「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

「愛の本質……?」

 また突拍子もないことを言うな、と思った。まさかもう酒に酔ったわけでもあるまいに。そう訝しんでいると、テオドールはくくっと短く笑い、

「王に必要なのは、“ここ”だ」

 と言って、短く整えられた右手の人差し指の爪先で、己の右目を指さした。夜の闇を吸って昼間よりも幾分濃く見える琥珀色の瞳。何も言わずにじっと見つめていると、彼は健康的な色をした指先で、とん、と目の下の皮膚を軽く叩いた。

「洞察力や思考力ではないのですか」
「無論、それも重要だが、それらを鍛える為の基礎は“観察力”だ」

 確かにそうかもしれない、とユーリスは手元のボトルへと視線を落とす。相対する人間の、或いは数多の人間のほんの些細な変化や機微すらも見落とすことなく“情報”として収集する力。人や物事を観察することで得られる情報は無限だ。そうした、己の目で得た“事実”をベースに、頭の中で深く掘り下げ、本質を見抜いてゆく――。

 この男は軸がしっかりとしている分、ブレることは殆どないが、だからといって柔軟性に欠けているわけでもない。よく“先代によく似ている”などと言われているが、一度心を開いた相手への“観察力”が劣りがちだった先代に比べ、テオドールは長年付き合いのあるユーリス相手でも、決してそれを怠ることはない。

 結局のところ、彼の根幹にあるのは“人間不信”だ。幼少期に負った傷は、善くも悪くも王として欠かせない“資質”を育てた。

「私は愛だの恋だのに興味はないが、だからこそ、それがどういうものかを、私は知る必要があった」

 中身の減ったグラスを見つめ、ゆらゆらと弄びながら、テオドールはふっと僅かに瞼を伏せる。

「幸いにも私の周りには、父上、母上――それからお前とセシリアという、最適な観察対象がいた」

 カイルの名はないのか、と一瞬思ったが、そういえば彼の口から色恋の話を聞いたことはないな、と気付く。彼はどちらかといえば、恋愛ごとよりも騎士道だの鍛錬だの忠誠心だのの方に重きを置く男だ。見目は整っているというのに、浮いた話ひとつ聞かないのはそのせいだろうか。今頃扉の向こう側で律儀に見張りをしている男の、端正な顔が脳裏に浮かぶ。

「多くの者――世に溢れる“愛されたい”奴らは、どれほど愛の言葉をもらったか、贈り物をもらったか、傍にいてくれたかで、相手の愛情を図る。その全ての基準は、“受け取ったか否か”だ。つまり、愛は“受け取るもの”だと当然のように思っている。もっと言えば、奴らは“愛されている感覚を愛している”に過ぎん」

 小馬鹿にするように、ふん、と鼻を鳴らして笑い、テオドールはグラスの縁に口づける。そんな彼の横顔に視線を向け、ああだからか――と、ユーリスは妙な納得感を覚えた。

 国王であり、且つ容姿にも優れた彼は、無論令嬢たちから多大な人気を誇り、他国からも縁談の話が舞い込む。けれど、相手がどんなに美しくとも――それこそカトリーヌのような麗貌を持った女であっても――テオドールは全くと言っていいほど相手にしない。そんな彼に、一部では“同性が好みなのではないか”などと囁く者もいるほどだ。

 しかし、彼の“恋愛観”の土台にあるのは、所謂“御伽噺”の真逆なのだろう。姫は愛されて当たり前、王子は護って当たり前。その“当たり前”を、この男は心底嫌っている。

 無論、本気で愛した女が現れれば、テオドールも彼女を護ることは当然するだろう。そこまで冷徹な男ではないことは、長い付き合いだから知っている。

 テオドールが嫌っているのは、その“当たり前”を“当然”のこととして享受しようとする女だ。自分はどれだけ王に愛されているか、自分はどれほど王に護られているか、自分はどんなに王に必要とされているか――。いかに“溺愛”されているかを“愛の証明”として認識する女を、彼は絶対に受け付けない。

「私が思うに」

 空になったグラスを目の前に掲げ、月光を浴びて小さな光の粒を散らすそれを暫し眺めてから、テオドールはすっと意味深に目を細めた。

「“愛されたい”と思う奴らは、ただ己の中にある“孤独”を埋めたいだけだ。故に、最も目に見えて分かりやすい愛情表現を、“愛の証”と見做す。孤独を満たすには、分かりやすいものの方が容易だからな」

 ブランデーには飽きたのか、まだ殆ど中身が残っているボトルを横目に、テオドールはミードのボトルを開ける。彼は一本を飲み干すこともあれば、好き勝手に様々なボトルの封を切って飲み散らかすこともある。どのみち全てテオドールの体内に吸収されるのだから、順番など関係ないのだろうけれど。

 ミード――水と酵母と蜂蜜だけで造られた、“人類最古の酒”と言われるそれを、テオドールはグラスに傾け、こぽこぽと微かな音を立てながら注いだ。蜂蜜を薄めたような澄んだ黄色い液体から、花のような華やかな薫りがふわりと漂ってくる。

「それで」

 手元のグラスに視線を落とすと、シェリー酒の濃い赤茶色の水面に、ぼんやりと月の影が浮かんでいた。それを見つめれば見つめるほど、頭の中にセシリアの顔が色鮮やかに蘇ってくる。太陽に負けないほど輝かしい笑顔、ふっくらと赤い唇を尖らせて拗ねた顔、ただでさえ大きな目を更に見開かせて驚く顔、この世の全てから目を背け、諦め、息をするのも苦しいというような切なく哀しい顔――。

「……陛下の考える“愛の本質”とは、一体何なのですか」

 シェリー酒の残りを一気に飲み干し、テオドールの足元に置かれていたブランデーのボトルを手繰り寄せてグラスを満たす。その仕草が少し荒くなってしまったからか、頭上からくつくつと喉を鳴らす音が聞こえた。

「愛の本質とは、“与えること”だ。受動的ではなく、能動的であるということ」

 意味を測りかねてテオドールの方へ視線を向けると、まるでそうすることが初めから分かっていたかのように、目が合った。形の良い唇の端が、にやりと上がっている。嫌味ではなく、ただ純粋にこのやり取りを愉しんでいるのだと分かる――彼にしてはひどく珍しい、やわらかな笑みだった。

「私は、お前が間違っていたかといえば、そうは思わない」

 急に肯定され、ユーリスは僅かに眉を顰める。急に何なのだろう。何を“間違っていない”と肯定されたのか、分からない。そもそも今は、“愛の本質”について雄弁に語っていただけではないか。

 そんな疑問など見抜いているだろうに、テオドールは素知らぬ顔で受け流すと、ミードをひと口呷りながら夜空へと目を向けた。

「お前は常に、セシリアに対して惜しみなく与え続けてきた。伯爵家が莫大な借金を負った時も、暗殺未遂事件が起きた時も、宮廷舞踏会の時も……。ああ、そういえば、伯爵領の運営を手伝ってもいるようだな」

 はっとして目を見開くと、それを気配で察したのか、テオドールの口角が更に上がる。

 領土運営は、そこを統治する爵位家が担うのが基本だ。故に、王であるテオドール自身、内戦や他国からの侵略といった国の行く末に関わるようなことでもない限り、口出しをすることはない。そしてそれは、他のどの貴族にも当てはまる。相談をすることはあっても、他の領土運営に直接手を出すことはしない。

 それが常識であると分かっていたからこそ、伯爵家――グランベール家が統治する領土の管理運営に関する書類は全て、デスクの抽斗の中か、或いは公爵邸の執務室にのみ置いて、カイルとグレアムにしか事情を告げていなかった。

 それなのに、何故この男はそれを知っているのか。グレアムが王と対面することはない。ならばカイルの線が濃厚だろう。しかし、忠実な彼が、秘することを義務付けていた内容を勝手に漏らすとは考え難い。それとも、彼は意外にもお喋りな――。

「カイルを疑ってやるな。あいつではない」

 まるで頭の中をそのまま覗き込まれたかのような、正鵠を射た発言に、ユーリスは思わず息を呑む。これだから、この男は侮れない。どんなに隠そうとしても、全て引っ剥がして何もかも晒してしまうだけの力があるのだから。そもそも、テオドールに対して“秘密”を作ること自体が、愚かで無駄な行為なのかもしれない。

「ならば、何故」
「伯爵領の復興状況が、当初想定していたよりも随分と早く進んでいるのに気付いてな。しかし、領土運営に不慣れな“跡取り”がそれをこなせているとは、到底思えん。では、何故こんなにも上手くいきすぎた運営が出来ているのか――そう考えれば、思い当たる奴など、ひとりしかおらんだろう?」

 横目でちらと視線を向けられ、ユーリスはやれやれと肩を竦めた。書類を処理しているところも、指示を出しているところも、この男は実際に目の当たりにしたわけではない。しかし、定期的に上がってくる各領土の報告書に目を通し、そこに浮かび上がる不可思議な点に気付いて――そこからは殆ど一瞬にして、全ての点を一本の線で結びつけたのだろう。まさか“順調すぎること”が却って“目をつけられる”ことになるとは、思ってもいなかった。

「グランベール家の莫大な負債は、シルヴェイン家が全て肩代わりしていたはずだ。お前の一存でな。しかも、それとは別に多額の寄付までしている。――いくら公爵家といえど、金が湯水のように湧き出て来るわけではあるまい。シルヴェイン家の懐にも、決して小さくはない傷を負ったはずだ」

 グラスを軽く揺らし、琥珀色の液体が微かに揺れるのを見つめながら、ユーリスは立てた膝に頬杖をつく。

 セシリアとの結婚話が本格的に進み始めていた時に、突然飛び込んできた凶報。水害による多大な被害、そしてそれに追い打ちをかけるように起こった泡沫の狂乱。それまで豊かだった伯爵家が、殆ど一夜のような感覚の中で、あっという間に“没落貴族”と呼ばれるところまで衰退してしまった。

 物的にも人的にも被害は甚大で、復興にはかなりの時間を要するであろうことは想像に難くなかった。しかし、そうする為に注ぎ込める金が、グランベール家には僅かも残されていなかった。どうにか調度品や宝石類を売ることで金を得ることは出来ていたが、それとて微々たるもので、家族が食いつないでいく程度の額でしかなく、被災地を元通りに戻すにはあまりにも足りなすぎるものだった。

 没落した貴族がどういう末路を辿るのか――。公爵家のひとりとして、今までに幾度も、嫌というほどそれを目の当たりにしてきたものだ。経済の基盤を喪失し、富裕で華やかな地位から一転、容赦なく奈落へ転落していく様は、目を背けたくなるほど惨たらしいものだった。

 それまでの威厳などかなぐり捨て、高位の爵位家に泣きつき、胡麻を擂り、媚びへつらって金を恵んで貰う者。ただでさえ借金があるというのに、それをギャンブルで取り戻そうとして失敗し、高利貸しに捕まって住処さえも差し押さえられる者。食べ物にすら事欠く困窮ぶりでありながら、先祖代々続くプライドだけに縋り続ける者。領民から理不尽に税を取り立て、ありとあらゆる面から搾取しようとする者。

 その家に男子がいれば、彼等の殆どは傭兵として戦場へ出稼ぎにゆくことを余儀なくされた。或いは、若い娘が居れば、彼女は持参金目当てで裕福な新興ブルジョワジーと政略結婚させられる。相手が年の近い若者であればまだ良いが、中には親以上に年の離れた――殆ど老人といっても過言ではない――者と結婚させられる例も珍しくない。

 けれど、寧ろその方が、まだ幾分ましだった。何故なら、行くところまで行けば、辿り着くのは“娼館”だからだ。大事に大事に育てられてきた、穢れひとつない裕福な家の娘が、どこぞの馬の骨とも知らぬ男に肌を晒し、身体を売る――。元貴族の娘は、娼館では重宝され、高値で取引されていると聞く。見目の良い、麗しい元令嬢であればなおのこと。

 つまり、グランベール家が莫大な負債に陥ってしまった以上――セシリアの未来は殆ど決まったも同然だった。

 事が明るみになり、宮廷や社交界に広まると、案の定、様々な憶測や中傷が飛び交った。そんな落ちぶれた家の娘との結婚は如何なものか。公爵との結婚を推し進めるのは、あまりにも身の程知らずだ。不相応すぎる――。彼らは、公爵家当主であるユーリスの身を案じながら――といっても、あくまで“ふり”でしかないのだが――、誰ひとりとしてセシリアを心配することはしなかった。没落した貴族の娘が、どんな酷い目に遭うか知っていながら。

 ふざけるな、と思った。何でもかんでも好き勝手言いやがって、と。顔にこそ出しはしなかったけれど、あの時ユーリスの胸中には、煮えたぎる鉛のような、どろりとした黒い怒りが渦を巻いていた。身体の内側を、全てを焼き尽くしそうなほどに。

 ――でも、兄上。借金の肩代わりで空いた資金の穴を、どうやって埋めるつもり? 領民に税を課すわけにはいかないし……。

 借金は公爵家が支払う、と決断を下したユーリスに対し、クロードは冷静にそう返した。テオドールの指摘通り、いくら公爵家といえど、金は湯水のように勝手に湧いてくるわけではない。資金の大半は、領民から収めた税であるのだから。伯爵家を救う為に、公爵領の民にその分更に税を課すことなど、出来るわけがない。借金を肩代わりするということは、公爵家の財政事情にも少なからず傷をつけることと引き換えだったのだ。

 それでも、幼い頃からともに過ごし、妹であり幼馴染であり、大事な――何より大事な許婚を、どこの誰とも知れぬ男に渡したくはなかった。ましてや、娼館に売り飛ばすなど論外だ。

 だから、肩代わりしたことで空いた資金の穴は己で埋めることを条件に、ユーリスは両親を説き伏せた。資金の穴などではなく――セシリアを救う為なら、何だってする。そういう強い意思で。

「グランベール家が借金に陥った時、お前が私に“賭け”を持ちかけてきたのには驚いたもんだな。ひとりの女の為にそこまでするものなのか、と。一歩間違えれば、己の首が飛んでもおかしくはない行為だというのに」

 そう言って、けたけたと愉快そうに笑うテオドールの声を聞きながら、ユーリスは無性に髪を掻き毟りたくなった。或いはすっぽりと頭を抱え込んでしまいたい、と。

 一か八かだった。いくら長年の友人であり、目をかけてもらい、駄々を捏ねた末とはいえ、若輩者に宰相という重要な地位を任せてくれた男。この国の頂きに立つ、たったひとりの王。誰もが傅くそんな存在に、ユーリスは当時、真っ向から挑みかかった。一歩どころか、そもそもそんな愚行自体、すぐにでも衛兵に捕らえられて首を――本物の首を――刎ねられてもおかしくはなかったというのに。

 しかし、そんなことは初めから分かっていた。たとえ自分がいなくなっても、公爵家にはクロードがいる。彼さえいれば、彼さえ生きていれば、全てまるく収まる――何もかも。故にユーリスが最も気を付けなければならなかったのは、自分の命ではなく、爵位剥奪、或いは一族殲滅という末路だけだった。

 結果的に、テオドールは二つ返事で賭けに乗ってくれ――そうして、今がある。彼の手となり足となり、ありとあらゆることをこなす“駒”となった今が。

「しかもお前、慣習に逆らって、セシリアに宮廷舞踏会は欠席でも構わないと言ったそうではないか」
「……今度は誰から聞いたのですか」
「これはカイルだな」

 深々と溜息を吐き、ユーリスはグラスの縁にそっと唇をつけて、ブランデーを呷る。

「お前としては、醜い奴らが跋扈する場に彼女を放り込みたくなかったのだろう。だが、彼女は自ら、“公爵家の一員”として務めを果たすことを選んだ」

 “選択”だった。別々の方向へ延びた二本の道の、その岐路に立たされ、どれほど考え倦ねただろう。慣習に従えばセシリアはひとり嘲笑の只中に立たされる。しかし、参加を拒めば、それもまた歪な噂となって彼女に纏わりつく。何が正しいのか分からなかった。どちらを選べば彼女の負う傷が浅くて済むか――ただそれだけを、ただひたすらに考え続けた。逃げ道などないのだから。

「故にお前は、信頼の置ける者をセシリアの傍につけることにした。――全てお前が仕組んだことだったのだろう? 偶然を装って、モランベスト夫人を入口から常に傍にいさせたことも、万一の時はブライアンに彼女の身を託したことも、裏口に予め馬車を用意させていたことも」

 ひとつ間を置き、テオドールはグラスの中に視線を落としながら続けた。

「そしてお前は、セシリアに害をなす可能性の最も高いカトリーヌの傍につくことを選んだ。エスコートと称して、あの女を監視する為に。……まあ、僅かな隙をついて行方を晦まされたのは、じゃじゃ馬王女が一枚上手だったがな」

 あれだけ――今にも腕を絡ませそうなほど――ぴったりと身体を寄せていた彼女が、まさか子爵との会話中に一瞬の隙をついてふらりと姿を消すとは、全く予想外だった。――いや、そこまできちんと想定しておかなければならなかった、と、今でも強い後悔がこみ上げ、苦虫を噛み潰したくなる。油断していた。その油断が、セシリアとカトリーヌの接触を招いてしまった。

「……あれは私の、完全な落ち度です」
「そう悔やむな。過ぎたことは今更どうにもならん。あの時お前がセシリアに寄り添えば、王女は間違いなく毒牙を剥いたことだろう。セシリアにとっては酷だったろうが、その後のことを考えれば、ブライアンに託したのは正解だったと言えよう」

 そう言ってグラスを傾けるテオドールの横顔を一瞥し、ユーリスはそっと瞼を伏せる。

 本当は振り返りたかった。カトリーヌなど追い払い、傍にいてやりたかった。それが出来なかった遣る瀬無さが、今もユーリスを苛む。あの時背中に感じた彼女の視線が、今も鋭い棘となって突き刺さったまま、離れない――。