柊の花に触れずに、恋をした。

柊先輩の死を知ってから、全てを置き去りにして、時間だけが続いていた。

「亡くなった」と言われた言葉が、まだ耳の奥に残っている。意味は分かっているはずなのに、身体が追いつかない。考えようとすると、頭の中が白くなった。

部屋にこもったまま、どれくらい時間が経ったのか分からない。カーテンは閉じたままで、昼なのか夜なのかも曖昧だった。スマホを見る気にもなれず、ただ天井を見上げていた。

柊先輩が、いない。
その事実を言葉にしようとすると、息が詰まる。

胸の奥が急に狭くなって、呼吸が浅くなる。
吸っても、吸っても、空気が足りない気がした。

このまま部屋にいたら、だめだと思った。
そう判断した、というより、気づいたらドアの前に立っていた。

玄関のドアを開ける。
冷たい空気が、肺に流れ込む。
何日ぶりに部屋を出ただろう。

しばらく、その場から動けなかった。
背中を壁につけて、呼吸の回数だけを数える。
乱れた呼吸は、少しずつ、平常を取り戻していく。

呼吸が落ち着いたら、部屋に戻るつもりだった。
でも、ドアの向こうに戻った瞬間、
さっきの息苦しさがぶり返す気がして、
そのまま、少しだけ外を歩くことにした。

どこへ行くつもりもない。
目的地もない。ただ、あてもなく歩くだけ。

寮の敷地を出て、しばらくてきとうな道を歩く。
景色は見えているのに、頭には入ってこない。
まるで知らない町を歩いているみたいだった。

角を曲がったところで、人影が近づいてくる。

「……井ノ原」

初瀬先輩だった。
声をかけられた瞬間、足が止まる。
何か言わなければ、と思う。
でも、言葉が見つからない。

喉が、うまく動かなかった。

「……大丈夫か」

心配する声だった。
それが分かるのに、何も返せない。

首を縦に振ることも、横に振ることもできなかった。
視線だけが、宙に浮く。

初瀬先輩は、少しのあいだ何かを言いかけるように口を開いて、結局、何も言わずに閉じた。

「……なんかよくわかんねーけど、無理すんな」

それだけ言って、初瀬先輩は歩き去っていった。初瀬先輩はおそらく柊先輩のことを知らない。おれから言える気力も資格もない。

しばらく初瀬先輩の背中が遠ざかるのを、特になんの感情もなく見つめていた。姿が見えなくなっても、少しの間、その場で立ち尽くしていた。

そのまま歩き続けて、どれくらい経ったのか分からない。気づけば、いつの間にか寮の前に戻っていた。

入り口の前で立ち止まり、深く息を吸う。
胸の奥は、まだ重いまま。少し吐き気さえある。

ふと、ポストが目に入る。
郵便物が溜まって、数枚がポストの口からはみ出していた。

別に興味はなかった。
今は、何も見たくない。そんな余裕も気力もない。

「井ノ原くん」

声をかけられて、顔を上げる。
寮母さんだった。

「郵便物、溜まってるから……部屋に持っていってね」

頷くことしかできなかった。
言われるがままに、郵便物をまとめて抱え、部屋に戻る。

ドアを閉めた途端、腕の力が一気に抜ける。
床に、抱え込んでいた郵便物が散らばる。

自分も、その場に崩れるように倒れた。
倒れ込んだ目線の先に、1通の郵便物が目に入った。

白い封筒。
見慣れない形。
表に、丁寧な字で名前が書かれている。

――井ノ原空希様。

印刷じゃない。
人の手で書かれた文字。

なぜか、それだけが目に入った。
他の郵便物には触れず、その封筒を拾い上げる。

裏返すと、差出人の名前があった。

秋庭 若子(わかこ)――。

呼吸が止まる。
指先が、うまく動かない。

しばらく、そのまま封筒を見つめていた。
開ける理由も、開けない理由も、見つからない。

それでも、何かに縋る(すがる)思いで、
封筒の口を開いた。

中に入っていたのは、便箋(びんせん)が数枚。
柊先輩の母親からの手紙だった。
その手紙には、

先輩が亡くなるまでの経緯。
入院中、容体が急に悪化したこと。
最期は、病室で、母親がそばにいたこと。
そして亡くなる数日前、「もし自分に何かあったら、井ノ原くんに渡してほしいものがある」と言われていたこと。

文字を追うのに、かなりの時間がかかった。
途中で、視界が揺れる。それでも、読むのをやめなかった。

最後に、連絡先が書かれていた。
迷った末に書き足したような文字。

理由は分からない。
でも、かけなければならない気がした。

手紙に書かれていた電話番号にかける。
呼び出し音が、やけに長く感じられる。

「……はい」

落ち着いた声だった。

「……井ノ原です」

何かを確かめるような、間があった。

「……井ノ原くん」

名前を呼ばれただけで、胸の奥がきつく締まった。受話器の向こうで、先輩の母親はゆっくりと言葉を選ぶように話す。

柊先輩から、預かっているものがあること。
それは亡くなる少し前に、本人から直接託されたものだということ。封筒の中身については、母親自身もまだ見ていないということ。

それから少し間があって、
自分は病気がちで、長く外に出るのが難しいこと、
だからこちらから出向くことができず、
もし無理でなければ、家まで来てもらえないかと伝えられる。週末であれば助かる、という言い方だった。

「……行きます」

声が、自分のものに聞こえなかった。

電話を切ったあと、部屋は静かだった。
でも、さっきまでの空っぽとは、少しだけ違う。

何かが、まだ残っているかもしれない。
(わら)にもすがるように、そう思ってしまった。

週末、
柊先輩の実家に向かう電車の中で、
窓の外を眺める。

知らない町。
知らない景色。

新しい何かを知るのが怖い。
それでも、このまま何も知らずにいるほうが、
はるかに怖かった。

自分が何を受け取りに行くのかは、まだ分からない。
ただ、そこに行かなければ、最後に残った細い糸まで、切れてしまう気がしていた。