先輩、この謎解いてください

 とある水曜の放課後、ミス研の部室では熱い評論会が行われていた。今日の課題図書は『シャーロック・ホームズの冒険』の中の『ボヘミアの醜聞』だ。
「この作品の魅力は、何といってもアイリーン・アドラーよ! ホームズが唯一『あの女性』と呼んで敬意を払った相手なの。そのアイリーンとの頭脳戦が最高なんだから!」
 吉沢先輩が力説しながらホワイトボードを叩いた。そこには登場人物の相関図や用語の解説がこと細かく書き込まれている。
「しかもね、この作品の魅力は冒険小説味が強いってことよ。いつものホームズの論理的な推理もいいけど、変装したり潜入したり、かと思ったらアイリーンの結婚式の証人にさせられたりして! ね、そう思うでしょう、朝比奈?」
 僕は急いで相槌を打った。
「て、展開が、おもしろいですよね」
「そうなのよっ! そしてあの名言っ!『君は見ているだけで、観察していない』よ! ほんと痺れるわよね! ねっ、朝比奈!」
「は、はい。そう思います」
 返事を迫ってくる吉沢先輩に答えながら、隣の木崎くんを伺った。木崎くんはあっけに取られた顔で口を半開きにしている。
(木崎くんってこんな顔もするんだ……新鮮……)
 木崎くんも本自体は読んだようだが、どんどん白熱していく議論(というか吉沢先輩が一人で盛り上がっている状態)に付いてこられなかったようだ。しかしそんな木崎くんを見逃す吉沢先輩じゃない。
「木崎は? 木崎も面白いって思ったでしょ?」
「は、はい」
「ホームズ、好きになったでしょ?」
「……は、はい」
 木崎くんの返事に吉沢先輩は満足したように頷いた。「それでこれが第一弾として発表されたのは1891年7月で――」と話し始めたが、時計を見て慌てた顔になる。
「あっ、やばい! 今日バイトあるんだった!」
 吉沢先輩は慌てたように帰り支度をし、「じゃあまた金曜ね!」と叫ぶと嵐のような勢いで部室を出て行った。
 慌ただしい人だな……と僕は呆れながらも木崎くんを振り返る。木崎くんは椅子に腰かけたまま、呆気にとられた表情で固まっていた。
「びっくりした?」
「あー、うん。ちょっとは。吉沢先輩って、ホームズがすごい好きなんすね」
「はは、だよね。いいよねぇ」
 すると木崎くんは急ににやっとした。
「俺は先輩が好きですけどね」
「は……?」
「だから、俺は先輩が好きってことですよ」
 理解した瞬間かっと耳が熱くなった。
「そっ、そういうことじゃなくてっ!」
「はは、かわいー」
 甘い笑顔と言葉にまたどきっとして、慌てて目を逸らした。
『これからは本腰いれて口説こっかな。覚悟してね、先輩』
 その言葉通り、木崎くんの態度は最近変わった。わざとどきっとさせることを言ったり、すごく甘い顔で僕を見てきたりする。僕は困惑しきりで振り回されっぱなしだ。それを木崎くんは嬉しそうに見ているのだから、本当にいい性格していると思う。
 ホワイトボードに書かれた文字を消し、テーブルの上に広げてあった吉沢先輩の資料をまとめ、窓の鍵を閉める。
「行こうか」
「はい」
 部室から出て昇降口の前で一旦分かれ、靴を履いて合流する。最近部活がある日もない日も、毎日二人で帰るようになっていた。いつものように並んで駅まで歩き、ペデストリアンデッキのバス乗り場の前で別れようとしたとき。
「俺も一緒に乗る」
 木崎くんは僕がいつも乗っているバス乗り場へと足を向けた。
「えっ? でも方向が」
「いつもはあっちだけど、今日はこっちに用事があるから」
「そう?」
 それならばと一緒にバス待ちの列に並び、開いていた後方の二人掛けの席に座る。
 僕が窓側の席で、木崎くんは通路側の席。バスの窓から、暮れつつあるオレンジ色の空が見えた。ぼんやりと眺めていると、隣の木崎くんが言う。
「……ね、まだ思い出せない? 俺のこと」
「え?」
「ほら、このシチュエーションとかさ、何か思い出さない?」
「ええと」
 はっきり言って全然思い出せない。申し訳ない気持ちで首を振ると、木崎くんはがっくりと項垂れる。
「ごめん、ね」
「いや、いいっすけど」
「……そ、そろそろ、教えてくれたりは」
「教えない。思い出してよ」
「ヒントとか、ください」
「……じゃデートして」
 木崎くんが僕を見て言った。
(え……デート?)
 聞き間違いか冗談かなと思ったけど、木崎くんの目はガチだった。
「え……っ、あ、あの」
「ねえ先輩、いいでしょ?」
 息を詰めて身体を強張らせる僕の顔を、木崎くんがのぞき込んでくる。綺麗な顔に至近距離で見つめられ、かぁっと頬が火照った。
「今度の週末、デートしよ」
「え……あ……う……」
「な、いいよな? 俺とデートしてくれるでしょ? もしかしたら俺のこと思い出すかもしれないし」
(近い! 近いって、木崎くん!)
 木崎くんの顔がすぐ間近まで迫ってくる。僕は圧に負け「う、うん」と頷いた。
「よし、約束な」
「は、は、はな、離れて」
 息も絶え絶えに言うと、木崎くんはにっこりと笑い、やっと離れてくれた。
 はあ、と大きく息が漏れた。
(っていうか、木崎くんってずるいよ……)
 自分の顔面が武器になることを理解してきてこんなことをするんだから。
 しかも気が付くと、もうバスは降りる停留所に近づいていた。慌てて停止用のボタンを押す。
「あ、ぼ、僕、もう下りるんだけど」
「俺もここで降ります」
「えっ?」
 冗談かと思ったが、木崎くんは僕の後から本当にバスを降りる。僕は停留所の前で呆然と木崎くんを見た。
 謎すぎる。なんでこんな住宅街で降りるんだろ。
「あの、用事は」
「先輩といっしょに帰るのが用事」
「え?」
「言ったじゃん、ヒントだって」
「…………バス代と、じ、時間の無駄だと思う」
「無駄じゃないです。好きな人とは、少しでも長く一緒にいたいって思うもんだろ」
 まっすぐな目で木崎くんは僕を見つめてくる。その真剣な瞳に、条件反射のようにごくりと僕の喉が鳴った。
「――なあ先輩、早く俺のこと思い出して。いっぱい考えて、俺のことで頭いっぱいになって」
「あ……」
 言葉が出ない。目の奥を覗き込んでくるような木崎くんの強い視線に、胸をまっすぐに突き刺されたかのようだ。身体が動かない。
 木崎くんはふっと小さく笑うと、「それじゃデート、楽しみにしてるから」と言って帰っていった。
 ――ああ、どうしよう。
 僕は夕暮れに染まる道でぼんやりと立ち尽くした。
 あんなこと言われなくても、僕はもう、木崎くんのことで頭がいっぱいだった。