歩道に長い影が落ちている。空は刻々と夕方へと変わっていく、そんな時間。僕と木崎くんは駅までの道をゆっくりと歩いていた。
あれから――スポッチャを切り上げた後はお昼を食べて、僕のおすすめの本屋さんに回って、そのまま駅ビルの中をぶらぶらして、カフェでお茶をして。
「今日はありがと。すげー楽しかった」
「うん、僕も」
「バスケも一緒に出来たしな。ワンオンワン、またやろうな」
「……や、それはだいじょぶ、です」
ははは、と木崎くんが笑う。僕もつられるように笑ったけど、お祭りが終わった後のように寂しい気持ちがこみ上げてきた。信じられないくらいに楽しかった一日がもうすぐ終わってしまう。
ちゃりんちゃりんとベルが鳴って、向かいから子どもの乗った自転車がやってきた。
木崎くんが道を譲るように、少しだけこちらに身を寄せる。僕の右手の甲に木崎くんの手が当たった。
「……ぁ」
偶然触れた温かな肌の感触に、おおげさに肩が跳ねた。かあっと頬が火照り、途端に隣にいる木崎くんのことを強烈に意識してしまう。バスケのコートの中で、腕や腰に触れられたことを思い出してしまう。
そのとききゅっと小指が握られた。
「え……っ、な、なっ」
「先輩、手ぇ、繋いでも、いい?」
「え……っ」
というかもう繋いでいる。
小指の方からするすると上ってきた手が、僕の手のひらとしっかり合わされ、指を絡めるようにして繋がれる。
「嫌? 嫌だったらやめる」
少し心配そうな声で言われ、僕は首を振った。
「いや……じゃない、よ……」
それどころか嬉しい。繋いだ手のひらから伝わってきた熱が体中に回って、いまにも爆発してしまいそうだ。木崎くんの顔を見ることが出来ず、僕は歩道の点字ブロックをひたすら見つめた。
「あのさ、昔のことだけど」
「え……あ、うん」
「思い出して欲しい、なんて言ったけど、もうどうでもいいかなって思ってる」
「え……?」
僕は木崎くんを見上げた。夕日で染まった綺麗な横顔は、穏やかな笑みを浮かべている。
「思い出してもらえたら嬉しいけど……それよりも、こうやって先輩といっしょにいれるほうが俺にとっては大事だし」
「……うん」
「俺、先輩のそばにいたい」
ストレートな言葉に、胸がわし掴みにされた。
僕だって、木崎くんと一緒にいたい。木崎くんのことが好きだ。
(――好きって言ってくれないかな)
今この瞬間に、もし木崎くんが好きだよと言ってくれたらすぐに頷くのに。
だけどそれはフェアじゃない気がした。僕は昔、木崎くんとどこかで会ったことを忘れてしまったのだ。それを思い出さないと、誠実な思いやりをくれる木崎くんに向かい合えないような気がした。
「それじゃ、また月曜日にな」
あっという間に駅のペデストリアンデッキに着いてしまい、バス乗り場へと降りる階段の前で木崎くんはいつものように言った。
ここからは僕たちは別なバスに乗って帰る。ここでお別れだ。
木崎くんが繋いでいた手を最後に振って、そっと離す。温かな手が離れた瞬間、ちりんと胸の中で揺れるものがあった。
「……っ、あ、あの」
もっといっしょに居たい。離れたくない。
いろいろな感情が混じって言葉にならない。木崎くんは小さく微笑んで僕の頭を撫でてくれた。
「……またな」
ほんの少しだけ、突き放されたような気持ちになる。
「……うん」
僕は唇を噛みながら、こくんと頷いた。
昔のことをいまだに思い出せないくせに、これ以上木崎くんに何かを要求しちゃだめだ。
木崎くんに「またね」と手を振って、僕は彼に背中を向けた。
バス乗り場へ向かう階段を下りながら、自分の手のひらを見つめた。手にはまだ木崎くんの体温が残っている。
思い出したい。
思い出して木崎くんに向かい合いたい。
僕は木崎くんと出会ってから今までのことを順番に頭に浮かべた。
初めてあったのはミス研の部室。いきなり好きだと告白されて、「この謎を解いてください」と無茶ぶりをされた。それからすぐに些細な言い争いをして、でも木崎くんは僕のピンチに駆けつけてくれた。
ふっと何かが引っかかる。
あのとき木崎くんは、不思議なことを言っていた。何だったっけ? 確か、帽子がなんとかって言っていたような……。
そしてもう一つ思い出した。木崎くんはバスの中で「これもヒントだよ」って言っていた。
帽子にバス……。
そのとき小学生たちとすれ違った。野球チームの帽子をかぶった男の子が、ふたり並んで階段を駆け上がってくる。何かの教室に通っているのだろうか、二人ともお揃いの大きなトートバックをぶら下げている。
小学校低学年くらい? もっと大きいな。三年生くらいかな。
(――あ)
ふと足が勝手に止まった。
とん、と背中を押されたような感覚がした。急な階段を駆け下りるように、勢いよく記憶がよみがえってくる。
野球帽。
バス。
夏休みのサマースクール。
隣に座ったかわいい一つ年下の女の子。
――――――ああそうか、あの子だ。
僕は踵を返した。
今降りてきた階段を駆け上がり、そのままひとつ向こうのバス乗り場へ向かって走る。
(木崎くん――)
どうやって僕のことを見つけてくれたの?
どんな気持ちで会いに来てくれた?
今の僕を見て幻滅しなかった?
停留所にはすでにバスが着いていて、木崎くんは今まさに乗り込むところだった。僕は急いで階段を駆け下りる。
「待って!」
僕の声に木崎くんが振り向いた。
「朝比奈先輩? えっ? どしたの?」
はあはあと肩で息を付きながら、木崎くんと向かい合う。
身体全部が心臓になったみたいに、どくどくと脈を打っている。
僕はごくりと唾を呑み込んだ。
息を吸う。
口を開く。
「す」の形に口を開く。
「―――――――ッ、――ッ」
その瞬間、顎ががちりと固まった。
言葉が出ない。
息が詰まる。
まるで透明なガラスの板で、自分と世界が遮られていくような、いつもの感覚。
ぶわっと涙が込み上げてくる。
こんなときなのに、僕は駄目なのか。
大事なときなのに、大事な言葉が出ないのか。
……ずっと。
ずっと僕は、透明なガラス越しに世界を見ていたような気がする。
吃音だからしょうがないと、自分は普通じゃないのだからと心のどこかで諦めていた。
だって、言いたくても言えないんだからしょうがないじゃないか。
サ行やカ行が言えなければ、他の言葉に置き換えればいい。
それでも伝わらない言葉があるなら、小説で伝えればいい。
そうすればガラスの向こう側の世界と意思の疎通は出来る。
――でもそれじゃ駄目だ。
僕を見つけてくれて、わざわざ会いに来てくれて、僕の透明なガラスの扉を何度もノックしてくれた木崎くんに、「出ておいで」「この先があるよ」と教えてくれた木崎くんに、どうしても今自分の声で伝えたいことがある。
僕は両手でばちんと両頬を叩き、その勢いのままで叫んだ。
「――っ好きだ!」
僕の大声がバスのロータリーに響いた。
「木崎くんが! 好きなんだ!」
「……え……?」
木崎くんが大きく目を見開き、口をぽかんと開けた。瞬く間に顔が真っ赤に染まっていく
言えた。
――伝わった。
きちんと伝えられた。
嬉しくて嬉しくて繰り返す。
「僕、木崎くんが……好き」
木崎くんがすばやく何度も瞬きをする。僕は木崎くんを見据えながら、言葉を付け加えた。
「っき、き、木崎くんは、ミキちゃん、だよね?」
木崎くんの目がさらに大きく開いた。
「小学生のときの夏休み、……っ、吃音、のサマースクール、一緒だった、ミキちゃんだよね?」
木崎くんはしばらく固まっていたが、やがて目を細めてふっと笑った。
「先輩、やっと謎が解けたんだね」
あれから――スポッチャを切り上げた後はお昼を食べて、僕のおすすめの本屋さんに回って、そのまま駅ビルの中をぶらぶらして、カフェでお茶をして。
「今日はありがと。すげー楽しかった」
「うん、僕も」
「バスケも一緒に出来たしな。ワンオンワン、またやろうな」
「……や、それはだいじょぶ、です」
ははは、と木崎くんが笑う。僕もつられるように笑ったけど、お祭りが終わった後のように寂しい気持ちがこみ上げてきた。信じられないくらいに楽しかった一日がもうすぐ終わってしまう。
ちゃりんちゃりんとベルが鳴って、向かいから子どもの乗った自転車がやってきた。
木崎くんが道を譲るように、少しだけこちらに身を寄せる。僕の右手の甲に木崎くんの手が当たった。
「……ぁ」
偶然触れた温かな肌の感触に、おおげさに肩が跳ねた。かあっと頬が火照り、途端に隣にいる木崎くんのことを強烈に意識してしまう。バスケのコートの中で、腕や腰に触れられたことを思い出してしまう。
そのとききゅっと小指が握られた。
「え……っ、な、なっ」
「先輩、手ぇ、繋いでも、いい?」
「え……っ」
というかもう繋いでいる。
小指の方からするすると上ってきた手が、僕の手のひらとしっかり合わされ、指を絡めるようにして繋がれる。
「嫌? 嫌だったらやめる」
少し心配そうな声で言われ、僕は首を振った。
「いや……じゃない、よ……」
それどころか嬉しい。繋いだ手のひらから伝わってきた熱が体中に回って、いまにも爆発してしまいそうだ。木崎くんの顔を見ることが出来ず、僕は歩道の点字ブロックをひたすら見つめた。
「あのさ、昔のことだけど」
「え……あ、うん」
「思い出して欲しい、なんて言ったけど、もうどうでもいいかなって思ってる」
「え……?」
僕は木崎くんを見上げた。夕日で染まった綺麗な横顔は、穏やかな笑みを浮かべている。
「思い出してもらえたら嬉しいけど……それよりも、こうやって先輩といっしょにいれるほうが俺にとっては大事だし」
「……うん」
「俺、先輩のそばにいたい」
ストレートな言葉に、胸がわし掴みにされた。
僕だって、木崎くんと一緒にいたい。木崎くんのことが好きだ。
(――好きって言ってくれないかな)
今この瞬間に、もし木崎くんが好きだよと言ってくれたらすぐに頷くのに。
だけどそれはフェアじゃない気がした。僕は昔、木崎くんとどこかで会ったことを忘れてしまったのだ。それを思い出さないと、誠実な思いやりをくれる木崎くんに向かい合えないような気がした。
「それじゃ、また月曜日にな」
あっという間に駅のペデストリアンデッキに着いてしまい、バス乗り場へと降りる階段の前で木崎くんはいつものように言った。
ここからは僕たちは別なバスに乗って帰る。ここでお別れだ。
木崎くんが繋いでいた手を最後に振って、そっと離す。温かな手が離れた瞬間、ちりんと胸の中で揺れるものがあった。
「……っ、あ、あの」
もっといっしょに居たい。離れたくない。
いろいろな感情が混じって言葉にならない。木崎くんは小さく微笑んで僕の頭を撫でてくれた。
「……またな」
ほんの少しだけ、突き放されたような気持ちになる。
「……うん」
僕は唇を噛みながら、こくんと頷いた。
昔のことをいまだに思い出せないくせに、これ以上木崎くんに何かを要求しちゃだめだ。
木崎くんに「またね」と手を振って、僕は彼に背中を向けた。
バス乗り場へ向かう階段を下りながら、自分の手のひらを見つめた。手にはまだ木崎くんの体温が残っている。
思い出したい。
思い出して木崎くんに向かい合いたい。
僕は木崎くんと出会ってから今までのことを順番に頭に浮かべた。
初めてあったのはミス研の部室。いきなり好きだと告白されて、「この謎を解いてください」と無茶ぶりをされた。それからすぐに些細な言い争いをして、でも木崎くんは僕のピンチに駆けつけてくれた。
ふっと何かが引っかかる。
あのとき木崎くんは、不思議なことを言っていた。何だったっけ? 確か、帽子がなんとかって言っていたような……。
そしてもう一つ思い出した。木崎くんはバスの中で「これもヒントだよ」って言っていた。
帽子にバス……。
そのとき小学生たちとすれ違った。野球チームの帽子をかぶった男の子が、ふたり並んで階段を駆け上がってくる。何かの教室に通っているのだろうか、二人ともお揃いの大きなトートバックをぶら下げている。
小学校低学年くらい? もっと大きいな。三年生くらいかな。
(――あ)
ふと足が勝手に止まった。
とん、と背中を押されたような感覚がした。急な階段を駆け下りるように、勢いよく記憶がよみがえってくる。
野球帽。
バス。
夏休みのサマースクール。
隣に座ったかわいい一つ年下の女の子。
――――――ああそうか、あの子だ。
僕は踵を返した。
今降りてきた階段を駆け上がり、そのままひとつ向こうのバス乗り場へ向かって走る。
(木崎くん――)
どうやって僕のことを見つけてくれたの?
どんな気持ちで会いに来てくれた?
今の僕を見て幻滅しなかった?
停留所にはすでにバスが着いていて、木崎くんは今まさに乗り込むところだった。僕は急いで階段を駆け下りる。
「待って!」
僕の声に木崎くんが振り向いた。
「朝比奈先輩? えっ? どしたの?」
はあはあと肩で息を付きながら、木崎くんと向かい合う。
身体全部が心臓になったみたいに、どくどくと脈を打っている。
僕はごくりと唾を呑み込んだ。
息を吸う。
口を開く。
「す」の形に口を開く。
「―――――――ッ、――ッ」
その瞬間、顎ががちりと固まった。
言葉が出ない。
息が詰まる。
まるで透明なガラスの板で、自分と世界が遮られていくような、いつもの感覚。
ぶわっと涙が込み上げてくる。
こんなときなのに、僕は駄目なのか。
大事なときなのに、大事な言葉が出ないのか。
……ずっと。
ずっと僕は、透明なガラス越しに世界を見ていたような気がする。
吃音だからしょうがないと、自分は普通じゃないのだからと心のどこかで諦めていた。
だって、言いたくても言えないんだからしょうがないじゃないか。
サ行やカ行が言えなければ、他の言葉に置き換えればいい。
それでも伝わらない言葉があるなら、小説で伝えればいい。
そうすればガラスの向こう側の世界と意思の疎通は出来る。
――でもそれじゃ駄目だ。
僕を見つけてくれて、わざわざ会いに来てくれて、僕の透明なガラスの扉を何度もノックしてくれた木崎くんに、「出ておいで」「この先があるよ」と教えてくれた木崎くんに、どうしても今自分の声で伝えたいことがある。
僕は両手でばちんと両頬を叩き、その勢いのままで叫んだ。
「――っ好きだ!」
僕の大声がバスのロータリーに響いた。
「木崎くんが! 好きなんだ!」
「……え……?」
木崎くんが大きく目を見開き、口をぽかんと開けた。瞬く間に顔が真っ赤に染まっていく
言えた。
――伝わった。
きちんと伝えられた。
嬉しくて嬉しくて繰り返す。
「僕、木崎くんが……好き」
木崎くんがすばやく何度も瞬きをする。僕は木崎くんを見据えながら、言葉を付け加えた。
「っき、き、木崎くんは、ミキちゃん、だよね?」
木崎くんの目がさらに大きく開いた。
「小学生のときの夏休み、……っ、吃音、のサマースクール、一緒だった、ミキちゃんだよね?」
木崎くんはしばらく固まっていたが、やがて目を細めてふっと笑った。
「先輩、やっと謎が解けたんだね」


