「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

「だが、私はいつも不思議に思う」

 どこか遠くの方で、梟の鳴く声が微かに聞こえる。庭園の樹木にでもとまっているのだろうか。ゆっくりと瞼を持ち上げ、ユーリスは肩越しにちらと背後を一瞥し、月明かりに照らされ艷やかさを帯びたバラスターの隙間から、夜の帷に包まれた庭園を見るともなく見下ろした。

 ちびちびと舐めるように口に含んだブランデーの、熟成された果実特有の濃縮された甘みが、舌の上に広がる。熟した葡萄の薫りに、オーク材の香ばしい薫りが複雑に絡み合い、息とともに鼻を抜けてゆく。

「お前は常に、セシリアに対して能動的に“与える側”であり続けているが、何故か見返りを求めようとせん。普通であれば、相手を想っていれば想っているほど、見返りを求めるものだ。“私はこれだけ尽くしたのに”というスタンスでな。それを求めぬまま、ただ“与え続ける”というのは、なかなか出来るものではない」

 片手に握ったグラスの中に視線を落とし、琥珀色の水面を眺める。テオドールの瞳と同じ色をしているせいか、彼と目が合っているような気がして、ユーリスはすぐに目を逸らした。あのまま見つめていれば、心の内側を見透かされてしまいそうに思えて。無論、グラスの中にあるのは彼の瞳などではなく、ただのブランデーだと分かっていても。

「しかしお前は、いつ如何なる時も、“影”で在り続けようとしているように、私には見える」

 何も言い返すことが出来ず、ユーリスはただ息を呑む。その些細な反応も、彼には気配だけで手に取るように分かられているのだろうと思うと、結局溜息が口を衝いて出た。全身から少しずつ力が抜けてゆき、だらりと垂れた右腕が床石に触れて、グラスが甲高い音を微かに奏でる。

「見返りを求める愛は、謂わば色恋の皮を被った“取引”に過ぎん。その軸にあるのは、“愛されたい”という、己の欠乏を埋めたいだけの“欲求”だ。だが、見返りを求めぬ愛は、揺るぎない強い“意思”だ。それは相手にただ存在し続けて欲しい、或いは幸であって欲しいという、“純粋な想い”が軸となっている」

 テオドールの声を聞きながら、ユーリスは何とも言えない複雑な感情に胸を覆われ、深く項垂れた。夜の澄んだ風が頬を撫で、ふわりと過ぎ去ってゆく。幾つもの酒の薫り、初夏の青い爽やかな匂い。それらを深く吸い込み、ユーリスは自身の影が落ちた仄暗い白い床石を静かに見つめた。

 ――ねえ、クロード。これはちょっと……胸元が少し……。
 ――そう? 僕は寧ろそれくらいの方が良いというか、ずっと素敵だと思うけど。

 あれは、いつだっただろう。風にゆるく靡く前髪を片手で掻き上げ、ユーリスは僅かに目を伏せる。確かセシリアの社交界デビューから幾許か過ぎ、騎士団への入団試験が間近に迫った頃だっただろうか。通りかかった小部屋の前で、偶然、聞き覚えのありすぎるふたつの声を聞いてしまったのは。

 ――ちょ、ちょっと! あまり大きな声出さないでちょうだい。ユーリスに気付かれたらどうするつもりなの。
 ――そんなに気にしなくても。べつに兄上に知られても、僕は構わないけど。

 あの時、思わず足を止めなければ――ふたりの声に、無意識に聞き入ってしまわなければ、果たして何かが変わっていたのだろうか。そう考えたことは、今までに幾らでもある。積み重なった自問の山が、腐るほどに。けれど結局、何度繰り返したところで辿り着く答えは、いつも同じだった。――足を止めなくとも、聞き入らなくとも。結局何も変わらなかっただろう、と。そして同時に思ったものだ。何を今更、と。

 そもそも、以前から分かっていたことだった。まだ幼かった頃から、ずっと。

 どちらかといえば本を読んだりと落ち着いた遊びを好んだユーリスに対し、クロードは全く真逆の、外で元気に走ったり転げ回ったりするのが好きな、活発な性格をしていた。そしてセシリアもまた、少々お転婆なところのある天真爛漫な少女で、故に彼女は、クロードとともに庭を縦横無尽に駆け回って遊ぶことを好んでいたように思う。

 故に、本を片手に、ふたりが遊び回っているのを木陰やガゼボから見守る――というのは、決して少なくないことだった。無論、三人で遊び回ることもありはしたけれど。それでも、最後まで駆け回っているのは、いつだってクロードとセシリアだった。

 けれどもまだあの頃のセシリアは、ユーリスにもクロードにも、同じ笑顔を向けていた。しかし徐々に年齢を重ねてゆくにつれ、彼女のあの太陽のように眩い笑顔の多くはクロードへ向けられるようになり、一方でユーリスに対しては、どこかよそよそしい、控え目な笑みを見せるようになっていた。いつの間にか、自然と。

 ――クロード!

 と名を呼びながら、彼女が満面の笑みを浮かべる様子を、幾度傍で見てきたことだろう。その光景を目の当たりにする度に、言いようのない感情に襲われた。羨望、嫉妬、諦念、焦燥――。どれかひとつに絞るどころか、果たしてそれらが全てだったのかすら分からないほど、様々な感情が綯い交ぜとなった荒波に呑まれ、息苦しいほどに胸が締め付けられた。

 その荒波から逃げるように、彼女は自分の許婚だ、と言い聞かせるものの、けれど彼女は自分のことなど見ていない、と、すぐ耳元で悪魔に囁かれる。常にその板挟みだった。どうすれば良いのだろう、と考え倦ねる日々。セシリアと逢えば逢うほど、ふたりが共にいるところを見れば見るほど、何が正しく何が間違っているのか、どんどんと分からなくなっていった。

 まるで底なし沼に足を取られ、少しずつ沈んでゆくような感覚。鉛の枷でもぶら下げられているのではないかと思うほど、暗闇の中に沈むまでに大した時間はかからなかった。

 セシリアのことを想えば、許婚を解消するのが正しい道だ。そんなことは分かっていた。クロードと結ばれた方が、彼女は幸福に満ちた人生を歩んでいけるだろう、と。権力欲のない彼女が、“当主の夫人”という立場にはまるで興味がない、ということも。嫌というほど理解していた。だから、正しい選択をすべきだった。セシリアを想っているのなら。彼女を心から愛しているのなら。正しい選択を。真っ当な、正しい選択を。

 それでも――。

「お前の、見返りを求めない“与え”は、本質に最も近しい。純粋すぎるほどにな。愛とは、相手の為に自分が動き続ける意志であるからだ。しかし、お前はどうにも、少し違うように見えてならん。お前には、セシリアの為を想う確かな“意思”がある。しかし、“意思がある”だけに感じてならんのだ」

 力の入らない腕をどうにか持ち上げ、グラスの中に残っていたブランデーを一気に呷る。なめらかな液体が喉を滑り落ち、胸の辺りにじんわりと仄かなぬくもりが広がってゆくのを感じながら、ユーリスは小さく溜息を漏らした。

「――そもそも私は、彼女の傍にいて良い資格などないのです」

 自嘲を滲ませながら、ユーリスはまるで独り言のようにそう呟くと、空になったグラスを意味もなく揺らした。左頬に、テオドールの視線を感じる。彼の足元にある酒瓶に手を伸ばすついでに顔を上げると、面白がるでも呆れるでもなく、彼はただ淡々とした表情でユーリスを見つめていた。

「何故そう思う」

 テオドールにしては珍しく、純粋に不思議がっているような声音に、ユーリスはミードのボトルを手繰り寄せながら苦笑をこぼす。自虐もこめて。

「私は、借金を背負った貴族家の娘を、"肩代わり"と称して買う奴らと、何ら変わりがない。“借金”という名目で、彼女を私に縛りつけたのですから」

 伯爵家の莫大な借金を“公爵家”として肩代わりすることは、婚約者として彼女を護る為に必要な手段だった。没落した貴族の――その家の娘の――行く末を知っていれば、なおのこと。

 しかしそれは同時に、彼女を“借金のかた”として公爵家に――つまりは当主であるユーリス自身に――縛り付けることに他ならなかった。

 元々結婚の話が進んでいたのだから、彼女が公爵家に“嫁入り”すること自体に問題はなかっただろう。けれど、借金の件を境に、それまで滞りなく進んでいた“結婚”とは、何もかもが一変することとなった。ユーリス自身の、セシリアへ対する想いに変わりはなくとも。周囲から向けられる目や、勝手な憶測は、ふたりの“結婚”に全く別の意味を纏わりつかせた。当主の意思など、まるで無視して。

 特にセシリアに付けられた数多の枷は、ひどく重いものだった。没落を首の皮一枚で繋がれた貴族、借金の代償、お情けで救われただけの婚約者――。

 では、あの時他にどうすれば良かったというのだろう。借金を肩代わりし、被災地復興への支援をしなければ、セシリアは最悪、娼館行となっていた可能性だってある。故に、公爵家が介入したことを、後悔はしていないし、間違った判断だったとも思っていない。他にセシリアを、あの苦境から助けてやれる方法があったのなら、逆に教えてほしいとさえ思う。

 けれど――。グラスにミードをのろのろと注ぎながら、ユーリスは寂しげに微笑む。あの時、唯一犯したミスがあるとすれば、それは――。

「元々お前たちは許婚であり、結婚の話だって進んでいただろう。だというのに、何故“お前に縛り付けた”ことになる?」

 開きかけた口をすぐに噤み、ユーリスはそっとテオドールから視線を逸らす。バラスターの合間から見える庭園はどこまでも静謐で、薄闇に包まれていながらも、鮮やかな赤い薔薇や白いピオニーがはっきりと目につく。あと僅かもすれば、色とりどりのダリアが咲き乱れることだろう。

「――セシリアは、クロードのことを想っていますから」

 夜風にそよぐやわらかな白いピオニーを見つめながら、ユーリスは今まで誰にも告げたことのない言葉を、自嘲を孕んだ声でぼそりとこぼした。

 借金を肩代わりした、あの時。唯一犯したミスがあるとすれば、それは――結婚相手を変えなかったことだ。いや、それを言い始めれば、あの時ではなく、もっとずっと前の頃から――セシリアの異変に気付き始めた頃から、両親へ打診すべきだったと、ユーリスは思う。クロードは次男といえど、公爵家の一員だ。彼の妻としてセシリアを迎え、“公爵家”として金を出すことは、決して辻褄の合わない話ではない。

 あの時、婚約を解消し、クロードとの結婚を進めていれば。彼女は想い人と結ばれ、魑魅魍魎が跋扈する社交界から遠く離れた公爵領で、幸せに生きてゆくことが出来ただろう。“公爵夫人”という肩書を剥がしてやれば、もっと気が楽にもなれたに違いない。

 そうする道は、あった。そんな未来を作ることも出来た。

 そして、その大事な岐路に立たされた時――散々悩み、考え倦ねた末に選んだのは、本来選択してはいけなかった道だった。彼女のことを想っていたから。彼女のことを愛していたから。それ故に擡げてしまったエゴが日毎に増殖し、やがてユーリスの思考を呑み尽くした。誰にも渡したくなかった。たとえ実弟であり、セシリアの想い人と分かっている相手であったとしても――誰にも、彼女を渡したくなかった。

「……なるほど」

 暫しの沈黙の末、テオドールはどこか呆れを含んだような声で、独り言のように呟いた。そんな彼の横顔を静かに見上げると、視線に気付いたらしい彼と目が合った。琥珀色の瞳が、容赦なくユーリスの瞳を射抜く。

「お前の、その徹底した見返りの求めなさは、負い目故ということか」

 そう言ってテオドールはやれやれと言いたげに肩を竦めると、より深く背もたれに寄りかかり、庭園へ目を向けながら足を組んだ。

「セシリアが誰を想っているかなど、本当のところは知らんが」

 グラスをゆらゆらと弄びながら、テオドールは肘掛けに頬杖をつく。そんな彼から目を逸らし、ユーリスは澄んだ蜂蜜色の液体の注がれたグラスを口へ運ぼうとしたが――

「しかし、お前は没落した貴族の娘を買う野郎共とは根本的に違う」

 きっぱりと放たれた言葉に意表を突かれ、ユーリスははたと動きを止めた。呆然と瞬きを繰り返し、ゆっくりとテオドールへ目を向ける。戸惑いを孕んだ視線の先で、テオドールはグラスに口をつけながら、ただじっと庭園を眺めていた。真剣な横顔をして。

「……何故、違うのですか」

 思わず飛び出た掠れた声に、テオドールの目がちらとユーリスを一瞥する。分からんのか、と言外に含ませて。それから彼は、深々と溜息をついた。

「ああいう野郎共は、自身の立場を盤石なものにする為に貴族との繋がりを得たいか、或いは、富を知らしめる為のステータスとして若い娘を買うかのどちらかだ。奴らにとって、売られた娘はただの“アクセサリー”に過ぎん。そういう奴らの下卑た顔を、お前も十分知っているはずだ」

 返す言葉が見つけられず、ユーリスはグラスを握る手に力を込めながら、ぐっと奥歯を噛み締める。テオドールの言う通り、確かに散々目の当たりにしてきた。金を失い、或いは地位を失い、どうしようもなくなった貴族の娘を、“金”を誇示して嬉々としながら買う卑劣な男どもの、自慢気な顔を。幾度となく目にしてきた。

 だから護りたかった。彼等の元へなど、行かせたくなかった。あの太陽のように眩い笑顔を見せる、誰より大事なたったひとりの女を――。

「だが、ユーリス。お前は違う。お前が借金を肩代わりしたのは、あやつ等のような醜汚な動機では決してなかったはずだ。セシリアを救いたい――ただその強い"意思"だけで動いたお前が、あのクソ野郎共と同じなわけがなかろう」

 そう言って、テオドールはふっと息を漏らすようにして笑った。

「良いことを教えてやろう、ユーリス」

 先程までの真剣な面持ちは何処へやら、どこか意気揚々とした表情でグラスの中身を呷るテオドールの横顔を見つめながら、ユーリスは彼の紡いだ言葉を頭の中で反芻する。

 同じだと、ずっと思っていた。借金の肩代わりをすることで自分に縛り付けたことは、奴らのやっていることと変わりない、と。そう断じ、戒めのように言い聞かせ続けてきた。それを、まさかこんなにもあっさりと否定されるだなんて――。

「かの有名な哲学者は、こう言っていた。――自分を愛することなしに、他者を本当に愛することは出来ぬ、と」

 にやりと口角を上げながら目を向けられ、ユーリスは思わず息を呑む。その反応を面白がるように、テオドールはくつりと笑った。

「お前には愛がある。能動的に与える強い意思もある。だが一つだけ足りんものがある。それが何か、分かるか?」
「……いえ」
「お前が、己に対して“セシリアを愛して良い”と許していないことだ」

 彼の放った言葉が鼓膜に突き刺さった瞬間、どきりと心臓が強く跳ね上がる。テオドールの紡いだ言葉には、憶えがあった。彼の言葉そのものというより、それに似た言葉を、自分自身が口にした憶えが。

 ――君も、俺を愛さなくて良い。

 セシリアの想いを踏み躙り、強引に婚姻を進めた。彼女がクロードを愛していると分かっていながら。それでも、手放したくなくて。

 だから、愛さなくて良い、と言った。クロードを想ったままで良い、と。彼女に対し“愛することはない”と告げたのは、それがせめてもの贖罪だと思ったからだ。愛していない男から愛されたくなどないだろう。それが、想い人との関係を決定的に裂いた――幼馴染みであり、友人という関係から変えようのない状態にした――相手であれば、なおのこと。故に、“愛されない”と覚悟していたし、“愛されなくても良い”と諦念に似た思いで受け入れてもいた。

「私が思うに、お前はセシリアを見ているようで、実は見ていない。お前が見ているのはセシリアではなく――“愛されない自分”だ。確かにお前は、セシリアの為に動き続けている。それは本物だ。お前の抱く愛情を疑ってはいない。だが、お前はセシリアを――本当の意味で、ありのままに見たことがあるか? “どうせ愛されない”という色眼鏡を外して、真摯に、ありのままを」

 ある、と答えるべきなのだろう。幼い頃からずっと傍にいたのだから。兄妹のように育てられ、何をするにも一緒で。そういう環境で育ってきた彼女を――と、そこまで考えて、ユーリスははたと気付く。それはどれも、遥か遠い昔の話だ、と。子供の頃のことであって、“今”ではない、と。

 ならば、“今”は――。こくりと唾を呑み、ユーリスは僅かに目を伏せる。
 セシリアとクロードの関係を疑い始めた頃から、結婚をして今に至るまでの間、果たして彼女のことを、ありのままに見てきただろうか――。

「宮廷も社交界も、日々愛憎劇に富んでいる。そういったものもまた興味深く、観察しているのだが――愛とは総じて二面性を持ったものだと、つくづく思わされる」

 そう言いながら、テオドールは赤ワインのボトルに手を伸ばす。しかし気が変わったのか、指先は幾本もの飲みかけのボトルの上を彷徨い、結局シェリー酒に行き着いた。

「愛は、容易く心を傷つける鋭い刃であると同時に、心に勇気を与え、強く突き動かす力にもなり得る。他のどの感情よりも複雑で歪な、それ故ひどく面白いものだと思わんか? ユーリス」

 シェリー酒を注いだグラスを軽く掲げて水面を揺らめかせ、どこか愉しげに目を細めながらテオドールは中身を呷る。そんな彼の横顔を、ユーリスは脳裏に懐かしい笑顔を思い浮かべながら、ただ静かに見つめていることしか出来なかった。