「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 グレアムの、丁寧で穏やかな口調で放たれた核心を突く問いに、セシリアは息をするのも忘れて、真っ直ぐに向けられる彼の瞳をただただ見つめ返す。そうしながら、彼の言葉を何度も何度も、頭の中で繰り返した。ひとつひとつ、丁寧に噛み砕くように。そうしなければ、今はどうしても、それらをひとつの文章として呑み込み、理解することが出来そうになかった。

 旦那様が、他の女性と。浮気されているところを。一度でもご覧に――。

 浮気とは普通、人の目を盗んでするものではないだろうか。特に婚約者や妻がいるような立場なら、なおのこと。

 そこまで考え、それに、とセシリアは胸の内で小さく溜息をつきながら思う。目の前にある、たくさんの招待状。選別に選別を重ね、その中から選ばれた数少ない晩餐会や夜会に、ユーリスはセシリアを殆ど連れて行ったことがない。この三年間で、ふたりで参加したのは、片手の指で数えても余るほどの数しかなかった。

 その上、彼が政務を終えて王城からこっそりどこぞの令嬢のもとへ足を運んでいたとしても――そんなこと、セシリアには知る術もないのだ。浮気の場面を目撃したことがあるのか、と問われても、そんなものあるはずがない、としか答えようがない。聡いグレアムであれば、それくらい容易に分かるだろうに。

「……見たことは、一度もないわ」

 気まずさに圧し潰されるように、グレアムから視線を逸らし、ティーテーブルの上に並べられた箱へと落とす。

 話を交わしながらも、彼は主人の与えたルールに従って、律儀に仕分ける手を止めない。殆どは裏面を確かめてすぐに真ん中の箱へ躊躇いなく入れ、時折――本当にごく僅かなものだけ――封蝋を破って便箋やカードの内容を確かめる。けれどそうしたものも、行く先は総じて真ん中で、セシリアの目の前で一番左の箱――恐らくはユーリスへ渡す用の箱――へは、未だ一度も封筒が入れられることはなかった。

 淡々とした彼の作業を、セシリアは息苦しさを感じながらじっと眺める。少しの迷いもないその手際の良さから、もう随分と前からこの作業を幾度となく繰り返してきたのだろうことがうかがえた。

「けれど、普通に考えて、そういうところは隠すものじゃないかしら」

 グレアムがまた一通、真紅の封蝋が捺された真っ白い封筒を手に取るのを見るともなく見ながら、セシリアは訥々と告げる。なるべく感情が表に出ないように気を付けたつもりでいたけれど、ほんの少しだけ声が震えてしまったような気がして、こくりと唾を呑む。暖炉の上に置かれた時計の、秒針が奏でる規則正しい音が、やけに大きく室内に響いているように聞こえるのは、気の所為だろうか。

 隠す――確かに、普通は隠すものだろう。そう言っておきながら、しかしセシリアは妙な違和感を抱く。社交の場で、嫌というほど聞かされた、数多の噂話。昨夜はどこに、その前はどこに。そしてそれに続く、マリエルを筆頭とした数多の女性たちの名前――。

 ユーリスは既婚であると、社交界では誰もが知っている。普通であれば――そう、普通であれば、妻がいると知られている場で、当のユーリスが平気で他の女性との浮気話をすることはないであろうし、他の令嬢のもとへ臆面もなく通うようなこともまたしないだろう。

 けれども皆口々に、絶えず噂話を繰り返していた。新しい情報が出てくればそれに飛びつき、その度にセシリアをせせら笑いながら、わざと聞こえるように囁き合う。――しかし彼女たちは、どうやってその話を得ていたのだろう。何処から、誰から情報を得て、それを"真実"として語っていたのだろうか。

 ひとつ挙げるとするならば、ユーリスには一切“隠すつもりがなかった”ということだ。社交界に知れ渡れば、いずれ必ず妻の耳に入ると理解していながら。それでも彼に他の女性との逢瀬を隠すつもりがなかったとすれば、目撃談が数多く出てくるのも納得出来るし、晩餐会や夜会の席に連れて行かなかったことも、それを暗に示していたと捉えられる。

「ユーリスは……隠すつもりがなかった……?」

 ぽつりと、無意識にこぼれてしまった独り言に、ほんの一瞬だけグレアムの手が止まった。彼の視線が、ちらりとこちらへ向けられたのを感じる。けれど顔を上げる勇気が持てず、セシリアは更に顔を俯け、そっと目を伏せた。

 晩餐会にも、夜会にも出席しなかったから。だから単に目にする機会がなかったというだけで、ユーリス自身には端から隠すつもりがなかったと考える方が正しいように思う。普通なら隠すものでしょう、という返答よりも、余程。

 問いへの答えを訂正しよう、と思い直し、意を決して顔を上げたセシリアを待っていたのは、いつの間にか作業をする手を止め、凛と背筋を伸ばしたまま彼女を見つめる、グレアムの、慈愛に満ちた瞳だった。

 予期してもいなかったその眼差しに、喉元まで出かかっていた言葉を、セシリアはたちまち失う。開きかけた唇の合間から小さな吐息がこぼれ、それ以上、何も言うことが出来なかった。

「これからお話することは、齢を重ねた者の出過ぎた独り言として、どうかお聞き流しくださいませ」

 前置きのようにそう言って、グレアムはテーブルの縁に前腕をそっと添わせ、両手を静かに重ねながら、好々爺然と目を細めた。

「旦那様は、隠されていたわけでも、隠すおつもりがなかったわけでもございません」
「それは、どういう……」
「そもそも、そのような必要性が、端からなかったのです」

 彼の言っている言葉の意味が理解出来ず、セシリアは僅かに眉を寄せながら小首を傾げる。そんな彼女の訝しむ視線を深い灰色の瞳で受け止めながら、グレアムはふふっと穏やかな笑い声をこぼした。

「奥様は、何故旦那様が浮気をなされていると、お信じになったのですか」

 何故、と言われても。それは、社交の場に出れば出るほど耳にした、たくさんの噂――。噂。うわさ。その言葉の響きに、セシリアは後頭部を鈍器で打たれたような衝撃を受ける。はっ、とした。はっとさせられ、息が止まる。

 ユーリスが誰かと浮気しているところを、実際に見たわけではない。本人から聞いたわけでもない。ただ、それらの話はいつだって、他人の口から紡がれる“噂”だった。

 ――噂とは、実に恐ろしいものです。

 グレアムがそう言っていたのは、いったいいつだっただろう。まるで子どもに語りかけるように、穏やかな声音でそう紡いでいたのは。王太后への謂れのない噂。待望の男子が誕生しようと、先代国王自ら言葉を尽くして庇おうとも、絶えることのなかった噂。それに対してグレアムは、何と言っていただろう。

 ――下賤な者たちにとって、そんなものは関係がないのです。ただ歪んだ快楽に浸れれば、それで良い。そもそも“真実か否か”など、彼らには重要ではないのですから。大きく膨れ上がった噂の前では、真実は時に無力でしかありません。

 真実か否かなど、重要ではない。ただ歪な快楽に浸れれば、それで良いのだから。その為ならば、彼等は目の前にある“真実”さえ見ようとしない。故に“真実”は時として無力でしかない――。

 自身の過ちに気付いてしまった瞬間、全身から血の気が引いてゆくような気がして、セシリアは絶句する。何故ユーリスの浮気を信じたのか。己の目で確かめたわけでも、彼から聞いたわけでもない“浮気”を。それを信じた理由は偏に――幾度も耳にしてきた、溢れんばかりの“噂”だった。それだけを根拠にして、ユーリスの不貞を信じていた。それが"真実か否か"など、確かめることもせずに。ただただ鵜呑みにしていた。

 それは、あの時グレアムが言っていた“下賤な者たち”と、果たして何が違うというのだろう。

「第二王女殿下とのご縁談以外で一番有名なのは、ヴォーシェ侯爵家のマリエル嬢との件でしょうか」

 何のことかなど問わずとも、それがマリエルとの噂についてであることは、容易に察しがついた。どうやらこちらの考えていることなど、彼には手に取るように分かるのだろう。そう思うと、知らず知らずこわばっていた身体から、すっと力が抜けた。安堵したからではなく、“分かられている”ということへの、諦め。

「あの日は、侯爵殿からのご要望で、旦那様は侯爵邸へお訪ねになっていたのです。領土の運営について、宰相である旦那様のご意見をうかがいたいとのことで。ただその日、偶然にも侯爵夫人が夜会を開かれておりました。ですから恐らく侯爵殿はお話の後にお誘いになり、旦那様は儀礼としてマリエル嬢とダンスをともになさったのだろうと存じます」

 夜会のダンスについては、様々なマナーや暗黙の慣習が存在する。踊る順番や、ラストダンスの持つ意味。そして最も知られている絶対的な義務のひとつが、招かれたゲストは必ずホスト側の令嬢――或いは場合によっては夫人――と一曲は踊る、というものだ。

 グレアムの話が事実であるのなら、ユーリスは侯爵に招かれた“ゲスト”だ。そうである以上、年齢の近しいマリエルと一曲を共にするのは、マナーに則れば何ら不思議なことではない。

 思えば、あの頃も――。セシリアはショールを握り締めていた手からふっと力を解き、背もたれに深く身を預けながら小さく息を吐く。思えば、あの頃――ユーリスとラストダンスを踊らなくなったあの頃も、彼は義務として誰かしらと踊ることはあっても、ラストダンスだけは、どんなにたくさんの令嬢に誘われようと、決して誰の手も取ろうとしていなかった。ただ最後にセシリアと踊らなくなったという、それだけ。その代わりを作ることはせず、彼は終盤になるといつも、親しい友人たちと談笑をしているだけだった。

「マリエル嬢のことにつきましては、先ほど申し上げた通りでございます。しかし、他のお噂につきましては――奥様は旦那様に、直接お確かめになったことはございますか?」

 彼の直球な指摘に、セシリアは思わず息を呑む。

 確かめる――ユーリスに、直接確かめる。噂は本当なのか、と。毎夜の如く他の女性のもとを訪ねているのか、と。そんなことは無論、一度もしたことがなかった。噂を鵜呑みにし、それを諦念と共に受け入れてしまっていたから。心の何処かで、そんなことをしても無駄だと思っていたし、何より――。

「……いいえ」

 苦笑とも自嘲ともつかない笑みをこぼしながら、セシリアはゆるりと首を左右に振る。そもそもユーリスがなかなか邸へ戻らず、顔を合わせることも言葉を交わす時間も殆どなかったとはいえ、それでもグレアムに手紙や伝言を託すなり、やり様は幾らでもあったはずだ。けれど、そうしなかった。そうすることから、逃げていた。

「これは、長きにわたり奥様にお仕えしてきた者としての、勝手な私見でございますが」

 そう言いながら、グレアムは組んでいた指を解き、再び封筒の山へと手を伸ばす。

「奥様には、ふたつの"勇気"が足りていらっしゃらないのではないかと存じます」
「ふたつの、“勇気”……?」

 ええ、とにこやかに頷きながら、グレアムは蝋の紋章を確かめたらしい封筒を、真ん中の箱へと落とした。相変わらず躊躇いのない手つきで。その瞬間、部屋の隅に置かれた振り子時計の鐘が鳴った。ごぉん、と。日付が変わったことを報せる、重厚で深みのある鐘の音が、静まり返った室内にゆっくりと広がり、やがて淡青の光の中へ溶けてゆく。

「その前に、ひとつ、お聞かせ願えますでしょうか」

 鐘の余韻がおさまり、紙の擦れる音だけが微かにする凪いだ空気の中で、セシリアは静かに頷いた。問いに問いで返されることになるけれど、何の意図もなく彼がそうするとは思えなくて。セシリアの首肯を一瞥で確かめたグレアムは、どこかほっとしたように頬を綻ばせ、新しい封筒へ手を伸ばしながら唇を開いた。

「奥様は、童話に出てくるような――“白馬の王子様に護られるお姫様”になりたいと、お望みでいらっしゃいますか?」