初めて会った時のことは、今でも鮮明に憶えている。まるで昨日の出来事のように。息遣いや、匂いや、笑い声や、窓の外を小鳥が羽ばたいていったことや――そんな些細なことすら事細かに思い出せるほど。何もかもが未だ色褪せることなく、光を帯びたようにくっきりと、頭の中に焼き付いている。
――はじめまして、セシリアと、もうします。
あどけない舌っ足らずな口調でそう自己紹介をしながら、白くか細い指先でフリルの付いたスカートを摘み上げ、たどたどしく――少しふらつきながら――カーテシーをするその姿は、まるでやわらかな小動物のようだった。
ひとつ年下のクロードと同じ歳だと聞いていたが、あまりに小柄だったせいかとてもそうには思えず、男と女ではこんなにも違うのか、と驚いたものだ。母親たちを真似て、淑女然と――恐らく本人は真面目になりきって――カップを持ち、伏し目がちにすっとお茶を飲む姿を見ていると、何故だか急に胸の奥がじわりとあたたかくなるのを感じて、口の端がゆるみそうになった。一人前にやろうとしている健気さが可愛らしかったのかもしれないし、或いは微笑ましかったのかもしれない。
応接間で、両親の間にちょこんと座っていた時の彼女はとてもしおらしく、笑う時も常に小さな手で口元を覆い、ふふっと朗らかに微笑んだ。丁寧に切り揃えられた健康的な淡い桃色の爪も、細めた目元に落ちる睫毛の仄かな影も、微かに首を傾けた時に揺れる艶やかなブロンドの髪も――何もかもが、彼女の清廉な穏やかさをそのまま表しているかのようで。まるで陽だまりの中でひっそりと咲く、白い野の花のようだだ、と思った。小さく可憐な、愛らしい花。
しかし、親たちの目を離れ、子どもたちだけで庭園へと出ると、それまで抱いていたイメージは一瞬にして引っくり返った。てっきり庭に咲く色とりどりの花を見て回る方が好きだろうと思っていたのだが、彼女はクロードの提案した“追いかけっこ”に目を輝かせ、応接間では決して見せることのなかった無邪気な笑みで、迷いなく頷いたのだ。
その後は広々とした公爵邸の庭園を、三人で思う存分駆け回り、当時飼っていたゴールデンレトリバーも交えてじゃれ合い――終いには春先だというのに額に小さな汗の粒を張り付かせて、ふっくらとやわらかな芝生の上にごろりと寝転がった。もちろん彼女も。恐らくはこの日の為に仕立てたのだろう、淡いアイリス色の可愛らしいドレスが汚れてしまうのも厭わずに、何の躊躇いもなく。
声を上げて屈託なく笑う彼女の横顔を見ていると、今眼の前にある笑顔の方がきっと“本物”なのだろう、と思った。清廉であることに変わりはないけれど。無邪気で、素直で、快活で――”天真爛漫"という言葉がよく似合う女の子。伯爵家の娘としての品はありながら、飾らない素朴さも持ち合わせるその愛らしさに、幼いながら心を掴まれたのは否めない。今まで出会ってきたどの女の子とも、彼女は違っていた。“次期公爵家当主”という肩書を背負った男を前にしても、彼女は決して繕うことをしなかったのだから。
――ユーリス、見て! さっき、お庭のおじいさんにいただいたの!
真夏の昼下がり、木陰で涼みながら本を読んでいると、彼女は小さな両手いっぱいに向日葵の花束を抱えて駆け寄ってきた。大きく育った向日葵は、彼女の小ぶりな顔より一回りは大きく、少し傾けると、その裏側に色白のかんばせがすっぽり隠れてしまう。まるで麦わら帽子を被った向日葵のようで、つい笑ってしまったものだ。どこまでも透き通った青空、燦々と降り注ぐ陽光、吹き抜ける生ぬるい風、鮮やかな黄色をした向日葵――。
人はよく美しいものを、天使や女神、或いは花に喩えることが多いが、向日葵を抱える彼女の、心底楽しそうで幸せそうな、溌剌とした弾けるような笑みは、天使でも女神でも花でもなく――まるで太陽のようだ、と思った。清らかな光で、全てのものを包み込むようにあたたかく照らす、眩い太陽のようだ、と。
見惚れる、というのを初めて知ったのは、正にあの時だった。どんな天使にも女神にも、大輪の花よりも、いっそ太陽そのものにも劣ることのない、無二の笑顔。その笑顔が、好きだった。ずっと見ていたい――それが出来るのなら何だってしてやれる、と思えるほど。
けれど、この世の光を全て集めたような、眩いほどに輝くあの笑顔が向けられるのは、いつだって――。
ふと、長い睫毛が震えたような気がして、ユーリスはベッド脇に置かれた椅子からそっと腰を上げた。瞼が重いのか、薄く開こうとしては力尽きるように閉じ、また僅かに開いては、ずしりとした重みに押し戻されるように落ち、また閉じてしまう。それでも懸命に目を開こうとする彼女に、
「……セシリア」
落ち着いた声音で名を呼ぶと、青白い瞼がぴくりと反応を示した。それからゆっくりと、まるで水面を揺らしながら浮かび上がるように、薄く、薄く、瞼が開いてゆく。
長い時間をかけ、睫毛を微かに震わせながら瞼が持ち上がる。汗なのか涙なのか、或いはそのどちらもが溶け合っているのか――白い頬に細い筋を引いたその下から、薄紫色の瞳が、ぼんやりとした光を帯びてあらわれた。
けれども焦点は定まっていないようで、夢と現の狭間を漂うように揺れている。まるでここではない、どこか遠いところを眺めているかのように。
「セシリア」
もう一度名を囁くと、ぼうっとしていた薄紫の瞳が、微かに動いた。見間違いかと思ってしまいそうなほど、小さく。けれども、確かに。
駆けつけたばかりの時は、高熱に魘されているせいで息はひどく乱れ、青白く染まった顔に汗の粒を滴らせていたけれど。今はその頃よりもまだ幾分、呼吸が落ち着いているように見える。とはいえ、彼女の体内にはまだ、触れれば火傷しそうな熱が残り、華奢な身体を炙り続けていることに変わりはない。このまま意識がはっきりと戻ってくれれば、薬も水も、しっかりと飲ませることが出来る。そうすれば――
「――ク、ロ……ド……?」
息が、喉の奥で止まった。吐き出すことも、吸い込むことも出来ないまま、ユーリスはその場に縫い留められたかのように、ただ立ち尽くす。鼓膜に触れたか細く掠れた声が、ぽつり、ぽつりとこぼされたその言葉が、まるで覆い被さるように、頭の中をたちまち白く塗り潰してゆく。
彼女は、何と言ったのだろう。分かっているはずなのに、分からない。理解してしまっているからこそ、呼吸も声も言葉も思考も何もかも奪われているというのに――それでも、分からない、と思ってしまう。愚かな足掻きだ。疾うに、彼女の紡いだ名は、すとんと胸の奥底に落ちているくせに。それを受け入れることを、本能が頑なに拒んでいる。
恐らく彼女のぼやけた視界では、薄闇の中から青い色だけしか認識することが出来なかったのだろう。青い瞳は、兄弟揃って父から譲り受けたものだ。ただそれだけが同じで、髪色も顔の造りも、似通っている部分はあれど、きちんと見分けがつくほどにははっきりと違う。双子ではないのだから。ただ――そう、ただ、瞳の色が同じというだけ。
故に、見間違えてしまったのだろうか。そう考え、なんと都合の良い方へ思考を働かせようとしているのだろう、と、ユーリスは胸の内で静かに自嘲をこぼす。薄紫色の瞳は虚ろで、ものを判別出来ないほど靄がかかっているのだろう。寧ろ、だからこそ――彼女のこぼした名は"見間違い"によるものではなく、きっと、そうあってほしいという"願望"なのだろうと思わずにはいられない。
何を今更、こんなにも揺さぶられているのだろう。まるで後頭部を鈍器で殴られたみたいに。息の仕方すら分からなくなるほど、惑っているのだろう。もう随分と昔から、分かっていたというのに。誰よりも一番近くて見てきたからこそ、嫌というほど思い知っていたというのに。
目に見えない糸で雁字搦めにされたような感覚に囚われ、どうすることも出来ずにただ茫然としていたユーリスの視界に、ふと、微かな動きが映り込んだ。毛布の上に力なく沈んでいた白く細い左手が、ゆるゆると、ほんの僅かに持ち上がろうとしている。浮いたか、浮いていないか定かでないほどの、小さな動き。けれどそれは、朦朧とした意識の奥底から湧き出るような、ひどく切実な動きだった。
その手をじっと見つめ、ユーリスは奥歯を噛み締める。この手を伸ばす先にいてほしいのは、この手を握ってほしいのは、今はここにいない男だ。そんなことは、身に染みるほど知っている。心を捩じられるほどに。
しかしどうしても、ゆるゆると、懸命に持ち上げようとしている青白い手を、弱りきったか細い手を、見て見ぬふりをして、放っておくことは出来なかった。
それもきっと、自分に都合の良いように歪めた言い訳だ、と、静かに苦笑をこぼしながら、ユーリスはセシリアの手を、右手でそっと包み込んだ。掌にすっぽりと収まるそれは、彼女の苦しみを滲ませたように、ひどく熱い。
暫くの間、夜の静謐な空気の中で、彼女の手を握っていた。繊細な硝子細工を扱うかのように、やさしく。時折親指の腹で、少し汗ばんだやわらかな皮膚を撫でながら。
どれくらいそうしていただろう。時間の流れが曖昧になるような静寂の中に浸っていたユーリスの耳へ、不意に控え目なノックの音が届いた。返事をせずにいると、予め指示していた通りに扉がゆっくりと開かれる。
次第に開かれゆく扉の、蝶番の軋む微かな音が、やけに大きく室内に響く。ユーリスはその音を合図にするように、包み込んでいたセシリアの手をそっと離し、毛布の上へ寝かせた。指先が離れきるその最後の瞬間まで、彼女の肌の感触を名残り惜しく思いながら。
席を離れる間際、ふと彼女の顔へ目を向けると、重たい眠気に抗えなかったのか、いつの間にか長い睫毛の影を落として、瞼は静かに沈んでいた。
「書類をお持ちしました」
眠っているセシリアを気遣い、潜めた声で用件を告げるカイルへ視線を移し、ユーリスは短く返事をする。彼の両腕には、王城の執務室に山積みにされていた書類の一部が、山ひとつをそのまま移植したかのようにどっさりと抱えられていた。それでも、思っていたよりも随分と少ないな、と内心独り言ちながら、ユーリスは部屋の中央に置かれたソファへと歩み寄る。
「それだけか? 他にもあっただろう」
「もちろんありましたが、一度に全部持ち込めば、一気に片付けようとされるに決まってますから」
そう言って苦笑をこぼし、カイルは書類の山をソファの前に据えられたテーブルの上にそっと置いた。どうやら彼なりの気遣いであるらしい。騎士団時代からの長い付き合いのせいか、すっかり見抜かれてしまっている。そういうところが、どうにもグレアムに似ている――そう思いつつ、ユーリスは脱いだ上着を背もたれにかけ、ソファに腰掛けた。
「王城の外へ持ち出すことの出来ない機密書類については、陛下からご許可をいただき、提出期限を延ばしていただきました」
「何日だ?」
「三日です」
つまり、四日後には戻ってこい、ということだ。無論、仕方ないことは承知している。他国への外遊でもない限り、宰相が長期間政務の現場から離れるというのは、許されることではない。三日――それだけでも十分、テオドールが部下の我儘を呑み、融通を効かせてくれた方だ。明日には戻ってこい、と言われる可能性の方が高いと思っていたのだから。
「残りの一部は、明日の昼頃にお持ちします」
そう言って足早に部屋を出てゆこうとするカイルの背中に礼を告げ、ユーリスは背もたれに深々と身体を預けた。そのまま何となく天井を仰ぎ、薄闇に埋もれた白色をぼうっと眺め、ゆっくりと目を閉じる。室内に微かに漂う、セシリアの寝息を確かめながら。
――ユーリス、見て! さっき、お庭のおじいさんにいただいたの!
どこか遠くで、懐かしい声が聞こえたような気がしたかと思うと、瞼の裏に広がる暗闇が一瞬にして明るく晴れ、向日葵を抱いたセシリアの、まるで太陽のような愛らしい笑顔が鮮明に蘇った。天使や女神や花なんかよりももっと美しく、全てをあたたかく照らす、眩いほどに輝く笑顔。
――ク、ロ……ド……?
刹那に蘇ったその笑顔は、しかしすぐに儚く溶けてゆき、後に残ったのはただの暗闇と、ここにはいない男を求める、あの切なく掠れた声だけだった。
――はじめまして、セシリアと、もうします。
あどけない舌っ足らずな口調でそう自己紹介をしながら、白くか細い指先でフリルの付いたスカートを摘み上げ、たどたどしく――少しふらつきながら――カーテシーをするその姿は、まるでやわらかな小動物のようだった。
ひとつ年下のクロードと同じ歳だと聞いていたが、あまりに小柄だったせいかとてもそうには思えず、男と女ではこんなにも違うのか、と驚いたものだ。母親たちを真似て、淑女然と――恐らく本人は真面目になりきって――カップを持ち、伏し目がちにすっとお茶を飲む姿を見ていると、何故だか急に胸の奥がじわりとあたたかくなるのを感じて、口の端がゆるみそうになった。一人前にやろうとしている健気さが可愛らしかったのかもしれないし、或いは微笑ましかったのかもしれない。
応接間で、両親の間にちょこんと座っていた時の彼女はとてもしおらしく、笑う時も常に小さな手で口元を覆い、ふふっと朗らかに微笑んだ。丁寧に切り揃えられた健康的な淡い桃色の爪も、細めた目元に落ちる睫毛の仄かな影も、微かに首を傾けた時に揺れる艶やかなブロンドの髪も――何もかもが、彼女の清廉な穏やかさをそのまま表しているかのようで。まるで陽だまりの中でひっそりと咲く、白い野の花のようだだ、と思った。小さく可憐な、愛らしい花。
しかし、親たちの目を離れ、子どもたちだけで庭園へと出ると、それまで抱いていたイメージは一瞬にして引っくり返った。てっきり庭に咲く色とりどりの花を見て回る方が好きだろうと思っていたのだが、彼女はクロードの提案した“追いかけっこ”に目を輝かせ、応接間では決して見せることのなかった無邪気な笑みで、迷いなく頷いたのだ。
その後は広々とした公爵邸の庭園を、三人で思う存分駆け回り、当時飼っていたゴールデンレトリバーも交えてじゃれ合い――終いには春先だというのに額に小さな汗の粒を張り付かせて、ふっくらとやわらかな芝生の上にごろりと寝転がった。もちろん彼女も。恐らくはこの日の為に仕立てたのだろう、淡いアイリス色の可愛らしいドレスが汚れてしまうのも厭わずに、何の躊躇いもなく。
声を上げて屈託なく笑う彼女の横顔を見ていると、今眼の前にある笑顔の方がきっと“本物”なのだろう、と思った。清廉であることに変わりはないけれど。無邪気で、素直で、快活で――”天真爛漫"という言葉がよく似合う女の子。伯爵家の娘としての品はありながら、飾らない素朴さも持ち合わせるその愛らしさに、幼いながら心を掴まれたのは否めない。今まで出会ってきたどの女の子とも、彼女は違っていた。“次期公爵家当主”という肩書を背負った男を前にしても、彼女は決して繕うことをしなかったのだから。
――ユーリス、見て! さっき、お庭のおじいさんにいただいたの!
真夏の昼下がり、木陰で涼みながら本を読んでいると、彼女は小さな両手いっぱいに向日葵の花束を抱えて駆け寄ってきた。大きく育った向日葵は、彼女の小ぶりな顔より一回りは大きく、少し傾けると、その裏側に色白のかんばせがすっぽり隠れてしまう。まるで麦わら帽子を被った向日葵のようで、つい笑ってしまったものだ。どこまでも透き通った青空、燦々と降り注ぐ陽光、吹き抜ける生ぬるい風、鮮やかな黄色をした向日葵――。
人はよく美しいものを、天使や女神、或いは花に喩えることが多いが、向日葵を抱える彼女の、心底楽しそうで幸せそうな、溌剌とした弾けるような笑みは、天使でも女神でも花でもなく――まるで太陽のようだ、と思った。清らかな光で、全てのものを包み込むようにあたたかく照らす、眩い太陽のようだ、と。
見惚れる、というのを初めて知ったのは、正にあの時だった。どんな天使にも女神にも、大輪の花よりも、いっそ太陽そのものにも劣ることのない、無二の笑顔。その笑顔が、好きだった。ずっと見ていたい――それが出来るのなら何だってしてやれる、と思えるほど。
けれど、この世の光を全て集めたような、眩いほどに輝くあの笑顔が向けられるのは、いつだって――。
ふと、長い睫毛が震えたような気がして、ユーリスはベッド脇に置かれた椅子からそっと腰を上げた。瞼が重いのか、薄く開こうとしては力尽きるように閉じ、また僅かに開いては、ずしりとした重みに押し戻されるように落ち、また閉じてしまう。それでも懸命に目を開こうとする彼女に、
「……セシリア」
落ち着いた声音で名を呼ぶと、青白い瞼がぴくりと反応を示した。それからゆっくりと、まるで水面を揺らしながら浮かび上がるように、薄く、薄く、瞼が開いてゆく。
長い時間をかけ、睫毛を微かに震わせながら瞼が持ち上がる。汗なのか涙なのか、或いはそのどちらもが溶け合っているのか――白い頬に細い筋を引いたその下から、薄紫色の瞳が、ぼんやりとした光を帯びてあらわれた。
けれども焦点は定まっていないようで、夢と現の狭間を漂うように揺れている。まるでここではない、どこか遠いところを眺めているかのように。
「セシリア」
もう一度名を囁くと、ぼうっとしていた薄紫の瞳が、微かに動いた。見間違いかと思ってしまいそうなほど、小さく。けれども、確かに。
駆けつけたばかりの時は、高熱に魘されているせいで息はひどく乱れ、青白く染まった顔に汗の粒を滴らせていたけれど。今はその頃よりもまだ幾分、呼吸が落ち着いているように見える。とはいえ、彼女の体内にはまだ、触れれば火傷しそうな熱が残り、華奢な身体を炙り続けていることに変わりはない。このまま意識がはっきりと戻ってくれれば、薬も水も、しっかりと飲ませることが出来る。そうすれば――
「――ク、ロ……ド……?」
息が、喉の奥で止まった。吐き出すことも、吸い込むことも出来ないまま、ユーリスはその場に縫い留められたかのように、ただ立ち尽くす。鼓膜に触れたか細く掠れた声が、ぽつり、ぽつりとこぼされたその言葉が、まるで覆い被さるように、頭の中をたちまち白く塗り潰してゆく。
彼女は、何と言ったのだろう。分かっているはずなのに、分からない。理解してしまっているからこそ、呼吸も声も言葉も思考も何もかも奪われているというのに――それでも、分からない、と思ってしまう。愚かな足掻きだ。疾うに、彼女の紡いだ名は、すとんと胸の奥底に落ちているくせに。それを受け入れることを、本能が頑なに拒んでいる。
恐らく彼女のぼやけた視界では、薄闇の中から青い色だけしか認識することが出来なかったのだろう。青い瞳は、兄弟揃って父から譲り受けたものだ。ただそれだけが同じで、髪色も顔の造りも、似通っている部分はあれど、きちんと見分けがつくほどにははっきりと違う。双子ではないのだから。ただ――そう、ただ、瞳の色が同じというだけ。
故に、見間違えてしまったのだろうか。そう考え、なんと都合の良い方へ思考を働かせようとしているのだろう、と、ユーリスは胸の内で静かに自嘲をこぼす。薄紫色の瞳は虚ろで、ものを判別出来ないほど靄がかかっているのだろう。寧ろ、だからこそ――彼女のこぼした名は"見間違い"によるものではなく、きっと、そうあってほしいという"願望"なのだろうと思わずにはいられない。
何を今更、こんなにも揺さぶられているのだろう。まるで後頭部を鈍器で殴られたみたいに。息の仕方すら分からなくなるほど、惑っているのだろう。もう随分と昔から、分かっていたというのに。誰よりも一番近くて見てきたからこそ、嫌というほど思い知っていたというのに。
目に見えない糸で雁字搦めにされたような感覚に囚われ、どうすることも出来ずにただ茫然としていたユーリスの視界に、ふと、微かな動きが映り込んだ。毛布の上に力なく沈んでいた白く細い左手が、ゆるゆると、ほんの僅かに持ち上がろうとしている。浮いたか、浮いていないか定かでないほどの、小さな動き。けれどそれは、朦朧とした意識の奥底から湧き出るような、ひどく切実な動きだった。
その手をじっと見つめ、ユーリスは奥歯を噛み締める。この手を伸ばす先にいてほしいのは、この手を握ってほしいのは、今はここにいない男だ。そんなことは、身に染みるほど知っている。心を捩じられるほどに。
しかしどうしても、ゆるゆると、懸命に持ち上げようとしている青白い手を、弱りきったか細い手を、見て見ぬふりをして、放っておくことは出来なかった。
それもきっと、自分に都合の良いように歪めた言い訳だ、と、静かに苦笑をこぼしながら、ユーリスはセシリアの手を、右手でそっと包み込んだ。掌にすっぽりと収まるそれは、彼女の苦しみを滲ませたように、ひどく熱い。
暫くの間、夜の静謐な空気の中で、彼女の手を握っていた。繊細な硝子細工を扱うかのように、やさしく。時折親指の腹で、少し汗ばんだやわらかな皮膚を撫でながら。
どれくらいそうしていただろう。時間の流れが曖昧になるような静寂の中に浸っていたユーリスの耳へ、不意に控え目なノックの音が届いた。返事をせずにいると、予め指示していた通りに扉がゆっくりと開かれる。
次第に開かれゆく扉の、蝶番の軋む微かな音が、やけに大きく室内に響く。ユーリスはその音を合図にするように、包み込んでいたセシリアの手をそっと離し、毛布の上へ寝かせた。指先が離れきるその最後の瞬間まで、彼女の肌の感触を名残り惜しく思いながら。
席を離れる間際、ふと彼女の顔へ目を向けると、重たい眠気に抗えなかったのか、いつの間にか長い睫毛の影を落として、瞼は静かに沈んでいた。
「書類をお持ちしました」
眠っているセシリアを気遣い、潜めた声で用件を告げるカイルへ視線を移し、ユーリスは短く返事をする。彼の両腕には、王城の執務室に山積みにされていた書類の一部が、山ひとつをそのまま移植したかのようにどっさりと抱えられていた。それでも、思っていたよりも随分と少ないな、と内心独り言ちながら、ユーリスは部屋の中央に置かれたソファへと歩み寄る。
「それだけか? 他にもあっただろう」
「もちろんありましたが、一度に全部持ち込めば、一気に片付けようとされるに決まってますから」
そう言って苦笑をこぼし、カイルは書類の山をソファの前に据えられたテーブルの上にそっと置いた。どうやら彼なりの気遣いであるらしい。騎士団時代からの長い付き合いのせいか、すっかり見抜かれてしまっている。そういうところが、どうにもグレアムに似ている――そう思いつつ、ユーリスは脱いだ上着を背もたれにかけ、ソファに腰掛けた。
「王城の外へ持ち出すことの出来ない機密書類については、陛下からご許可をいただき、提出期限を延ばしていただきました」
「何日だ?」
「三日です」
つまり、四日後には戻ってこい、ということだ。無論、仕方ないことは承知している。他国への外遊でもない限り、宰相が長期間政務の現場から離れるというのは、許されることではない。三日――それだけでも十分、テオドールが部下の我儘を呑み、融通を効かせてくれた方だ。明日には戻ってこい、と言われる可能性の方が高いと思っていたのだから。
「残りの一部は、明日の昼頃にお持ちします」
そう言って足早に部屋を出てゆこうとするカイルの背中に礼を告げ、ユーリスは背もたれに深々と身体を預けた。そのまま何となく天井を仰ぎ、薄闇に埋もれた白色をぼうっと眺め、ゆっくりと目を閉じる。室内に微かに漂う、セシリアの寝息を確かめながら。
――ユーリス、見て! さっき、お庭のおじいさんにいただいたの!
どこか遠くで、懐かしい声が聞こえたような気がしたかと思うと、瞼の裏に広がる暗闇が一瞬にして明るく晴れ、向日葵を抱いたセシリアの、まるで太陽のような愛らしい笑顔が鮮明に蘇った。天使や女神や花なんかよりももっと美しく、全てをあたたかく照らす、眩いほどに輝く笑顔。
――ク、ロ……ド……?
刹那に蘇ったその笑顔は、しかしすぐに儚く溶けてゆき、後に残ったのはただの暗闇と、ここにはいない男を求める、あの切なく掠れた声だけだった。
