柊先輩と完全に言葉を交わさなくなってから、どれくらいの時間が経ったのか、正確には分からない。
廊下ですれ違っても、目は合わない。
声をかける前に、視線が逸れる。
返事を期待すること自体が、もう間違いなんじゃないかと思うようになっていた。
なぜ突き放されたのか。
考えない日はなかった。
医学部の話が悪かったのか。
「資格がない」と言ったことが、
先輩の逆鱗に触れたのか。
それとも、最近のおれの関わり方が、
知らないうちに重くなっていたのか。
いくら考えても、答えは出ない。
どれもありそうで、どれも決定的じゃない。
それでも、学内で柊先輩の姿を見かけるうちは、どこかで安心していた。同じ大学にいる。それだけで、勝手に「まだ終わっていない」と思っていた。
けれど、ある時期から、その姿すら見なくなった。
三〇三号室の前を通っても、気配がない。
夜、ベランダの灯りがつかない。
生活の音が、完全に消えている。
もう関係ない。
関わってはいけない。
そう言い聞かせながらも、別の考えが消えなかった。
また体調を崩したんじゃないか。
無理をして、誰にも言わずに倒れているんじゃないか。
その不安を、捨てきれないまま、
二ヶ月ほどが過ぎた。
講義が少し早く終わった日。
夕方前に寮へ戻ると、別館の廊下がいつもより騒がしかった。
三〇三号室のドアが開いている。
中から、聞き慣れない音がする。
ビニールが擦れる音。
布を引き抜く音。
複数の足音。
何が起きているのか、分からない。
ただ、胸の奥がざわつく。
廊下の角で立ち止まり、しばらくその光景を見ていた。部屋の中では、清掃員が忙しなく動いている。黒いゴミ袋が次々と積まれ、ベッドの寝具が外されていく。
現実感がなくて、頭が追いつかない。
そのとき、共同リビングに誰かが入っていくのが見えた。反射的に、柊先輩だと思った。
足が勝手に動く。
リビングに入ると、そこにいたのは初瀬先輩だった。
一瞬、言葉に詰まる。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「……初瀬先輩」
「ああ、井ノ原」
「……あの、柊先輩、最近見かけなくて」
声が、思ったよりも硬い。
「三〇三、今、なんか人が入ってて……」
初瀬先輩は一瞬だけ黙って、こちらを見る。
「……柊のことか」
その間が、妙に長く感じられた。
「柊、もう大学辞めてるぞ」
一瞬、言葉の意味が繋がらない。
「……辞めた?」
「一ヶ月くらい前だな、何も言わずに、急に」
頭の中が、白くなる。
「体調でも崩したのかと思ってさ。連絡しても、全然返事ねえし」
初瀬先輩の声は、淡々としていた。
だからこそ、現実として突き刺さる。
「お前ら仲良かっただろ。てっきり、知ってるもんだと思ってた」
仲良かった。
その言葉が、今は重い。
「……そう、なんですね」
それ以上、言葉が続かなかった。
曖昧に頷いて、リビングを出る。
廊下に戻ると、三〇三号室の前にゴミ袋が積まれている。黒いビニールの口が、少しだけ開いていた。
そこから、見覚えのある紙箱が覗いている。
タバコの箱だった。
柊先輩が、いつも吸っていた銘柄。
それを見た瞬間、
頭の中が勝手に動き出す。
ベランダの夜風。
煙の匂い。
旅行の夜。
笑った横顔。
短い「ごめん」。
思い出が、順番もなく押し寄せる。
――会いたい。
前の関係に戻れなくてもいい。
突き放された理由が分からなくてもいい。
でも、このまま何も知らないまま終わるのは、無理だった。
自分の部屋に戻り、スマホを握る。
柊先輩の番号を押す。
呼び出し音。
切れる。
もう一度。
同じ結果。
画面を見つめたまま、指が止まる。
そこで、思い出す。
水田さんから届いた、あのLINE。
責められるのが怖くて、
ずっと見ないようにしていたやり取り。
確か、病院名が書いてあった。
トーク履歴を開く指が震える。
スクロールするたび、過去の言葉が胸に引っかかる。
病院名を見つけた瞬間、息が漏れた。
桜峰総合医療センター。
それしか、手がかりがない。
その日のうちに寮を出た。
電車とバスを乗り継いで、二時間。
車窓の景色は、ほとんど覚えていない。
頭の中で、病院の名前だけを繰り返していた。
病院に着くと、受付へ向かう。
人の流れが、やけに遅く感じる。
「……すみません」
声が、震える。
「秋庭柊という人が、入院していないか、教えてください」
受付の人は、怪訝な顔をしながらこちらをみる。
「申し訳ありません。個人情報のため――」
「親戚です」
咄嗟に嘘が出た。
そんなことを考えている余裕はなかった。
「入院しているかどうかだけでも」
声が、少し大きくなる。
「本当に、大事な用があって」
受付の人は困った顔をして、同じ言葉を繰り返す。
「お答えできません」
「……お願いします」
自分でも驚くほど、必死だった。
何度も食い下がる。
周囲の視線が集まる。
それでも、答えは変わらない。
最後には、声が出なくなっていた。
受付から離れ、廊下を歩く。
足元が、ふらつく。
どうすればいい。
何をすれば、会える。
病院の出口が見えてきたところで、
スマホを取り出す。水田さんの連絡先。
連絡をするのが怖かった。
でも、それ以上に、会いたい気持ちが強い。
呼び出し音が鳴る。出ないだろうと思った、その直後に、思いがけず電話がつながった。
「あっあの……井ノ原です」
声が、情けないほど震えている。
「柊先輩が突然いなくなって、大学も辞めてて、どこにいるのか、分からなくて」
言葉が、途切れ途切れになる。
「もう一度、会いたいんです。どこにいるか教えてください」
電話の向こうで、沈黙が落ちる。
「……あの」
水田さんの声は、落ち着いていた。
「柊は、数日前に、亡くなりました」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え」
「前に発症した病気が、合併症を起こして、ここ数週間で、急激に体調が崩れて……間に合いませんでした」
言葉が、頭に入らない。
遠くで聞いているみたいだった。
何も返せない。
謝ることも、聞き返すこともできない。
あまりの動揺に、
返事をしないまま電話を切ってしまった。
病院の前で、呆然と立ち尽くす。
人の流れだけが、忙しなく動いている。
涙は出なかった。
驚きすぎて、身体が反応しない。
その後、どうやって寮に戻ったのか、覚えていない。気づいたら、自分の部屋にいた。ドアを閉めた瞬間、現実が追いつく。
柊先輩は、もういない。
もう、会うことはできない。
身体の力が一気に抜けて、うなだれるように床に座り込む。呼吸が、うまくできない。
「たすけて」を見たとき、動けなかった。
突き放されたあと、追いかけなかった。
勝手に遠慮して、勝手に諦めた。
全部、自分の選択だ。
顔が濡れているのに気づいて、手で拭う。
それでも、涙は止まらない。
声が途切れて、身体が折れる。
「……なんで」
それしか、言えなかった。
問いかける相手は、もういない。
返ってくるはずの言葉も、理由も、どこにもない。
部屋の中は、さっきと何も変わっていない。机も、ベッドも、散らかったままの床も、そのままだ。それなのに、決定的に違うことがひとつだけあった。
柊先輩は、もういない。
頭では分かっているのに、身体が追いつかない。次に何をすればいいのかも、分からない。泣き疲れて、息が荒いまま、ただ床に座り込んでいた。
時間だけが過ぎていく。
スマホの画面は暗くなり、部屋の外では誰かの足音がする。いつも通りの夜が、何事もなかったみたいに続いている。
それが、どうしようもなく残酷だった。
助けを求められた夜。
突き放された言葉。
追いかけなかった選択。
全部が、もうやり直せない。
後悔しても、謝っても、泣いても、
この先、柊先輩が振り向くことはない。
それでも明日は来る。
柊先輩のいない日常を、
おれはこれから、生きていかなければならない。
その事実だけが、
夜の静けさの中で、
容赦なくはっきりと残った。
廊下ですれ違っても、目は合わない。
声をかける前に、視線が逸れる。
返事を期待すること自体が、もう間違いなんじゃないかと思うようになっていた。
なぜ突き放されたのか。
考えない日はなかった。
医学部の話が悪かったのか。
「資格がない」と言ったことが、
先輩の逆鱗に触れたのか。
それとも、最近のおれの関わり方が、
知らないうちに重くなっていたのか。
いくら考えても、答えは出ない。
どれもありそうで、どれも決定的じゃない。
それでも、学内で柊先輩の姿を見かけるうちは、どこかで安心していた。同じ大学にいる。それだけで、勝手に「まだ終わっていない」と思っていた。
けれど、ある時期から、その姿すら見なくなった。
三〇三号室の前を通っても、気配がない。
夜、ベランダの灯りがつかない。
生活の音が、完全に消えている。
もう関係ない。
関わってはいけない。
そう言い聞かせながらも、別の考えが消えなかった。
また体調を崩したんじゃないか。
無理をして、誰にも言わずに倒れているんじゃないか。
その不安を、捨てきれないまま、
二ヶ月ほどが過ぎた。
講義が少し早く終わった日。
夕方前に寮へ戻ると、別館の廊下がいつもより騒がしかった。
三〇三号室のドアが開いている。
中から、聞き慣れない音がする。
ビニールが擦れる音。
布を引き抜く音。
複数の足音。
何が起きているのか、分からない。
ただ、胸の奥がざわつく。
廊下の角で立ち止まり、しばらくその光景を見ていた。部屋の中では、清掃員が忙しなく動いている。黒いゴミ袋が次々と積まれ、ベッドの寝具が外されていく。
現実感がなくて、頭が追いつかない。
そのとき、共同リビングに誰かが入っていくのが見えた。反射的に、柊先輩だと思った。
足が勝手に動く。
リビングに入ると、そこにいたのは初瀬先輩だった。
一瞬、言葉に詰まる。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「……初瀬先輩」
「ああ、井ノ原」
「……あの、柊先輩、最近見かけなくて」
声が、思ったよりも硬い。
「三〇三、今、なんか人が入ってて……」
初瀬先輩は一瞬だけ黙って、こちらを見る。
「……柊のことか」
その間が、妙に長く感じられた。
「柊、もう大学辞めてるぞ」
一瞬、言葉の意味が繋がらない。
「……辞めた?」
「一ヶ月くらい前だな、何も言わずに、急に」
頭の中が、白くなる。
「体調でも崩したのかと思ってさ。連絡しても、全然返事ねえし」
初瀬先輩の声は、淡々としていた。
だからこそ、現実として突き刺さる。
「お前ら仲良かっただろ。てっきり、知ってるもんだと思ってた」
仲良かった。
その言葉が、今は重い。
「……そう、なんですね」
それ以上、言葉が続かなかった。
曖昧に頷いて、リビングを出る。
廊下に戻ると、三〇三号室の前にゴミ袋が積まれている。黒いビニールの口が、少しだけ開いていた。
そこから、見覚えのある紙箱が覗いている。
タバコの箱だった。
柊先輩が、いつも吸っていた銘柄。
それを見た瞬間、
頭の中が勝手に動き出す。
ベランダの夜風。
煙の匂い。
旅行の夜。
笑った横顔。
短い「ごめん」。
思い出が、順番もなく押し寄せる。
――会いたい。
前の関係に戻れなくてもいい。
突き放された理由が分からなくてもいい。
でも、このまま何も知らないまま終わるのは、無理だった。
自分の部屋に戻り、スマホを握る。
柊先輩の番号を押す。
呼び出し音。
切れる。
もう一度。
同じ結果。
画面を見つめたまま、指が止まる。
そこで、思い出す。
水田さんから届いた、あのLINE。
責められるのが怖くて、
ずっと見ないようにしていたやり取り。
確か、病院名が書いてあった。
トーク履歴を開く指が震える。
スクロールするたび、過去の言葉が胸に引っかかる。
病院名を見つけた瞬間、息が漏れた。
桜峰総合医療センター。
それしか、手がかりがない。
その日のうちに寮を出た。
電車とバスを乗り継いで、二時間。
車窓の景色は、ほとんど覚えていない。
頭の中で、病院の名前だけを繰り返していた。
病院に着くと、受付へ向かう。
人の流れが、やけに遅く感じる。
「……すみません」
声が、震える。
「秋庭柊という人が、入院していないか、教えてください」
受付の人は、怪訝な顔をしながらこちらをみる。
「申し訳ありません。個人情報のため――」
「親戚です」
咄嗟に嘘が出た。
そんなことを考えている余裕はなかった。
「入院しているかどうかだけでも」
声が、少し大きくなる。
「本当に、大事な用があって」
受付の人は困った顔をして、同じ言葉を繰り返す。
「お答えできません」
「……お願いします」
自分でも驚くほど、必死だった。
何度も食い下がる。
周囲の視線が集まる。
それでも、答えは変わらない。
最後には、声が出なくなっていた。
受付から離れ、廊下を歩く。
足元が、ふらつく。
どうすればいい。
何をすれば、会える。
病院の出口が見えてきたところで、
スマホを取り出す。水田さんの連絡先。
連絡をするのが怖かった。
でも、それ以上に、会いたい気持ちが強い。
呼び出し音が鳴る。出ないだろうと思った、その直後に、思いがけず電話がつながった。
「あっあの……井ノ原です」
声が、情けないほど震えている。
「柊先輩が突然いなくなって、大学も辞めてて、どこにいるのか、分からなくて」
言葉が、途切れ途切れになる。
「もう一度、会いたいんです。どこにいるか教えてください」
電話の向こうで、沈黙が落ちる。
「……あの」
水田さんの声は、落ち着いていた。
「柊は、数日前に、亡くなりました」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え」
「前に発症した病気が、合併症を起こして、ここ数週間で、急激に体調が崩れて……間に合いませんでした」
言葉が、頭に入らない。
遠くで聞いているみたいだった。
何も返せない。
謝ることも、聞き返すこともできない。
あまりの動揺に、
返事をしないまま電話を切ってしまった。
病院の前で、呆然と立ち尽くす。
人の流れだけが、忙しなく動いている。
涙は出なかった。
驚きすぎて、身体が反応しない。
その後、どうやって寮に戻ったのか、覚えていない。気づいたら、自分の部屋にいた。ドアを閉めた瞬間、現実が追いつく。
柊先輩は、もういない。
もう、会うことはできない。
身体の力が一気に抜けて、うなだれるように床に座り込む。呼吸が、うまくできない。
「たすけて」を見たとき、動けなかった。
突き放されたあと、追いかけなかった。
勝手に遠慮して、勝手に諦めた。
全部、自分の選択だ。
顔が濡れているのに気づいて、手で拭う。
それでも、涙は止まらない。
声が途切れて、身体が折れる。
「……なんで」
それしか、言えなかった。
問いかける相手は、もういない。
返ってくるはずの言葉も、理由も、どこにもない。
部屋の中は、さっきと何も変わっていない。机も、ベッドも、散らかったままの床も、そのままだ。それなのに、決定的に違うことがひとつだけあった。
柊先輩は、もういない。
頭では分かっているのに、身体が追いつかない。次に何をすればいいのかも、分からない。泣き疲れて、息が荒いまま、ただ床に座り込んでいた。
時間だけが過ぎていく。
スマホの画面は暗くなり、部屋の外では誰かの足音がする。いつも通りの夜が、何事もなかったみたいに続いている。
それが、どうしようもなく残酷だった。
助けを求められた夜。
突き放された言葉。
追いかけなかった選択。
全部が、もうやり直せない。
後悔しても、謝っても、泣いても、
この先、柊先輩が振り向くことはない。
それでも明日は来る。
柊先輩のいない日常を、
おれはこれから、生きていかなければならない。
その事実だけが、
夜の静けさの中で、
容赦なくはっきりと残った。
