「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

「――お前が執務室で酒を呷っているのは、初めて見たな」

 初夏とはいえ、まだ肌寒さの薄れない夜風を頬に浴びながら、ユーリスは手元のブルゴーニュ型のワイングラスに静かに視線を落とした。つい先刻、たっぷり満たしたはずの渋い赤色は、月のやわらかな黄金色の光を受けていっそう深く、底の見えない暗紅色を湛えている。

 たまたま厨房にいたソムリエに頼み、何でも良いからと特に指定してもらうことなく運ばれてきたそれは、ラベルを見る限り、明らかにそれなりに値の張るものだった。どおりで、醇な薫りと独特の渋みの余韻を舌に残しながら、ゆっくりと喉を滑り落ちてゆくな、とユーリスは思う。

 正直なところ、酒さえ呑めれば何でも良かった。ウイスキーでも蜂蜜酒でも。兎に角、気を紛らわせる為に飲めるものなら、安かろうが高級だろうが、どうでも良かった。――とはいえ王宮にはそれなりの高価なものしか取り揃えられていないのだから、安酒を呷りたければ市井へ出れば良かったのだけれど。

「殿下ほど奔放ではありませんから」

 どうにか平静を繕った口調で、微かに――誤魔化しの為に――皮肉交じりにそう言いながら、手摺の向こう側に広がる庭園にはみ出したグラスを、ゆらりと弄ぶ。

 この部屋で好き勝手に酒を飲むのは、決まってテオドールのみだ。グラス一杯程度ならまだしも、夜更けに――そう、正に今のように、日付を変えようとしている真夜中に――来る時は往々にして、彼の腕には幾つかの酒瓶が抱えられている。ブランデー、赤白のワイン、ミード、シェリー酒、中にはビールまで。それには飽き足らず、全て空っぽにし終えた後には、扉の外に控えているカイルに追加を持って来るよう指示を出すのだから敵わない。

「今夜の月は、いつにも増して夜を見守る神の瞳のようだな」

 そう言いながら、テオドールは決して広くはないバルコニーに――彼の手によって勝手に――置かれた、白い錬鉄製の椅子に腰を下ろし、自ら持ってきたグラスに手酌でワインを注いだ。澄んだ薄い黄緑色をした、芳醇な白ワイン。

「陛下が月を愛でるとは、珍しいこともあるものですね」

 微かに揺れる深い葡萄色をした水面を何となしに眺めながら、ユーリスは胸の内で小さく溜息をつく。こんなことなら“就寝中”とでもしておけば良かったか。

 しかし毅然とした態度を崩さないカイルの前に、殆どの来訪者は――どんなに口うるさい大臣たちでさえ――、ぶつくさと不満をこぼしながらもそそくさと去ってゆくが、テオドールに関してはそんなものはまるで関係がない。就寝中だろうが軽食中だろうが書類整理中だろうが、この男はカイルの制止も聞かずに、問答無用で部屋に入っている。それが国王の特権とでもいうみたいな顔をして。

 そういうところを厄介だとは思うが――嫌いではない、と思ってしまうのは、長年の付き合いの中で絆されてしまったせいだろうか。

 そう思いながら赤ワインを一口呷っていると、ふと、横顔に注がれる視線に気が付いた。繊細な硝子の縁から唇をそっと離し、硝子扉に沿って置かれたひとり分の椅子に悠然と腰掛けるテオドールへと目を向けた。猫足になった錬鉄製のガーデンチェアの足元には、空になったボトルが二本、澄んだ音を立てて転がる。赤ワイン、チェリー酒、ウイスキーなどの蒸留酒。

「……何でしょうか」
「いや、いつになく浮かない顔をしておるな、と思ったものでな」

 ぞくり、といやな冷たさが背中を走り抜け、ユーリスは浮かび上がってきそうになる記憶を無理矢理押し戻すかのように、残っていた赤ワインを一気に飲み干す。

 しかしどうやらその反応だけで、テオドールには“何かがある”と容易に察することが出来たのだろう。彼はくくっと軽やかに喉を鳴らすと、決して座り心地の良いわけではない錬鉄の背もたれに――そこに彼が持ち込んだクッションを挟んで――身体を預けた。そういう仕草まで、品があって絵になるのだから、王とはつくづく得な生き物だと思う。

「セシリアに離婚でも切り出されたか?」

 戯けた口調で、軽く首を傾けながら問うテオドールに、思わずずくりと、胸が抉られるように軋んだ。早鐘を打ち始めた鼓動は、その勢いのままに肋骨を突き破って、或いは喉を駆け上がって、口から飛び出してきてしまいそうなほど、激しく胸の内で暴れている。そのままユーリスは思考を雁字搦めにされ、何も考えることが出来なかった。否定しなければいけないと、分かっているというのに。

 無言は肯定――いつもテオドールが何かにつけ言っている言葉だ。正に今、その状況に立たされている。ほんの僅かな間ですら、彼は容易にユーリスの動揺を“肯定”と受け取っただろう。形の良い唇の端が、にやりと持ち上がったのが何よりの証拠だった。

「……陛下には関係のないことかと」
「関係大有りだろう? 公爵家――しかも王家の傍流の血を受け継ぐ者の一大事なのだからなあ」

 どこまでが本気の心配で、どこまでがおちょくって楽しんでいるのかが分からない。それにしても、あまりにも核心を突いた台詞に、心臓は未だ早鐘を打ち鳴らし、吸い込んだ息がそのまま喉に貼り付く。ワインで潤っているはずなのに、まるで乾いた砂が、絡みついているみたいに、息苦しい。

「何故……お分かりに、なったのですか」
「おや、ご名答か。……まあ、考えるまでもなかったがな。推理にもならん。お前がそういうひしゃげた不細工な顔をするのは、セシリアと何かあった時と相場は決まっているからなあ。特に今夜はなお酷い。今日――或いは昨夜、何かあったと見るのが妥当だろう」

 どうせカイルも気付いているだろうさ、と付け加え、テオドールはワイングラスを揺らしながら、けらけらと笑い声を上げた。

「それで、お前は何と答えたんだ?」

 興味津々に、半ば身を乗り出しながら訊いてくる主君に、ユーリスは内心辟易しながらむっつりと唇を閉ざす。けれどそれではなんだか違和感しかないように思え、ついでにワインを一口啜ろうとしたが、先ほど飲み干してしまったせいで中身は空のままで――ユーリスは漏れそうになる舌打ちを堪えながら、開けかけのボトルへ手を伸ばした。

「まあ、お前のことだから、“しない”と言い放ったきりなのだろう」

 どこまでも図星をついてくる悪友に一種の畏怖を抱きながら、ボトルの細い口から、こぽこぽと小さな音を立ててワインを注ぐ。

 大理石で出来たバラスターに両肘をついて夜空を仰ぐと、綺羅びやかな星に囲まれた半かけの月は、青白いというよりも、淡い黄色みの上に薄い金箔を所々載せたような、不思議な月白をしていた。故に降り注ぐ月明かりはどこかあたたかく、庭に植えられた草花も心なしかほんのりと色濃く見える。

「――なあ、ユーリス」

 多分口癖なのだろうその呼び方に、ユーリスは空を仰いでいた視線を、椅子に腰掛けたまま呑気そうに酒を――色味からしてシェリー酒だろう――飲んでいる男の、この世にふたつとない美麗な横顔へ、半ば苛立ちを込めて向ける。様子の変化から“何かあったのだろうな”と察して、そっと距離を置くのがカイルであり、“そんなもの知ったことか”とずかずかと踏み込んでくるのがテオドール――長年の付き合いがあるふたりの、それが明確な違いだ。

 特に返事もせず、半分ほどに減ったグラスの中を見るともなく見つめていると、視界の端で、テオドールが長い脚を泰然と組み替えるのが見えた。ふたりの間を吹き抜けていった夜風が、前髪をさらりと揺らす。左耳では、夜風を楽しむかのように、青色の鉱石――細長い雫型をしたラピスラズリが他の飾りにぶつかり、微かな、けれどとても美しい音色を奏でている。

 ――セシリアといえば、薄紫じゃない? たとえばラベンダーアメジストとか、グレープガーネットとか。ライラックの花のようなセシリアの瞳にぴったりだと思うけど。

 何故今思い出したのか分からないが、鼓膜の裏側に、明るく朗らかな声が蘇る。確かあれは、セシリアの社交界デビューを祝う品を買いに行った時のことだ。ひとりで女性への贈り物など選んだことのなかったユーリスは、気心の知れたテオドールを対価――王都で最も人気の喫茶店でケーキを思う存分食べさせる――と引き換えに馬車に乗せ、一等地に建つ、貴族――特に高位貴族――御用達のジュエリーショップへと足を運んだのだった。果たしてどちらが高くつくのかは、分かったものではないけれど。

 両親が長年の顧客だったということもあり、幼い頃から可愛がってくれていた女店主は、ふたりの唐突な来店に初めこそ驚いたけれど、すぐにいつもの屈託のない笑みを浮かべて、特別室――上顧客だけが足を踏み入れることの出来る部屋――へと招き入れてくれた。

 緞子張りの椅子に腰掛けながら、ふう、と腹の底から息を吐き出し、暫し室内を眺め回す。正直、緊張していないわけではない。断られたらどうしよう、気に入ってもらえなかったらどうしよう、という思いが、ずっと胸の中に燻っているせいで。

 しかしそんなユーリスのことなどまるで関係なく、すぐに扉が開き、女店主は複数人の従業員を引き連れて部屋へ入ってきた。深い色合いをした胡桃材のローテーブルの上に、店員たちが所狭しとジュエリーケースを広げてゆく。深い藍色のもの、真っ白なもの、ワインのような色のもの、若草のような緑色のもの。
 どのケースも外側こそ華やかであるものの、中は純白のベルベットで統一され、その上に寝かせられた――或いは見栄え良く飾られた――ジュエリーたちはどれも、今まで宝石になどまるで興味のなかったユーリスでさえ目を瞠るほど、美しいものばかりだった。

 長い付き合いがあるからこそ、セシリアのことも無論知っている女店主は、彼女の容貌や艶やかなブロンドの髪、それから澄んだ薄紫色の瞳に似合う宝石ばかりでテーブルの上を埋め尽くしてゆく。アメジストのピアス、タンザナイトのブローチ、滅多に出会えないというスピネルのネックレス。

 どれもセシリアに似合いそうだ、と思った。クロードが最も推したのはアメジストのピアスで、何でも“心の平和”や“真実の愛”という意味を持っているのだという。

 しかし、箱をひとつひとつ手に取ってまじまじと眺めてみても、ユーリスにはどれもぴんとくるものがなかった。セシリアの淡い紫色の瞳には、アメジストやタンザナイトといった濃い紫は、主張が激しすぎるように思う。それに――。

 眉間に皺を刻み、険しい顔で吟味していたせいか、向かい側のソファに腰を下ろしていた女店主が、唐突にふふっと笑みをこぼし、それから近くにいた従業員にこっそりと耳打ちをした。意を察したらしい彼女はすぐさま部屋を出てゆき、数分も待つことなく再び戻ってくると、そのまま女店主のもとへ歩み寄り、ひとつの箱を恭しく手渡す。

 それをやさしい手つきで受け取った女店主は、正面に座るユーリスの目を真っ直ぐに捉え、それから穏やかに微笑んだ。彼女の、とろりとした猫目石の指輪が嵌められた細長い指が、まるで慈しむかのように、青いベルベット地の表面をゆっくりと撫でている。

 ――初めは、セシリア様のお瞳の色に合わせて……と思っていたのですけれど。

 彼女は濃い睫毛に囲まれた二重の目をにっこりと細め、それからどこか無邪気ささえ感じられるような明るい声で告げた。

 ――ユーリス様からの贈り物でしたら、絶対にこちらの方が宜しいかと思いまして。

 そう言いながら、赤色で爪先の彩られた手で、女店主は徐にジュエリーケースを開ける。その中から姿を現したのは、これまでテーブルの上を埋め尽くしていた紫を基調とした宝石ではなく、銀の繊細な細工に囲まれた、鮮やかな青色の宝石だった。銀の鎖がするりと伸び、小ぶりな飾りをふたつ挟んで、その先端には――細長い雫型に磨き上げられた、淡く透き通る青い石が静かに眠っている。

 ――こちらは、アクアマリンのピアスでございますわ。

 全く毛色の異なる宝石の登場に、クロードは理由が分からず、女店主と兄の顔を不思議そうに交互に見遣っていたが――やがてふと、何かに思い至ったのか、今まで以上に嬉しそうな、或いは慈愛に満ちた表情を浮かべた。

 ――女性というものは、想う相手に見立てたものを身に着けたくなる心理がございます。このアクアマリンは、正にユーリス様のお瞳そのもののようだと思いますわ。

 まるで蒼穹をそのまま閉じ込めたかのような、澄んだ青。光の加減によって、深い海のようにも、晴れ渡った空のようにも見える不思議な色合い。その色に、目が釘付けになってしまったのは言うまでもない。

 青い瞳は、先代公爵から兄弟揃って受け継がれたものだ。ピアスの色を見て、セシリアがどちらを――大方想像はつくけれど――思い浮かべるのかは、今はまだ考えたくはない。折角、彼女の社交界デビューという晴れ舞台を祝う為の品を買いに来たのだ。――愛する者の瞳と同じ色の宝石が傍らにいれば、彼女はさぞ勇気を得られるだろう。

「――ユーリス」

 少し大きめの声で名を呼ばれ、ユーリスはハッと我に返って主君へと目を向ける。遥か遠い懐かしい過去に浸ってしまっていた所為か、テオドールの存在をすっかり忘れてしまっていたらしい。

 けれども彼はたいして気に留めた風もなく、すっかり空になったボトルを足元に置いて、とろりと蜂蜜のような色をしたウイスキーへ手を伸ばす。彼の瞳とよく似た色をした液体。とくとくとく、とグラスに液体が注がれる音とともに、スパイスとウッディーが程よく調和された芳醇な香りが鼻先を漂ってゆく。

「人の話を聞く前に、先ずは私の話を聞け」

 どちらが主題であるか分からない発言に、なんと横暴な、と思ったけれども、ユーリスは抗うことなく静かに頷いた。まだ少し肌寒いひんやりとした風が、ふたりの間をふわりと吹き抜け、白銀の髪を、濡羽色の髪を微かに揺らめかす。

「――実は私は、童話の類が嫌いだ」

 ワインのまろやかな苦みを喉の奥へ流し込みながら、そういえばこの男は幼い頃からずっと、童話や御伽噺といったものにはまるで興味を持たなかったな、と思い出す。ユーリス自身はありとあらゆる本に興味を持ち、公爵邸の書庫から取り出しては、日がな一日読み耽っていたことさえあるというのに。その対比に気付いてはいたものの、読書を好まない人間はそう珍しくもないので、たいして気に留めてはいなかった。

 しかし、よくよく考えてみると、テオドールは全く書物を読まなかったわけではない。図鑑から歴史書、大人向けの小難しいものまで、ありとあらゆるものに興味を示していたように思う。ただ、童話の類にだけは一切手を出さなかった。いっそ忌避しているかのように、それらの本が収められた一角だけ、彼は"ないもの"のように扱っていた。

「何故だか分かるか?」
「……陛下なら、登場人物の未熟さに難癖をつけそうですから」

 ぶっきらぼうにそう言うと、テオドールは一瞬目を瞠らせ、それから声を上げて心底楽しそうに笑った。バルコニーの眼下に広がる静謐な庭園に、場違いなほど明るい彼の笑い声が響き渡る。このままでは事情の知らぬ者から“幽霊話”なんてものが広まりそうだ。

 満足ゆくまで一頻り笑い終えた後、テオドールは微笑を湛えたまま、グラスを片手に夜空を見上げた。雲ひとつないそこには、無数の星々が宝石を鏤めたように煌めき、惜しみなく光を散らしている。そして、いつもより少しだけあたたかみの感じられる、所々に薄い金箔を貼り付けたような薄い黄色の月。

「まあ、確かに、そうとも言える」

 ブランデーを一気に呷り、テオドールは空になったグラスを目の前でゆらゆらと弄びながら、にやりと口角を持ち上げた。

「私は、あの“上昇婚譚”というのだろうか……兎も角、かっこいい王子様が可愛らしいお姫様を助けてハッピーエンドを迎える――そういう恋愛ものを心底嫌っている。反吐が出そうになるくらいにな」

 国王に即位するまでは“王太子”、つまり物語の中でいう“王子様”だった彼がそれを言うのは、なんだか不思議なもんだと思いながら、ユーリスはバラスターへ背を向け、きっと長話になるであろう主君に備え、夜の空気を滲ませてひんやりとした大理石の床にゆっくりと腰を下ろす。

「つくづく思うのだが、何故、姫は護られる側であり、王子は護るべき側なのかが分からん。そんなものは、ただの“固定概念”にしか過ぎん。それは一見、美しい恋物語に見えるだろうが、私からすれば、白馬の王子様や、姫様に与えられる、溺れるような無条件な愛は、ただの“愛の崩壊現象”にしか思えんのだ」

 今まで散々――それはもう散々――お后候補について口酸っぱく言ってきたというのに。「興味ない」とはぐらかせては素知らぬ顔を貫き通していた男の口から、正にああいっていたその口から、恋愛云々といった話が出てくるとは。もはや呆れを通り越して感心すらする、と思いながら、ユーリスは最後の一口を一気に飲み干す。

「白馬に乗っている完璧な王子に姫が求めているのは、“愛”で見栄えを良くしただけの、“己の人生の代わりを無条件に背負ってくれる男”だ。一方の王子はといえば、甘い言葉を囁きながら、“一生君を護る”という気障な台詞の裏側に、肥大化した“所有・支配欲”といった自己愛を隠し持っている」

 一呼吸の間を置くように、ユーリスは手元で揺らしたグラスに、そっと唇をつける。どんな格好で、どんな場面で、どんな話をしていようとも、王族としての品位は少しも薄れないのだから不思議なものだ。嚥下する喉元の隆起さえ、優雅に見える。

「よくよく考えてみろ、ユーリス。“愛している”という囁きだの、抱擁だの口づけだの、それ以上の行為すら、人間は“愛”がなくとも容易くこなせてしまう。幾らでも嘘はつけるからな。つまりそれは、“愛”の証明にはならないのだよ」

 新しく開けたシェリー酒をグラスに注ぎながらちらと上目でテオドールを見遣ると、彼のくっきりとした二重は、意味深に細められていた。

「では、分かるか? ユーリス。――“愛の本質”とは、果たして何であるかを」