「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 数日も経つと、身体は随分と楽になった。まるで身の内を焦がさんばかりの熱や、上体を起こすのですら億劫だった重怠さは全くなくなり、ぼんやりとしていた意識も、白い靄がかかったようだった頭の中もすっかり晴れて、漸く本来の自分を取り戻したのを、セシリアはしみじみと感じる。

 こんなふうに回復出来たのも、グレアムや医師たちの献身のおかげだ。体力の衰えた身体を労り、力をつける為の滋養のある食事、一日三度飲むよう決められた煎じ薬、それからたっぷりの休息――。

 いつまでも仕事を滞らせているわけにはいかないからと、ある程度容態が落ち着いてすぐに執務室へ向かおうとしたセシリアを、グレアムは断固として引き止めた。溜まっている書類のことは気にしなくて良い、と。先ずは、心身が万全になるまでゆっくり休むように、と。

 そう口酸っぱく言う彼は、執事長というよりも、まるで孫を気遣う祖父のような感じがして、セシリアは場違いにも、少しばかり感慨に耽ってしまった。

 彼女が生まれた時にはもう、両方ともに祖父母は他界していた為、一度も顔を合わせたことがない。公爵邸にも先々代夫妻の姿はなかったので、もし"祖父"という存在がいたのなら、こんな感じだったのかもしれない、と皺の寄った柔和な顔を見つめながら思ったものだ。無論、彼の口から紡がれていた言葉は、口調こそ穏やかで畏まっていたものの、内容は殆ど説教だったのだけれど。

 そんなこんなで、執務を禁じられてしまった以上、特に何かすることもなく、日がな一日ただのんびりと過ごしている。庭へ散歩に出たり、図書室にある蔵書の背表紙をひとつひとつ見て回ったり。或いは、ベッドの上でぼうっと天蓋の杢目を眺めていたり――。兎も角、暇なのだ。そのせいで、夜の日課である読書を終えても尚、眠りにつくことが出来ない。頭も身体も使っていないのだから、当然のことだろう。

 仕方なく、読書の時間を伸ばしてみるけれど、あまり意味はなく――そして今夜もまた、セシリアは深々と溜息をつきながら革張りの本をぱたんと閉じた。深い藍色をしたなめらかな表紙には、翼を広げた小鳥の絵とタイトルが、金の箔押しで刻まれている。公爵家の図書室に保管されていた一冊で、幼い兄妹が美しい青色をした鳥を探しに旅へ出るという、誰もが知る有名な童話のひとつだ。

 閉じた本を定位置である抽斗の中へしまい、セシリアは少し考えて、ベッドを降りた。シュミーズの上から薄手のショールを羽織り、なるべく足音を立てないように気を付けながら、こっそりと寝室を出る。

 窓から差し込む月明かりに照らされた静謐な廊下には青い薄闇が広がり、昼間とはまるで違う神秘的な空気が漂っていた。アーチ型の窓から外へ目を遣れば、黒い影のように並ぶ樹木の上に、冴え冴えとした夜空が広がっているのが、視界いっぱいに映り込む。きらびやかな星々、幾分丸みを帯びた白銀の月、その前をゆったりと横切る薄いヴェールのような黒い雲。

 部屋を出たは良いものの、行く宛など考えていなかった。この時間帯であれば、使用人は皆、もうめいめいの部屋で休んでいることだろう。夜の帷に包まれた邸はひどく静かで、この建物自体が深い眠りの中に沈んでいるように感じられる。

 取り敢えず庭を少し歩いてみよう、と思い、セシリアは廊下の途中から逸れるようにして設けられた螺旋階段を、月明かりだけを頼りに降り、エントランスへと続く廊下をしずしずと進む。閉じられたドア、規則正しく並んだ窓、花瓶に活けられたポピー、壁の所々に飾られた幾つもの絵画。

 エントランスまであともう少し、というところで、セシリアの視界にふと、廊下に伸びる細い光の筋が映り込んだ。月明かりとは違うそれはあたたかな橙色をしていて、筋を辿って出所を確かめると、そこにはパーラーへと繋がる扉が静かに佇んでいた。木製の重厚な扉を縁取るように、薄っすらと光が滲んでいる。

 こんな時間に、いったい誰が――。刹那、青い瞳が脳裏に浮かんだが、すぐに頭の中から追い払い、セシリアは扉へと歩み寄った。

 真鍮製のノブに手をかけ、おずおずと扉を開く。少しだけ作った隙間からそっと中を窺うと、燭台を灯した窓際の席で何かの作業をしているらしいグレアムの姿が目に留まった。飴色のティーテーブルの上には、底の浅い木製の箱が三つ並んでいる。

 どうやら彼の方も、蝶番の立てた微かな音で――或いは気配で――気付いたのか、手元の箱から顔を上げ、セシリアの方へと視線を向けた。数瞬、彼は張り詰めた空気を纏わせ、訝しむような表情を浮かべたが、訪ねてきたのがセシリアだと気付くと、すぐに表情を和らげ、いつものように穏やかに微笑んだ。

「どうかされましたか、奥様」
「いえ……ただ、少し眠れなくて」

 隙間から身体を滑り込ませるようにパーラーへと足を踏み入れ、後ろ手でそっと扉を閉める。人が集っている時は、部屋の中央に吊り下げられたシャンデリアに灯りを点けるけれど、今は壁や暖炉の上などに置かれた燭台にだけあたたかな光が灯され、窓から差し込む淡青な光と溶け合って、部屋をやわらかく照らしていた。

「安眠効果のあるハーブティーでもお淹れ致しましょうか」

 椅子から腰を上げようとするグレアムを、首を左右に振って制し、セシリアは「大丈夫よ」とだけ、短く告げる。ハーブティーは既に、床へ入る前に侍女に淹れてもらったものを、読書のお供にしながら飲んでいた。リラックス効果と、寝付きを良くする効果のある、ほんのりと甘みのある瑞々しい薫りのするカモミールティーを。

「何か作業をしていたのでしょう? 私のことは気にしないで、続けて構わないわ」

 そう言いながら、セシリアは苦笑交じりに微笑んだ。使用人の誰よりも早く起床する彼が、まさかこんな遅い時間まで仕事をしていただなんて。執務のことは気にしなくて良い、と言っていたけれど。その負担を彼が補ってくれていたのなら、あまりにも申し訳なくて、情けなさで胸が塞がる。

 室内をうろうろ歩き回るわけにもいかず、かといって離れたソファに腰掛けるのもなんだか違うような気がして、セシリアは逡巡した後、グレアムの向かい側に置かれた席に腰掛けた。しかしそうしてすぐ、これでは邪魔だろうか、と一抹の不安が過ぎる。けれど、それを察したのか、グレアムは朗らかな笑みひとつで受け入れてくれた。皺をより深めて細められたやわらかな目に、セシリアはほっと安堵する。

 ふたりの間に据えられたテーブルの殆どを埋め尽くすように並べられた、底の浅い三つの箱。艷やかな黒色で塗られたそれの中には、何枚もの封筒が入れられていた。何かの基準に則って仕分けされているのか、グレアムの右手側にある箱には小盛り、真ん中の箱にはそれ以上の封筒が積み上げられ山を作っているけれど、その一方で、一番左にある箱には、たったの五つしか入れられていない。

「旦那様に届いた招待状の仕分けをしているのです」

 箱の中に――そこに入れられたたくさんの封筒に――視線を落としているセシリアへ、グレアムは苦笑の滲んだ声でそう告げた。思わぬ言葉に、たった今しがた真ん中に入れられたばかりの封筒と、右の箱から新たに封筒を手に取るグレアムの顔を、僅かに見開いた目で交互に見遣る。

「……ユーリスへの?」
「左様でございます。旦那様はお立場上、色々とございますので。こうして山のように招待状が届くのです」

 そう言いながら、グレアムは手に取った封筒を裏返して送り主の名、或いは封蝋の紋章を確かめると、再び真ん中の箱の中へそれを入れた。封を開け、中身を確かめることもせずに。ユーリス宛の招待状ということは、恐らくは彼から与えられた何らかのルールに則ってそうしているのだろう。

 立場上――確かにユーリスに纏わりつくしがらみは多い。公爵家の当主、王家の傍流の血を引く一族、国王お気に入りの宰相。あらゆる肩書きを持ったユーリスと関係を結び、親密な間柄となることは、何らかの影響力を持ちたい、或いは自身の立場を盤石なものにしたいと思う者たちにとって、喉から手が出るほど欲しい機会に違いない。

 それに――。セシリアは封筒の山から視線を逸らし、僅かに目を伏せる。それに、彼と縁を結びたい女性もまた、数え切れないほど多くいるだろう。王女との縁談がその後どうなったのかは分からないけれど。この封筒の中にも、彼の本命となりたい、或いは"次なる公爵夫人"の座を狙う女性たち――或いは、その家族――からの誘いも多く含まれているであろうことは、考えるまでもない。

 でも、と、セシリアはショールの合わせ目を強く握り締めながら思う。でも、どうか安心して、と。ユーリスの"妻"という椅子は、"公爵夫人"という椅子は、もうじき空くことになるから、と。利益の面を考えれば、カトリーヌ第二王女との婚姻が最有力だろうけれど。それでも、ほんの僅かな期間であっても、貴女方が最も邪魔だと疎んでいる女は、遠からず姿を消すことになるから、とも。

 離婚を告げたあの日から、ユーリスとはまだ一度も顔を合わせていない。グレアムの話によれば、事情があって王城に詰めているとのことだったけれど。グレアムが嘘を吐くとは思えないが、しかしユーリスが本当に王城にいる保証など何処にもない。もしかすれば今頃、他の女性のところに――。

「何故このように仕分けをしているのか、奥様はお分かりになりますか」

 不意に問いかけられて、セシリアははっと我に返って顔を上げる。グレアムへ目を向ければ、真っ直ぐに視線が重なった。柔和に綻んだ、けれどどこか意味深な光を湛えた深い灰色の瞳。

「さすがのユーリスも、これだけの誘いには応えられないから……かしら」
「半分正解で、半分不正解でございます」

 そう言って、グレアムはふふっと軽やかに笑った。

「旦那様は基本的に、お断りできるものはお断りなさっています。それは全てにお応えしきれないからというより、お立場上どうしても避けられないお付き合いだけをお選びになっている、と申し上げた方が正しいでしょう。私が選別した後に、更に旦那様ご自身で必要最低限のものだけをお選びになっておられます」
「それは……」

 どうして、という疑問を、セシリアは既の所で呑み込む。てっきりユーリスは、様々な晩餐会や夜会に、毎夜の如く参加しているのだろうと思っていた。あちこちでこそこそと――或いは聞こえよがしに――囁かれる噂の中には、そんな話ももちろん混じっていたからだ。

 けれど、選別に選別を重ね、数少ない付き合いだけに参加している。それが事実ならば、何故ユーリスは滅多に邸へ帰ってこないのだろう。政務が忙しいからか、それとも、やはり様々な女性のもとを訪ねたり、或いは本命と言われている侯爵令嬢のもとにいるのだろうか。その時間を捻出する為に、誘いはごく最小限に――

「旦那様が、夜毎遊び回っておいでだと、そうお思いですか。或いは、他の女性のもとを訪ねておいでだ、と」

 まるで頭の中を見透かされたかのような、急所を射抜く鋭い問いに、どきりと心臓が跳ね上がる。そんなセシリアの動揺に気付いているのかいないのか、グレアムは相も変わらず和らげた表情のまま、新たに手に取った封筒の蝋を破り、取り出したカードに綴られたメッセージにさっと視線を走らせてから、またもや真ん中の箱に封筒を落とした。

「多忙であることは、知っているわ。でも……」

 それだけが全てではないのでは、と、言いかけた言葉は、しかし吐息となって淡青な光の中へと溶けて消えてゆく。これ以上グレアムのことを見ていられず、さり気なさを装いながら、セシリアは窓の外へそっと目を向けた。

 月明かりに包まれた庭で、たくさんの花たちが心地よさそうに眠りについている。時折、夜風に乗ってゆるくそよぎながら。庭の一角を埋め尽くすイングリッシュ・ブルーベル、パーゴラにたっぷりと茂ったウィステリア。薄闇の中にあっても、アイリスの白い花弁はやけに冴え冴えと見える。

「奥様はどうして、その様にお思いなのですか」

 どう返して良いのか分からず、セシリアは視線を彷徨わせながら、唇をきつく引き結んだ。どうして――どうして、だなんて。そんなの、決まっている。今まで幾度耳にしてきただろうか。彼の女性にまつわる噂話を。昨日はどこの令嬢のもとで、その前日は他の令嬢のもとで。でも本命は見目麗しく聡明な侯爵家の令嬢で――。社交の場に出れば、いつだってそんな噂話が、嫌でも耳に飛び込んでくる。だから。そう、だから――。

「確かに、旦那様のお噂は、私も存じております。特に女性とのお噂については、数多く」

 私の考えていることなどお見通し、とでも言うように、グレアムはふっと息を漏らすようにして笑った。嘲笑うでも呆れるでもなく、ただ純粋に。心做しか、労るように。

 ゆるゆると顔を動かして、再びグレアムへと目を戻すと、燭台の灯りでより濃く見える灰色の瞳に見据えられた。真っ直ぐ。思考どころか心までも捉えるように。その目は、先程の笑みとはまるで程遠い、真剣な光を宿していた。その変化に、セシリアは戸惑う。何故だか分からないけれど、彼のその瞳を見つめれば見つめるほど、喉を締め上げられるような息苦しさに襲われる。

「それらのお噂を耳にされた奥様が、旦那様をお疑いになるのも無理からぬことかと存じます。……しかし」

 手元を照らす燭台の灯りが、微かに揺らめいた。それに合わせて、グレアムの瞳に滲んだ光もまた、意味深に煌めく。向けられる眼差しは、どこまでも真摯で、そして容赦がなかった。

 そんな彼がゆっくりと唇を開くのを目に映しながら、セシリアは本能的に身体を後ろへ逸らす。逃げるように。それはまるで、推理小説の中で探偵に追い詰められる犯人のようだ、と思った。

「――あなた達は、旦那様が他の女性と浮気されている描写を、一度でもご覧になったことがございますか?」