鳥の愛らしい囀りが聞こえる。木の葉が奏でる、かさかさとした葉擦れの音も。ほんのりとあたたかな風がふわりと頬を撫で、緑の爽やかな薫りが鼻先を漂ってゆく。
凪いだ水面から掬い上げられるように意識の浮上したセシリアは、微かに瞼を持ち上げ、ゆっくりと瞬きを繰り返す。途端に、僅かな隙間から差し込む光が弾けて、そのあまりの眩さに思わず目が萎む。
それでも少しずつ、少しずつ重たい瞼を持ち上げると、見慣れた天蓋の杢目が目に入った。それをじっと見つめながら、自分の部屋だ、とセシリアはどこか遠いところでぼんやりと思う。ベッド近くの小窓が開いているのか、視界の端で薄いカーテンがふわりと靡いている。陽はもう随分高く昇っているらしく、あんなにも眩いと思っていた日差しは意外にもやわらかく、長閑に室内を満たしていた。
頭の芯は、まだ少し鈍く痛む。身体もどこか水を含んだように重怠い。けれど、あの炙られるような熱も、氷漬けにされたかのようなひどい悪寒も、ひりつくような喉からこぼれる掠れた笛のような呼吸の音も、視界を覆っていたぐちゃぐちゃな歪みや白い霞も、まるでない。
生きている、と思った。それを確かめるように、肺いっぱいに流れ込んできたばかりの新鮮な空気を取り込む。高熱のせいで疲弊した身体のそこここに、清らかな息吹が沁み広がってゆく感覚。まだ体調は万全ではないのは確かだけれど、清潔な風が美味しいと思える程度には、緩やかに、でも着実に回復していっているのだと感じる。殆ど眠ってばかりで、僅かに意識が戻った時に煎じ薬と水、それから少量のチキンスープを口にする程度だったというのに。身体とは不思議なものだ。
それにしても、どれくらい眠り続けていたのだろう。時折意識が戻っていたとはいえ、常に夢うつつとしていて“目覚め”とは程遠く、故に記憶は朧げだった。
日付を確かめるものが目の届く範囲になく、セシリアは少し億劫に感じながらも、ゆっくりと上体を起こす。長く横になっていたせいか、身体の節々がひどく凝り固まっていて、動かすたびにぎしぎしと軋むような感覚がする。どうにか分厚くやわらかな枕にぐったりと背中を預けて一息つくと、まるでひと月分は積み重なったような疲労がどっと押し寄せてきた。それだけ身体が、病と戦ったという証左だろう。
そう思いながら、こわばった身体から少しでも力を抜こうと、もう一度深く息を吸い込みかけた時。ふいに、扉の向こう側から誰かの話し声が聞こえてきた。あまりにも小さすぎて、男女の区別も、何人いるのかも分からない。とはいえ、この部屋を訪ねてくる人間は限られる。グレアムか、侍女か、それとも往診に来た医師だろうか――。
ひとりひとりの顔を――医師だけは曖昧だけれど――思い浮かべながらそう考えていると、ノックもなしに、突然扉が開かれた。勢いよくではなく、そっと。なるべく音を立てないよう気遣うような、静かな開け方で。
その瞬間、目が合った。突き抜けるように澄んだ青空を思わせる瞳と。寸分の狂いもなく重なり合ったかのように、真っ直ぐに。
部屋に入ってきたのは、ユーリスだった。いったいいつぶりに見たかも分からない夫の姿に、セシリアは思わず息を呑む。彼は扉を開けたままの状態で、ただ突っ立っている。まるで足が、その場に縛り付けられてでもいるみたいに。
ふたりの間に、時の止まったような沈黙が落ちた。お互い見つめ合ったまま、でもお互いに口を開くことはせず。秒針の進む音と、小鳥の可愛らしい鳴き声と、木の葉の揺れる音だけが、吹き込んでくる風に乗って静かな室内を通り過ぎてゆく。誰かと話していたように聞こえたけれど、ユーリスの背後には誰の姿もない。ただふたりだけの空間。もう随分と久しいように感じられる、夫婦であるのに、まるで他人のような距離感。
「……起きて大丈夫なのか」
沈黙を破ったのは、ユーリスだった。分厚い膜の中に閉じ込められていたような感覚から漸く解放され、セシリアは詰めていた息をそうっと吐き出す。久方ぶりに見る彼は、相も変わらずきっちりと軍服を着こなし、陽光を浴びて艷やかな光を帯びた白銀の髪も綺麗に整えられていた。きっとこれから、登城するのだろう。
しかし、こんなに明るい時間帯に彼が邸にいるのは、なんだか不思議なことだった。いつもは夜が更けてからしか戻ってこないというのに。早朝目覚めた時には、既に隣は空になってばかりだったというのに。それにすっかり慣れてしまったせいか、陽光で明るく照らされた室内で見るユーリスの姿は、セシリアの目にどこか新鮮に映った。
「ええ」
戸惑いながら返事をすると、長く眠っていたせいか、それとも高熱で喉を傷めてしまったせいか、声はひどく掠れていた。喋ること自体に問題はなさそうだけれど、なんとも言えない気まずい空気のせいで、二の句が紡げない。
本当は謝らなければいけないと、頭では分かっているのに。体調管理がきちんと出来ていなかったこと、急に倒れてグレアムたちに迷惑をかけてしまったこと、床に臥せっている間に仕事を滞らせてしまったこと。それから、宮廷舞踏会での――。
不意に、薄ピンク色の瞳が脳裏に浮かび上がり、セシリアははたと思考を止めた。ゆるく波打ったプラチナブロンドの髪、透けるような白い肌、果実のように瑞々しい唇、そして――すっと細められた、勝ち誇ったような目。
目の前にいるはずもないカトリーヌが、甘美な毒を潜ませながらふわりと微笑む。どこまでも完璧に、人の心を掌握する為に造り込まれたかのような美麗なかんばせがありありと蘇った刹那――何かが弾けるような音がした。ぱん、と。
それはたちまち頭の中を、真っ白に塗り潰す。右も左も分からないほど白で埋め尽くされたそこには、もうカトリーヌの花容は少しも見えない。けれど、彼女の笑い声だけは、まるで身体中に響いているみたいに、次から次へと溢れ出してくる。まるで歌っているように。ふふっ、ふふふふふっ、と。淑やかな、けれど明らかに嘲りを滲ませた、美しいソプラノの声。
「少し水を飲んだ方が良い」
傍らから降ってきた声にはっと我に返り、セシリアは慌てて顔を向ける。いつの間にかベッドの横に、ユーリスが凛と背筋を伸ばして立っていた。手には、水を注いだばかりと思しきグラスが握られ、差し出されている。もしかしたら返事の掠れ具合から、喉に潤いが足りていないと察したのかもしれない。
セシリアは暫し躊躇い、けれど折角渡してくれたのだから、とグラスを受け取った。丁寧に磨き込まれた硝子の表面も、微かに揺らぐ澄んだ水面も、開け放たれた窓から降り注ぐ陽光を受けて、きらりと小さな光の粒を浮かべている。握り締めた掌にしっとりと馴染むそれは、どうやら常温に保たれたものらしい。ゆっくりと一口含むと、冷たくもなければぬるくもない、心地よく清らかな水が口内を満たし、するりと喉を滑り落ちてゆく。やはり喉はからからに乾ききっていたようで、干上がった大地が慈雨を吸い込むように、ぐんぐんと身体の奥まで沁み渡ってゆく。
しかし、潤いを得たせいか、ユーリスのおかげで雲消霧散したと思っていたカトリーヌの顔が、不意に蘇る。今度はさっきよりもいっそう克明に、生々しいほど。息遣いや、彼女の纏っていた香水の薫りまでもが五感を覆い尽くし、胃の腑からどろりとしたものがこみ上げてきそうで、セシリアはそれを堪えるように唇をきつく噛み締めた。
あの後――カトリーヌとふたりで大臣たちのもとへと向かった後。果たしてふたりは、どんな時間を過ごしたのだろうか。舞踏会当夜も、その翌夜も、ユーリスが帰宅しなかったことは憶えている。カトリーヌがヴェルミア王国を発つまでは戻ってこないだろう、と分かってはいたけれど。だからこそ、余計に気になってしまう。ふたりがどんな夜を明かしたのかを。
そんなことを知ったところで、何になるというのだろう。ただ自分の首を締めるだけだ、と自嘲をこぼしながら、セシリアは漸く固めていた決意を思い出す。高熱のせいで、すっかりそれどころではなくなっていたけれど。“公爵夫人”として、或いは“ひとりの女”としての最後の矜持を、忘れたわけではない。
舞踏の間で聞こえよがしに喋っていた男性たちの声を、独り取り残された妻をせせら笑う数多の声を、そして何より、まるでウェディングアイルのような一本道を歩むふたりの後ろ姿を思い出せば思い出すほど、頭も身体も、鉛でも詰められたみたいにずっしりと重くなる。
ただの“政略結婚”であれば、良かったのだろうか。ありきたりな見合いをして決まった、ただ一族の繁栄の為だけに結ばれた婚姻であれば――こんなにも心が痛むことはなかっただろうか。
幼馴染でなければ。兄妹のように育てられなければ。何をするにも一緒な幼少期を過ごさなければ。木陰で一緒に本を読んだりしなければ。社交界デビューの記念にピアスを貰わなければ。ラストダンスを踊りさえしなければ――。挙げれば本当にきりがない。だからこそ、後悔にも似た切なさが、胸をぎゅっと締め付ける。まるで目に見えない手で、直に鷲掴みにされているみたいに。
疲れた、と思う。もう疲れてしまった、と。愛しているのに、愛されないということが。初めは、それでもただ傍にいられれば良い、と思っていた。彼の一番近くにいられれば、それで十分だ、と。彼の求めた“立派な公爵夫人”を務めることだけが――いや、その姿を演じることだけが、いつしか存在意義になっていた。愛されなくても、此処にいて良いのだと思い込む為の、許されたい為の、苦くも甘い幻。この三年間、ただそれに、必死に縋り付いていた。
「……ねえ、ユーリス」
グラスの中に残った水をじっと見つめたまま、セシリアは彼の名を、心を捻られるような辛さの中で紡ぐ。おかしな話だ。離婚を決意したくせに、この期に及んでまで――彼のことを愛している、と思ってしまうなんて。本当におかしく、馬鹿なことだ。馬鹿で愚かで、どんなに喉から手が出るほど恋い焦がれても、愛されることのなかった女の末路。
ユーリスの視線が、じっと横顔を見つめている。身支度を整えているところからするに、これから王城へ向かわなければならないのだろうことは考えるまでもない。それでも彼は、セシリアが口を開くのを、ただ静かに待ってくれていた。せめてこんな時くらい、急かしてくれれば良いのに、と思う。苛立った口調で、もう出なければならないから早くしてくれ、と。そう言ってくれれば、どれほど気が楽になれただろう。
胸の内で密かに苦笑をこぼし、セシリアはゆっくりと――いつも以上に時間をかけて――ひとつ瞬いてから、静かに唇を開いた。
「――私と、離婚してくれないかしら」
傍らで、息を呑む気配がしたように思う。本当のところはどうなのか、分からない。――いや、敢えて分かろうとしないように、殻に閉じこもった。光の粒を浮かべた水面だけを見つめ、ユーリスの方へは決して目を向けない。たとえそれが“逃げ”だと言われようと、それで良い、とセシリアは胸の内でそっと自嘲をこぼす。今はもう、何もかもから逃げ出したかった。
逃げて、逃げて、逃げて――けれど果たして、何処へ逃げれば良いのだろう。もちろん行く先は、両親のいる伯爵領しかない。ユーリスと離婚をした身で、クロードを頼れるわけがないのだから。いくら大切な幼馴染であり、友人であろうとも。
伯爵領へ戻って、それからどう過ごせば良いのかなんて、今はまだ想像も出来ない。期待に胸が膨らむわけでもなければ、明るい未来に心が踊るわけでもなく。ただ漠然とした虚だけが、セシリアの目の前に広がっている。
思えば昔からずっと、ユーリスのことだけを考え、想ってきた人生だった。許婚だと知らされ、“次期公爵夫人”としての教育が始まり――思春期を迎え、彼への恋心を自覚してからは、なおのこと。だから、彼の存在しない未来を、どうしても思い描くことが出来なかった。誰かと再婚することも、従兄弟とともに領地の経営に励むことも、今は何ひとつ頭に浮かんでこない。
それでも、このままの関係を続けていくのは、身を滅ぼすだけだ。自分の心だけでなく、ユーリスもまた、いつまでも“愛のない妻”に縛られ続けるのは辛いだろう。彼は引く手あまたなほど女性に人気があり、その上、大国の王女から直々に縁談を申し込まれるほどなのだから。そんな彼の隣に、“没落寸前だった伯爵家の娘”など相応しくない。
どれくらいの時間、黙り込んでいただろう。その静寂を、不思議と息苦しいとは思わなかった。もうすぐ終わる――そう、終わるのだ。そう思えば思うほど、鼓動が少しずつ早まってゆく。きりきりとした、悲鳴のような痛みを上げながら。
やがて、小さく息のこぼれる音が、微かに耳に届いた。溜息でもなければ笑ったわけでもない、ただ詰めていた息をどうにか吐き出したような、小さな小さな音。
「――離婚は、しない」
間際にこぼした小さな吐息とはまるで正反対の、凛とした声できっぱりと放たれた言葉が、鼓膜を激しく揺さぶる。その想像だにしていなかった返しに、思わず目を見開いて、セシリアは弾かれたように傍らに立つユーリスの顔を見上げた。
彼の蒼穹のような瞳は、今までに見たことがないほど、無情だった。何を考えているのか読み取れない、なんてものではない。考えも感情もまるでないのだと分かる、淡々とした瞳。そんな彼から真っ直ぐ向けられる眼差しに、セシリアの方がたじろいでしまう。
彼は端正なかんばせに微笑みを浮かべることも、或いは歪めることも、怒りを滲ませることもしなかった。かといって冷たいというわけでもなく――まるで空白のような、色のない表情に、セシリアは視線を囚われたまま、こくりと唾を呑む。グラスを包んだ両手が、微かに震えている。動揺のせいか、それとも唖然としているのか。
何故、と問いたかった。どうして、と。
侯爵家のマリエル嬢が本命なのでしょう?
カトリーヌ王女から縁談が来ているのでしょう?
それに、貴方はそもそも初めから、「君を愛することはない」と言っていたでしょう?この先何があろうと愛することはない、と。だから「俺を愛さなくて良い」とも――。
それなのにどうして、離婚はしないと言い切ったのか、まるで分からない。どう考えたって、ユーリスにとっては利でしかないだろうに。王女の縁談を受けた方が遥かに良いことくらい、或いは、本命の女性と幸せに暮らす方が良いことくらい、聡い彼が分からないはずはないのに。何故、どうして――。
頭の中をぐるぐると回る幾つもの言葉を、どれから投げつければ良いのか分からずに逡巡していると、セシリアが口を開くより先に、ユーリスは静かに踵を返した。彼の左胸につけられた銀細工が、ちゃり、と微かな金属音を奏でる。
「ユーリスっ!」
離れゆこうとする背中を引き止めたくて、咄嗟に大きな声を出してしまったせいか、ごほっ、と濁った咳がこぼれてしまった。その音を聞いて、扉へ向かっていたユーリスの足が、ぴたりと止まる。けれどすぐに彼は再び歩みを進め、そのまま一度も振り返ることなく、静かに部屋を出て行った。
穏やかな陽光が満ちるあたたかな、けれど昏い孤独の漂う寝室に、今にも泣き出しそうに顔を歪めたセシリアを独り残して。
凪いだ水面から掬い上げられるように意識の浮上したセシリアは、微かに瞼を持ち上げ、ゆっくりと瞬きを繰り返す。途端に、僅かな隙間から差し込む光が弾けて、そのあまりの眩さに思わず目が萎む。
それでも少しずつ、少しずつ重たい瞼を持ち上げると、見慣れた天蓋の杢目が目に入った。それをじっと見つめながら、自分の部屋だ、とセシリアはどこか遠いところでぼんやりと思う。ベッド近くの小窓が開いているのか、視界の端で薄いカーテンがふわりと靡いている。陽はもう随分高く昇っているらしく、あんなにも眩いと思っていた日差しは意外にもやわらかく、長閑に室内を満たしていた。
頭の芯は、まだ少し鈍く痛む。身体もどこか水を含んだように重怠い。けれど、あの炙られるような熱も、氷漬けにされたかのようなひどい悪寒も、ひりつくような喉からこぼれる掠れた笛のような呼吸の音も、視界を覆っていたぐちゃぐちゃな歪みや白い霞も、まるでない。
生きている、と思った。それを確かめるように、肺いっぱいに流れ込んできたばかりの新鮮な空気を取り込む。高熱のせいで疲弊した身体のそこここに、清らかな息吹が沁み広がってゆく感覚。まだ体調は万全ではないのは確かだけれど、清潔な風が美味しいと思える程度には、緩やかに、でも着実に回復していっているのだと感じる。殆ど眠ってばかりで、僅かに意識が戻った時に煎じ薬と水、それから少量のチキンスープを口にする程度だったというのに。身体とは不思議なものだ。
それにしても、どれくらい眠り続けていたのだろう。時折意識が戻っていたとはいえ、常に夢うつつとしていて“目覚め”とは程遠く、故に記憶は朧げだった。
日付を確かめるものが目の届く範囲になく、セシリアは少し億劫に感じながらも、ゆっくりと上体を起こす。長く横になっていたせいか、身体の節々がひどく凝り固まっていて、動かすたびにぎしぎしと軋むような感覚がする。どうにか分厚くやわらかな枕にぐったりと背中を預けて一息つくと、まるでひと月分は積み重なったような疲労がどっと押し寄せてきた。それだけ身体が、病と戦ったという証左だろう。
そう思いながら、こわばった身体から少しでも力を抜こうと、もう一度深く息を吸い込みかけた時。ふいに、扉の向こう側から誰かの話し声が聞こえてきた。あまりにも小さすぎて、男女の区別も、何人いるのかも分からない。とはいえ、この部屋を訪ねてくる人間は限られる。グレアムか、侍女か、それとも往診に来た医師だろうか――。
ひとりひとりの顔を――医師だけは曖昧だけれど――思い浮かべながらそう考えていると、ノックもなしに、突然扉が開かれた。勢いよくではなく、そっと。なるべく音を立てないよう気遣うような、静かな開け方で。
その瞬間、目が合った。突き抜けるように澄んだ青空を思わせる瞳と。寸分の狂いもなく重なり合ったかのように、真っ直ぐに。
部屋に入ってきたのは、ユーリスだった。いったいいつぶりに見たかも分からない夫の姿に、セシリアは思わず息を呑む。彼は扉を開けたままの状態で、ただ突っ立っている。まるで足が、その場に縛り付けられてでもいるみたいに。
ふたりの間に、時の止まったような沈黙が落ちた。お互い見つめ合ったまま、でもお互いに口を開くことはせず。秒針の進む音と、小鳥の可愛らしい鳴き声と、木の葉の揺れる音だけが、吹き込んでくる風に乗って静かな室内を通り過ぎてゆく。誰かと話していたように聞こえたけれど、ユーリスの背後には誰の姿もない。ただふたりだけの空間。もう随分と久しいように感じられる、夫婦であるのに、まるで他人のような距離感。
「……起きて大丈夫なのか」
沈黙を破ったのは、ユーリスだった。分厚い膜の中に閉じ込められていたような感覚から漸く解放され、セシリアは詰めていた息をそうっと吐き出す。久方ぶりに見る彼は、相も変わらずきっちりと軍服を着こなし、陽光を浴びて艷やかな光を帯びた白銀の髪も綺麗に整えられていた。きっとこれから、登城するのだろう。
しかし、こんなに明るい時間帯に彼が邸にいるのは、なんだか不思議なことだった。いつもは夜が更けてからしか戻ってこないというのに。早朝目覚めた時には、既に隣は空になってばかりだったというのに。それにすっかり慣れてしまったせいか、陽光で明るく照らされた室内で見るユーリスの姿は、セシリアの目にどこか新鮮に映った。
「ええ」
戸惑いながら返事をすると、長く眠っていたせいか、それとも高熱で喉を傷めてしまったせいか、声はひどく掠れていた。喋ること自体に問題はなさそうだけれど、なんとも言えない気まずい空気のせいで、二の句が紡げない。
本当は謝らなければいけないと、頭では分かっているのに。体調管理がきちんと出来ていなかったこと、急に倒れてグレアムたちに迷惑をかけてしまったこと、床に臥せっている間に仕事を滞らせてしまったこと。それから、宮廷舞踏会での――。
不意に、薄ピンク色の瞳が脳裏に浮かび上がり、セシリアははたと思考を止めた。ゆるく波打ったプラチナブロンドの髪、透けるような白い肌、果実のように瑞々しい唇、そして――すっと細められた、勝ち誇ったような目。
目の前にいるはずもないカトリーヌが、甘美な毒を潜ませながらふわりと微笑む。どこまでも完璧に、人の心を掌握する為に造り込まれたかのような美麗なかんばせがありありと蘇った刹那――何かが弾けるような音がした。ぱん、と。
それはたちまち頭の中を、真っ白に塗り潰す。右も左も分からないほど白で埋め尽くされたそこには、もうカトリーヌの花容は少しも見えない。けれど、彼女の笑い声だけは、まるで身体中に響いているみたいに、次から次へと溢れ出してくる。まるで歌っているように。ふふっ、ふふふふふっ、と。淑やかな、けれど明らかに嘲りを滲ませた、美しいソプラノの声。
「少し水を飲んだ方が良い」
傍らから降ってきた声にはっと我に返り、セシリアは慌てて顔を向ける。いつの間にかベッドの横に、ユーリスが凛と背筋を伸ばして立っていた。手には、水を注いだばかりと思しきグラスが握られ、差し出されている。もしかしたら返事の掠れ具合から、喉に潤いが足りていないと察したのかもしれない。
セシリアは暫し躊躇い、けれど折角渡してくれたのだから、とグラスを受け取った。丁寧に磨き込まれた硝子の表面も、微かに揺らぐ澄んだ水面も、開け放たれた窓から降り注ぐ陽光を受けて、きらりと小さな光の粒を浮かべている。握り締めた掌にしっとりと馴染むそれは、どうやら常温に保たれたものらしい。ゆっくりと一口含むと、冷たくもなければぬるくもない、心地よく清らかな水が口内を満たし、するりと喉を滑り落ちてゆく。やはり喉はからからに乾ききっていたようで、干上がった大地が慈雨を吸い込むように、ぐんぐんと身体の奥まで沁み渡ってゆく。
しかし、潤いを得たせいか、ユーリスのおかげで雲消霧散したと思っていたカトリーヌの顔が、不意に蘇る。今度はさっきよりもいっそう克明に、生々しいほど。息遣いや、彼女の纏っていた香水の薫りまでもが五感を覆い尽くし、胃の腑からどろりとしたものがこみ上げてきそうで、セシリアはそれを堪えるように唇をきつく噛み締めた。
あの後――カトリーヌとふたりで大臣たちのもとへと向かった後。果たしてふたりは、どんな時間を過ごしたのだろうか。舞踏会当夜も、その翌夜も、ユーリスが帰宅しなかったことは憶えている。カトリーヌがヴェルミア王国を発つまでは戻ってこないだろう、と分かってはいたけれど。だからこそ、余計に気になってしまう。ふたりがどんな夜を明かしたのかを。
そんなことを知ったところで、何になるというのだろう。ただ自分の首を締めるだけだ、と自嘲をこぼしながら、セシリアは漸く固めていた決意を思い出す。高熱のせいで、すっかりそれどころではなくなっていたけれど。“公爵夫人”として、或いは“ひとりの女”としての最後の矜持を、忘れたわけではない。
舞踏の間で聞こえよがしに喋っていた男性たちの声を、独り取り残された妻をせせら笑う数多の声を、そして何より、まるでウェディングアイルのような一本道を歩むふたりの後ろ姿を思い出せば思い出すほど、頭も身体も、鉛でも詰められたみたいにずっしりと重くなる。
ただの“政略結婚”であれば、良かったのだろうか。ありきたりな見合いをして決まった、ただ一族の繁栄の為だけに結ばれた婚姻であれば――こんなにも心が痛むことはなかっただろうか。
幼馴染でなければ。兄妹のように育てられなければ。何をするにも一緒な幼少期を過ごさなければ。木陰で一緒に本を読んだりしなければ。社交界デビューの記念にピアスを貰わなければ。ラストダンスを踊りさえしなければ――。挙げれば本当にきりがない。だからこそ、後悔にも似た切なさが、胸をぎゅっと締め付ける。まるで目に見えない手で、直に鷲掴みにされているみたいに。
疲れた、と思う。もう疲れてしまった、と。愛しているのに、愛されないということが。初めは、それでもただ傍にいられれば良い、と思っていた。彼の一番近くにいられれば、それで十分だ、と。彼の求めた“立派な公爵夫人”を務めることだけが――いや、その姿を演じることだけが、いつしか存在意義になっていた。愛されなくても、此処にいて良いのだと思い込む為の、許されたい為の、苦くも甘い幻。この三年間、ただそれに、必死に縋り付いていた。
「……ねえ、ユーリス」
グラスの中に残った水をじっと見つめたまま、セシリアは彼の名を、心を捻られるような辛さの中で紡ぐ。おかしな話だ。離婚を決意したくせに、この期に及んでまで――彼のことを愛している、と思ってしまうなんて。本当におかしく、馬鹿なことだ。馬鹿で愚かで、どんなに喉から手が出るほど恋い焦がれても、愛されることのなかった女の末路。
ユーリスの視線が、じっと横顔を見つめている。身支度を整えているところからするに、これから王城へ向かわなければならないのだろうことは考えるまでもない。それでも彼は、セシリアが口を開くのを、ただ静かに待ってくれていた。せめてこんな時くらい、急かしてくれれば良いのに、と思う。苛立った口調で、もう出なければならないから早くしてくれ、と。そう言ってくれれば、どれほど気が楽になれただろう。
胸の内で密かに苦笑をこぼし、セシリアはゆっくりと――いつも以上に時間をかけて――ひとつ瞬いてから、静かに唇を開いた。
「――私と、離婚してくれないかしら」
傍らで、息を呑む気配がしたように思う。本当のところはどうなのか、分からない。――いや、敢えて分かろうとしないように、殻に閉じこもった。光の粒を浮かべた水面だけを見つめ、ユーリスの方へは決して目を向けない。たとえそれが“逃げ”だと言われようと、それで良い、とセシリアは胸の内でそっと自嘲をこぼす。今はもう、何もかもから逃げ出したかった。
逃げて、逃げて、逃げて――けれど果たして、何処へ逃げれば良いのだろう。もちろん行く先は、両親のいる伯爵領しかない。ユーリスと離婚をした身で、クロードを頼れるわけがないのだから。いくら大切な幼馴染であり、友人であろうとも。
伯爵領へ戻って、それからどう過ごせば良いのかなんて、今はまだ想像も出来ない。期待に胸が膨らむわけでもなければ、明るい未来に心が踊るわけでもなく。ただ漠然とした虚だけが、セシリアの目の前に広がっている。
思えば昔からずっと、ユーリスのことだけを考え、想ってきた人生だった。許婚だと知らされ、“次期公爵夫人”としての教育が始まり――思春期を迎え、彼への恋心を自覚してからは、なおのこと。だから、彼の存在しない未来を、どうしても思い描くことが出来なかった。誰かと再婚することも、従兄弟とともに領地の経営に励むことも、今は何ひとつ頭に浮かんでこない。
それでも、このままの関係を続けていくのは、身を滅ぼすだけだ。自分の心だけでなく、ユーリスもまた、いつまでも“愛のない妻”に縛られ続けるのは辛いだろう。彼は引く手あまたなほど女性に人気があり、その上、大国の王女から直々に縁談を申し込まれるほどなのだから。そんな彼の隣に、“没落寸前だった伯爵家の娘”など相応しくない。
どれくらいの時間、黙り込んでいただろう。その静寂を、不思議と息苦しいとは思わなかった。もうすぐ終わる――そう、終わるのだ。そう思えば思うほど、鼓動が少しずつ早まってゆく。きりきりとした、悲鳴のような痛みを上げながら。
やがて、小さく息のこぼれる音が、微かに耳に届いた。溜息でもなければ笑ったわけでもない、ただ詰めていた息をどうにか吐き出したような、小さな小さな音。
「――離婚は、しない」
間際にこぼした小さな吐息とはまるで正反対の、凛とした声できっぱりと放たれた言葉が、鼓膜を激しく揺さぶる。その想像だにしていなかった返しに、思わず目を見開いて、セシリアは弾かれたように傍らに立つユーリスの顔を見上げた。
彼の蒼穹のような瞳は、今までに見たことがないほど、無情だった。何を考えているのか読み取れない、なんてものではない。考えも感情もまるでないのだと分かる、淡々とした瞳。そんな彼から真っ直ぐ向けられる眼差しに、セシリアの方がたじろいでしまう。
彼は端正なかんばせに微笑みを浮かべることも、或いは歪めることも、怒りを滲ませることもしなかった。かといって冷たいというわけでもなく――まるで空白のような、色のない表情に、セシリアは視線を囚われたまま、こくりと唾を呑む。グラスを包んだ両手が、微かに震えている。動揺のせいか、それとも唖然としているのか。
何故、と問いたかった。どうして、と。
侯爵家のマリエル嬢が本命なのでしょう?
カトリーヌ王女から縁談が来ているのでしょう?
それに、貴方はそもそも初めから、「君を愛することはない」と言っていたでしょう?この先何があろうと愛することはない、と。だから「俺を愛さなくて良い」とも――。
それなのにどうして、離婚はしないと言い切ったのか、まるで分からない。どう考えたって、ユーリスにとっては利でしかないだろうに。王女の縁談を受けた方が遥かに良いことくらい、或いは、本命の女性と幸せに暮らす方が良いことくらい、聡い彼が分からないはずはないのに。何故、どうして――。
頭の中をぐるぐると回る幾つもの言葉を、どれから投げつければ良いのか分からずに逡巡していると、セシリアが口を開くより先に、ユーリスは静かに踵を返した。彼の左胸につけられた銀細工が、ちゃり、と微かな金属音を奏でる。
「ユーリスっ!」
離れゆこうとする背中を引き止めたくて、咄嗟に大きな声を出してしまったせいか、ごほっ、と濁った咳がこぼれてしまった。その音を聞いて、扉へ向かっていたユーリスの足が、ぴたりと止まる。けれどすぐに彼は再び歩みを進め、そのまま一度も振り返ることなく、静かに部屋を出て行った。
穏やかな陽光が満ちるあたたかな、けれど昏い孤独の漂う寝室に、今にも泣き出しそうに顔を歪めたセシリアを独り残して。
