柊の花に触れずに、恋をした。

あの夜、唇を交わしてから、
世界の見え方が変わった。

朝起きても、講義中でも、実習の合間でも、
気づくと柊先輩のことを考えている。

昨日の声。
指の温度。
唇が触れたときの、あの一瞬の迷い。

会っていない時間のほうが、長いはずなのに、頭の中ではいつも一緒にいる。

今すぐ会いたい。
顔を見たい。
それだけでいい。

その気持ちを、どうにか押し殺しながら日々を過ごすようになった。

ある日の夜。
いつものように、柊先輩の部屋で一緒にご飯を食べていた。この日常が、「いつものように」と言える現実がこの上なくうれしい。

今日の先輩は、どこかぎこちない。
会話が途切れるたび、何かを言いかけてはやめる。

食べ終わって、弁当の容器を片づけたあと、
柊先輩は一度だけ咳払いをした。

「……ちょっと、待ってろ」

そう言って、部屋の隅に置いてあった紙袋を手に取る。一度中を覗いてから、少しだけ迷うような間があって、こちらに差し出される。

「これ、いつもアーモンドチョコ、買ってきてくれるだろ……その、お礼」

言い終わる前に、視線を逸らす。

ケーキだった。
白いクリームに、控えめな飾り。
息を吸うタイミングを、少しだけ間違えた。

「……可愛い」

思わず、口から漏れた。

「は?」
「いえ、なんでもないです」

慌てて取り繕ったが、心臓がうるさい。

先輩は引き出しからフォークを二本取り出して、無言のまま、一本をこちらに差し出した。先輩は向かいに座ったまま、距離だけが自然と縮まる。

しばらく、フォークが皿に触れる音だけが続いた。
「甘すぎないですね」とか、
「思ったより軽いな」とか、
取り留めのない言葉を交わしながら。

その何でもない時間が、
どうしようもなく好きだった。

フォークを置いた拍子に、視線がずれて、先輩の横顔が近くにあることに気づく。 笑っているわけでもないのに、口元がやけにやわらかく見えた。

さっきから胸の内側に溜まっていたものが、理由もなくせり上がってくる。このままだと、抑えがきかなくなる気がした。そう思った瞬間、おれは自分から一歩、距離を詰めていた。

唇が、触れる。

自分から踏み込むとは、考えもしなかった。
それでも、引き返す選択肢は残らなかった。

先輩の指が、少し迷うみたいに背中をなぞって、それから静かに回ってくる。強く引き寄せられるわけじゃない。でも、離そうとしていないことだけは、はっきり伝わった。

近い距離のまま、呼吸が重なる。座ったままでは落ち着かなくて、どちらからともなく視線が逸れた。

「……こっち」

小さくそう言って、先輩がベッドのほうへ身体の向きを変える。 おれは、その背中を見送るでもなく、黙ってあとに続いた。

シーツに沈む感覚。
身体の熱が、重なっていく。

名前を呼ばれないまま、
呼吸だけが、確かめ合うみたいに近づく。

触れ方は、慎重だった。
壊さないように、でも離れないように。

先輩の額が、おれの肩に触れる。

「……大丈夫か」

低い声。

「はい」

それだけで、十分だった。

言葉よりも、体温のほうが正直で、
不安より、安心が勝っていく。

境界が曖昧になる。
どこまでが自分で、どこからが相手なのか、分からなくなる。時間の感覚も、なくなっていた。

静けさが戻ってから、
しばらく、そのまま動けなかった。

先輩の腕が、軽くおれを包む。

「……無理、してないか」
「無理してないです」

嘘じゃない。

言葉にしなくても、
互いに同じ気持ちであることは、確かだった。
それ以上、何かを確認する必要はなかった。
ただ一緒にいることが、すでに答えみたいに感じられた。

自分の部屋に戻っても、
胸の奥に残った感覚が消えることはなかった。眠っても、翌朝になっても、ふとした拍子に、その距離を思い出す。

それからだったと思う。
気づけば、おれの中で全ての基準が変わっていった。

予定を決めるとき、最初に浮かぶのは先輩の顔。
体調が悪そうな日は、すぐに駆けつける。

いつのまにか自分のことは、後回しになっていった。
でも、それが正しい気がしていた。

あのとき助けられなかった分、
今度こそ、そばにいたかった。

その気持ちは、決意というより、息をするのと同じくらい自然に、おれの行動を決めていった。先輩の生活に合わせることも、予定を後ろにずらすことも、迷う理由にはならなかった。

ただ、その一方で。
柊先輩との距離を、前よりも意識する瞬間が、
少しずつ増えていった。

何かを拒まれたわけじゃない。
声を荒げられたことも、態度が変わったわけでもない。それでも、言葉をかけたときに返ってくる間や、視線が合うまでの時間に、微かなズレを感じることがあった。

気のせいだと思えないほど大きくはない。
でも、無視できるほど小さくもない。

もっとも、それが先輩の変化なのか、
それとも――おれの受け取り方が変わっただけなのかは、分からなかった。

唇を交わしてから、先輩の言葉一つ一つが、前よりも近くで聞こえる。そのぶん、些細な間や沈黙が、意味を持ってしまう。

考えすぎかもしれない。
そう思えば、やり過ごせる程度の違和感だった。

だから、その理由を探そうとはしなかった。
探したところで、はっきりした答えが出る気もしなかった。

その違和感をやり過ごすように、
その日も柊先輩のそばにいた。

弁当のふたを閉じる音が、やけに大きく響く。

先輩は黙っている。
そうしたいわけじゃないのに、視線が合わない。

「……おれ」

沈黙に耐えきれず、口を開いた。

「前に、話しましたよね、医学部、行きたかったって」

柊先輩は、
箸を動かしたまま、小さく頷く。

「医者に、なりたかった」

あらためて口にすると、
胸の奥に、ずっと置きっぱなしだったものが動く。

「でも、もう、いいかなって思ってて」

“諦めた”というより、そうするしかないと、言い聞かせている感覚だった。

「今さらだし、お金も時間もないし」

それは前にも言った理由だ。

「それに……おれにはその資格、ない気がして」

先輩の手が、止まる。

「助けられなかったんです。あのとき」

声が、少し低くなる。

「だから、そんな仕事、目指していいのか分かんなくて。ちゃんと就活して普通に妥協したほうが――」

言葉が、最後まで行き着く前に、空気が変わった。

それから、少し間があった。
柊先輩は、箸を置いたまま、しばらく何も言わない。

怒っているようには見えなかった。
むしろ、考える時間を自分に与えているみたいだった。

「……お前さ」

低い声。
それだけで、背筋が伸びる。

柊先輩は、ようやくこちらを見る。
でも、その目は、どこか距離を測っている。

「この際、正直に言うけど」

前置きがあったことが、逆に怖い。

「お前といる時間は、悪くなかった」

一瞬、胸が揺れる。

「助けられたとことも何度もあった」

感謝の言葉なのに、
続きがあることが分かってしまう。

「……でも」

小さく、息を吐く。

「ここまでだ」

はっきりした声だった。
迷いがない。

「これ以上、お前と一緒にいるつもりはない」

理由は語られない。
説明もない。ただ、決定だけが置かれる。

「……先輩?」

呼びかけると、視線が逸れる。

「お前が悪いとか、そういう話じゃない」

それだけは、はっきり否定する。

「でも、もう関わらない」

言葉が、静かに切られる。

「今日まででいい」

“今日は”じゃない。
“ここまで”だと、分かる言い方。

「今までありがとうな」

それで、終わりだった。
それ以上、続く言葉はない。
引き止める余地も、問い返す余地も残されていない。
おれは、何も言えなかった。

正しい言葉が見つからなかったのか、そもそも、言葉を許されていなかったのか、分からない。柊先輩は、もうこちらを見ていなかった。

「……もう行け」

低い声。
命令に近い。

「これで終わりにしよう」

そう言って、ドアのほうへ(あご)を向ける。
話し合う選択肢はもうすでになかった。

「先輩、待って――」

言い終わる前に、肩を掴まれる。強くはない。
でも、抵抗を許さない力だった。

「悪いけど、もう止められない」

それが、捨て台詞だった。次の瞬間、背中を押されて、廊下に出される。ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。

鍵の音は、しなかった。
それでも、もう戻れないことだけは分かった。

廊下に、一人で立ち尽くす。手の中に、箸が残っていた。いつから握っていたのか分からない。指が開かない。何かを掴んでいないと、立っていられない気がした。

頭の中が、静かだった。
怒られたわけでもない。
理由も、説明もない。

最近、少しだけ柊先輩との間に距離は感じはじめていた。でも、いま起きたのは、そういうものじゃない。
ただ、切られた。

部屋に戻っても、照明を点けられなかった。ベッドに座って、手の中の箸を見下ろす。それが現実だと認めたくなくて、握ったまま、時間だけが過ぎた。

翌日から、先輩とは明確に距離ができた。

廊下ですれ違っても、視線は合わない。
声をかけても、返事は最低限。

同じ空間にいても、最初からいないみたいに扱われる。
前と同じ距離に戻ったわけじゃない。
もう、戻る場所がなくなった。

あの夜から、それが動かない事実として残った。