バラードはうまく歌えない

「樹君は真面目だよねえ、お兄さんたちにまるっと甘えちゃえばいいのに」

 女性スタッフさんたちがふふっと笑った。

 いやいや真面目とかじゃなくて、それは俺が自分でやらなければいけないことで、俺は全力で首を振る。
 ……自主練でスタジオを使った後の片付けの、ダンスを見てくれた上に床にへたってる俺の横で片づけを始めてくれた東雲さんや京さんの話。

 今、事務所のスタッフさんたちのデスクがたくさん並ぶフロアの片隅にいる。

 多田の家宝のためのサイン……藤堂さんに訊いたら「いいよ」と快諾されたので、俺は色紙を買って事務所に持ってきた。
 そしてエスブレのみんなに状況を説明してサインを書いてもらい、その後だらだらと通りがかりの顔見知りのスタッフさんたちと立ち話をしているのが今で。

 デビューアルバムの数字は好調らしく、今は事務所内どこを歩いても、みんなからにこにこと笑顔を返された。
 俺の覆面性もちょっとした話題となって、物珍しさに立ち寄ってそのままアルバム購入に至る、という人も割といるようだと藤堂さんが言っていた。

 多分そこも考慮されてプロフィール非公開を飲んだのだろう、事務所側も。ほぼ一年間顔を出さないことになるが、そんな売り方はよほどじゃないと無理だ。たまたまの一年、それが限界だろうと思う。
 顔出し後はしっかり働かされるのだろう、もちろん頑張る。俺のせいで制限がかかっていた分、しっかり働く。

 ミニアルバム6曲の内、リード曲はすでにMVとして動画共有サイトに出ている。残り5曲を随時、ライブでの演目として想定した、MVとは違う形の動画をアップしていく予定となっている。
 さらにそのアップした動画の解説等動画を凛さんと東雲さんが中心となって翌々週あたりに配信、という形で、俺の卒業まで動画中心で活動していく。

 すでに一曲は世に出た。みんなでフルサイズで踊るライブバージョン。みんなでということはもちろん俺も。まあなんとかやれてるんじゃねえの、とファンの人に思ってもらえるようにダンスに関しては血の滲むような努力をせねばならず、フミ先生と凛さんからみっちりしごかれ、凛さんに休んでもらうために京さんや瑞希さん海斗さんも来てくれた。
 
 まあ、みんなと踊ったと言っても俺が踊る部分なんてほんの少しで。その合間にボーカルサイドとして東雲さんと二人でアカペラを録ったりもして。
 これは本当に楽しいだけでご褒美のような時間だった。公開される動画の俺は後ろ向きだったり遠目だったり、寄ってもマイクあたりだけだけど。

 レッスンや撮影が終わった後は、急いで家に帰って(夏休み中は実家に帰省)、受験勉強。夏期講習に行きたかったがちょっとそこまでは事務所に甘えられないので、ひたすら一人で家勉。

「レッスン室は次の予約があるからそこは早く引き払わないとって感じなので」

 東雲さんがにこにこと答える。そうなのだ、いくつかあるレッスン室は予約制で次の使用者がいる。丸一日貸し切り……がないわけじゃないが、自主練や個人レッスンとなればあまりそういうことはない。
 できるだけ時間一杯使って、片づけは大急ぎで、となると、ふらふらでモップ掛けする俺をコーチしてくれた京さんや東雲さんが見かねて片づけを手伝わざるを得ない、ということに。

「樹にはこの借りをいつか返してもらいますんで」

 京さんがにこりともせずに言う。

 うん、ええ、はい。借りですよね。ちゃんとお返しします。もちろんです。
 京さんは怒ってるわけじゃない。いつもこうなのだ。京さんのレッスンは言葉が少ないけど的確に間違いを正してくれて、俺が理解できるまで何度でも正解を踊ってくれる。

「あら、そうなんだ。樹君、何を返すの?」
「え……いや、なんでしょう? 肉体労働、ですかね……?」
「あはは、いいね、荷物持ちかな。京君のバッグ、鉄アレイが入ってるって噂だけど」

 えぇ? いつでもトレーニングできるように……なのだろうか。京さんをこっそり見ても当然のように表情変わってないけど。

 と。フロアの入り口あたりがざわめいた。俺を含めこの場のみんながそっちへ視線を流した途端、入り口に立ってた若い女の人――凛さん東雲さんたちと同じくらいだろうか――と目が合った。少し遠いのに、奇跡的に。

 やけに圧の高いオーラで、ゆるいウェーブのかかったロングヘアで。

 そんな人が、こちらへ向かって歩いてくる。カツカツとヒールの音を立てて、強い意志をもって。何だか俺を見て、る?

 いや、ちょっと待って。
 これ、本当に、俺のところに来てる?

 フロアがしん、と静まり返って。凛さんも瑞希さんも飛鳥さんも海斗さんも誰も何も言わない。

 そして。
 その人が目の前に立った。

 そして。
 平手打ちが飛んだ。