっかく来たんだから、思い出の物があったっていいだろ。次から海を見たときは、今日のことを思い出すんだな。俺と競争して負けたこととか」
「あれは君がズルしたからだよ」
それはそうと、突然のプレゼントに、嬉しくなったのは事実だ。無意識に避けていた海が、まさかこんなに楽しいだなんて。
演技をしているわけでもないのに、気づけば口元が緩み、明るい笑い声が漏れていた。
「ありがとう、大切にするよ」
「そのキーホルダー、明日から学校つけて来い。周りにアピールできる良い機会だ」
「アピール……?」
僕の手にあるキーホルダーとは別に、まったく同じ姿の物がひょいと現れる。まさか、と思い顔をあげると、相変わらずの悪戯じみた顔で笑う、遠坂隆二と目が合った。
「俺とお揃いだから、それ」
二つのキーホルダーが重なる。赤い夕日が潮風に誘われて、僕の耳を赤く染めた。
また来たいと思ったのは、多分、競争に負けて悔しかったからだ。
きっとそうに違いない。
※
次の日。僕たちがお揃いのキーホルダーをつけて登校すると、その情報は一日を待たずに学校中へ広まった。ある者は泣き崩れ、ある者は拍手し、またある者は、そのキーホルダーを買いに授業を早退したという──。
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