目が覚めた瞬間、息を吸うのが少しだけ遅れた。天井が見慣れない位置にあって、昨夜の続きを探すみたいに、視線がさまよう。
それから、隣にある体温に気づいた。
柊先輩は、まだ眠っていた。
横向きで、布団を肩口まで引き上げている。寝顔は、起きているときよりもずっと無防備で、呼吸のたびに胸元が静かに上下していた。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
昨夜のことを思い出す前に、柊先輩に対する気持ちに名前がつきそうになる。
――これは、なんだ。
はっきりした言葉を当てようとすると、どこかでブレーキがかかる。名前をつけた瞬間、何かが壊れる気がしていた。でも、もう「何もないふり」を続けるのも、無理だった。
抑えたい。
でも、抑えきれない。
その中間に、ずっと立たされている感じがする。
そっと身体を起こす。
布団が擦れる音に気を遣いながら、足を床につけたとき、柊先輩が小さく身じろぎした。
「……もう起きたのか」
声は低くて、まだ眠気が残っている。
「はい。先輩は、もう少し寝ててください」
「ん……」
それだけ言って、また目を閉じる。
その様子が妙に可笑しくて、
気づいたら小さく笑っていた。
洗面所で顔を洗っても、胸の熱は引かなかった。鏡に映る自分が、少し落ち着かない顔をしている。
部屋を出る頃には、柊先輩も起きてきた。
顔色は悪くない。でも、動きがいつもよりゆっくりしているのが分かる。
「無理しないでくださいね」
「大丈夫だって」
そう言いながら、
先輩は一度だけ、おれの顔を見た。
「……お前のほうこそ、ちゃんと寝れたか」
心配してるのか、
確認してるだけなのか、分からない。
「はい」
嘘ではなかった。
ただ、落ち着いていたかと言われると、違う。
二人で大学へ向かう道。
並んで歩く距離が、昨日までと同じはずなのに、やけに近く感じる。歩幅を合わせていることに、途中で気づいた。講義棟の前で別れようとしたとき、柊先輩は一瞬だけ足を止めた。
「……今日は、無理すんな」
そう言いながら、軽く額を押さえる。
すぐに手を下ろしたが、その動きが気になった。
「先輩、調子悪いんじゃ」
「いや、ちょっと寝起きなだけだ」
そう言い切るわりに、声に張りがない。
視線も、いつもより少しだけ落ち着かない。
「講義、途中で抜けてもいいですから、ほんとに、無理しないでください」
おれの言い方が、
少し強くなったのが自分でも分かった。
柊先輩は一瞬だけこちらを見て、
それから、いつもの調子で口角を上げる。
「心配性だな」
軽く流すみたいな言い方だった。
でも、その笑い方が、どこか作ったみたいに見えた。
「……先輩もです」
そう返すと、柊先輩は小さく頷いて背を向けた。歩き出す背中を見送りながら、胸の奥に、嫌な引っかかりが残る。
体調のことを言っているはずなのに、それだけじゃない気がしていた。
その日一日、頭のどこかに柊先輩がいた。実習中も、説明を聞きながら、ふと朝の寝顔を思い出してしまう。
今日は大丈夫だろうか。
無理していないだろうか。
そういう日に限って、実習は長引いた。
時計を見るたび、落ち着かなくなる。
寮に向かう途中、無意識に足が速くなっていた。途中でコンビニに寄り、アーモンドチョコと弁当を手に取る。
理由は考えなかった。
気づいたら、そうしていた。
寮に戻ると、自分の部屋には寄らず303号室へ向かう。ノックしても、返事はない。
嫌な考えが一瞬、頭をよぎる。
ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
中を覗いて、息を詰める。
「……いない」
そのまま廊下に出たとき、共同のリビングから笑い声が聞こえた。駆け込むと、そこに柊先輩がいた。初瀬先輩と下田先輩と、楽しそうに話している。
姿を見た瞬間、胸の奥が一気に軽くなる。
安心したのと同時に、思わず笑ってしまった。
そのまま近づいて、考える前に身体が動いていた。椅子に座っている柊先輩の後ろから、ぎゅっと抱きつく。一瞬、空気が止まった。
「え、なに、お前ら、そんな仲良かったっけ」
下田先輩の声で、我に返る。
すぐに手を離す。
「す、すみません」
心臓が、やけにうるさい。
柊先輩は、特に動揺した様子もなく肩をすくめた。
「からかわれてただけだ」
軽い言い方だった。
その一言で、場の空気が戻る。
少し話してから解散になる。
部屋へ戻る途中、柊先輩が言った。
「初瀬と下田には最近、寮にいなかった理由、ちゃんと話した」
「……病気のことも言ったんですか」
「言った。誤魔化すの、あんまり得意じゃないし」
それを聞いて、胸の奥が少しだけ締まる。
この人は、逃げない人だ。
部屋に戻って、一緒に飯を食べる。
言葉は少なかったけれど、沈黙を壊したいとは思わなかった。
箸を置いたあと、少し間が空く。
柊先輩は、空になった弁当の容器を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……タバコ、一本、吸いたいな」
言い切らない言い方だった。
まるで、自分に許可を出しているみたいに聞こえる。
「大丈夫なんですか」
思ったより、声が早く出た。
自分でも、心配しすぎかもしれないと思いながら、それでも聞かずにいられなかった。
「一本だけだ」
「久しぶりだし」
柊先輩はそう言って、少しだけ肩をすくめる。
「無理そうだったら、やめる」
その一言で、強く止める理由がなくなった。
おれは、短く頷く。
「……ベランダいきますか?」
「そうだな」
ベランダに出ると、夜の空気がひんやりしていた。柊先輩がタバコを取り出して、火をつける。煙が、ゆっくりと上に流れていく。
その様子を見ているうちに、胸の奥がざわついた。
旅行の夜のことが、ふいに重なる。
あのときと同じ匂い。同じ距離。
「……おれも、一本、吸ってみたいです」
自分でも、なんでそう言ったのか分からなかった。柊先輩は一瞬だけこちらを見て、それから小さく笑う。
「前も言ってたな」
そう言って、もう一本取り出す。
「無理すんなよ」
頷いて、受け取る。
火を近づけられて、ぎこちなく吸い込んだ瞬間、喉が焼ける。
「っ……」
思い切りむせてしまう。
「だから言っただろ」
柊先輩が笑う。
責める感じじゃなくて、
少し安心したみたいな顔だった。
「……すみません」
咳き込みながら言うと、また笑われた。
その笑顔を見ていると、不思議と心配よりも、嬉しさが勝ってしまう。
煙が落ち着いて、ベランダに静けさが戻る。
夜風に混じったタバコの匂いが、まだ薄く残っていた。
柊先輩が、じっとこちらを見る。
さっきまで笑っていたはずなのに、
その目はもう違っていた。
「お前がいると……不思議と笑ってることが多い」
低い声だった。
冗談でも、軽い言葉でもない。
その言い方に、胸の奥が音を立てて縮む。
「おれもです」
言葉を選ぶ余裕はなかった。
「先輩といるときが、一番、自分らしい気がします」
言い切ったあと、少しだけ怖くなる。
これ以上踏み込んだら、戻れない気がして。
でも、柊先輩は目を逸らさなかった。
むしろ、距離が縮まる。
逃げる理由が、見つからない。
息が近づく。
タバコの匂いと、体温が混ざる。
触れる前に、一拍あった。
それでも、先に動いたのは、
どちらだったか分からない。
唇が重なる。
一瞬で終わると思っていた。
でも、離れなかった。
触れている時間が、やけに長く感じる。呼吸が乱れて、どこに力を入れればいいのか分からなくなる。
呼吸が整わないまま、近い距離が続いた。
息が混じる感覚に、引き返せなくなっていた。
考える暇はなかった。
ただ、離れたくないという感覚だけが、
はっきりしていた。
やっと唇が離れたとき、
柊先輩が、少しだけ視線を逸らす。
「……タバコ臭かったよな、ごめん」
照れを隠すみたいな言い方だった。
「いえ」
声が思ったより小さくなる。
「……おれ、キス、下手ですよね」
自分で言ってから、顔が熱くなる。
柊先輩は、一瞬だけ黙って、
それから、短く笑った。
「そんなことない」
不器用な言い方だった。
ただ、その一言でもう今までと同じじゃいられないことだけは、わかった。
唇が触れたあとも、すぐには離れられない。
どちらからともなく距離を取る理由が見つからなくて、ただ近いまま、乱れた呼吸を整えていた。
夜風が頬に当たって、
さっきまでの熱が少しだけ冷える。
柊先輩の手が、行き場を探すみたいに一度だけ迷って、それから、そっとおれの背中に触れた。抱き寄せるほど強くはない。でも、離すつもりもない触れ方だった。
その距離が、妙に落ち着く。
さっきまで必死に抑えていた気持ちが、もう誤魔化せなくなっていることだけは分かった。
柊先輩が、何も言わずに視線を逸らす。おれも、それ以上は何も言わなかった。それでも、同じ場所に立ったまま、同じ時間をやり過ごしている。
確かに、惹かれ合っていた。
そうとしか言えない状態のまま、
夜は、静かに更けていった。
それから、隣にある体温に気づいた。
柊先輩は、まだ眠っていた。
横向きで、布団を肩口まで引き上げている。寝顔は、起きているときよりもずっと無防備で、呼吸のたびに胸元が静かに上下していた。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
昨夜のことを思い出す前に、柊先輩に対する気持ちに名前がつきそうになる。
――これは、なんだ。
はっきりした言葉を当てようとすると、どこかでブレーキがかかる。名前をつけた瞬間、何かが壊れる気がしていた。でも、もう「何もないふり」を続けるのも、無理だった。
抑えたい。
でも、抑えきれない。
その中間に、ずっと立たされている感じがする。
そっと身体を起こす。
布団が擦れる音に気を遣いながら、足を床につけたとき、柊先輩が小さく身じろぎした。
「……もう起きたのか」
声は低くて、まだ眠気が残っている。
「はい。先輩は、もう少し寝ててください」
「ん……」
それだけ言って、また目を閉じる。
その様子が妙に可笑しくて、
気づいたら小さく笑っていた。
洗面所で顔を洗っても、胸の熱は引かなかった。鏡に映る自分が、少し落ち着かない顔をしている。
部屋を出る頃には、柊先輩も起きてきた。
顔色は悪くない。でも、動きがいつもよりゆっくりしているのが分かる。
「無理しないでくださいね」
「大丈夫だって」
そう言いながら、
先輩は一度だけ、おれの顔を見た。
「……お前のほうこそ、ちゃんと寝れたか」
心配してるのか、
確認してるだけなのか、分からない。
「はい」
嘘ではなかった。
ただ、落ち着いていたかと言われると、違う。
二人で大学へ向かう道。
並んで歩く距離が、昨日までと同じはずなのに、やけに近く感じる。歩幅を合わせていることに、途中で気づいた。講義棟の前で別れようとしたとき、柊先輩は一瞬だけ足を止めた。
「……今日は、無理すんな」
そう言いながら、軽く額を押さえる。
すぐに手を下ろしたが、その動きが気になった。
「先輩、調子悪いんじゃ」
「いや、ちょっと寝起きなだけだ」
そう言い切るわりに、声に張りがない。
視線も、いつもより少しだけ落ち着かない。
「講義、途中で抜けてもいいですから、ほんとに、無理しないでください」
おれの言い方が、
少し強くなったのが自分でも分かった。
柊先輩は一瞬だけこちらを見て、
それから、いつもの調子で口角を上げる。
「心配性だな」
軽く流すみたいな言い方だった。
でも、その笑い方が、どこか作ったみたいに見えた。
「……先輩もです」
そう返すと、柊先輩は小さく頷いて背を向けた。歩き出す背中を見送りながら、胸の奥に、嫌な引っかかりが残る。
体調のことを言っているはずなのに、それだけじゃない気がしていた。
その日一日、頭のどこかに柊先輩がいた。実習中も、説明を聞きながら、ふと朝の寝顔を思い出してしまう。
今日は大丈夫だろうか。
無理していないだろうか。
そういう日に限って、実習は長引いた。
時計を見るたび、落ち着かなくなる。
寮に向かう途中、無意識に足が速くなっていた。途中でコンビニに寄り、アーモンドチョコと弁当を手に取る。
理由は考えなかった。
気づいたら、そうしていた。
寮に戻ると、自分の部屋には寄らず303号室へ向かう。ノックしても、返事はない。
嫌な考えが一瞬、頭をよぎる。
ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
中を覗いて、息を詰める。
「……いない」
そのまま廊下に出たとき、共同のリビングから笑い声が聞こえた。駆け込むと、そこに柊先輩がいた。初瀬先輩と下田先輩と、楽しそうに話している。
姿を見た瞬間、胸の奥が一気に軽くなる。
安心したのと同時に、思わず笑ってしまった。
そのまま近づいて、考える前に身体が動いていた。椅子に座っている柊先輩の後ろから、ぎゅっと抱きつく。一瞬、空気が止まった。
「え、なに、お前ら、そんな仲良かったっけ」
下田先輩の声で、我に返る。
すぐに手を離す。
「す、すみません」
心臓が、やけにうるさい。
柊先輩は、特に動揺した様子もなく肩をすくめた。
「からかわれてただけだ」
軽い言い方だった。
その一言で、場の空気が戻る。
少し話してから解散になる。
部屋へ戻る途中、柊先輩が言った。
「初瀬と下田には最近、寮にいなかった理由、ちゃんと話した」
「……病気のことも言ったんですか」
「言った。誤魔化すの、あんまり得意じゃないし」
それを聞いて、胸の奥が少しだけ締まる。
この人は、逃げない人だ。
部屋に戻って、一緒に飯を食べる。
言葉は少なかったけれど、沈黙を壊したいとは思わなかった。
箸を置いたあと、少し間が空く。
柊先輩は、空になった弁当の容器を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……タバコ、一本、吸いたいな」
言い切らない言い方だった。
まるで、自分に許可を出しているみたいに聞こえる。
「大丈夫なんですか」
思ったより、声が早く出た。
自分でも、心配しすぎかもしれないと思いながら、それでも聞かずにいられなかった。
「一本だけだ」
「久しぶりだし」
柊先輩はそう言って、少しだけ肩をすくめる。
「無理そうだったら、やめる」
その一言で、強く止める理由がなくなった。
おれは、短く頷く。
「……ベランダいきますか?」
「そうだな」
ベランダに出ると、夜の空気がひんやりしていた。柊先輩がタバコを取り出して、火をつける。煙が、ゆっくりと上に流れていく。
その様子を見ているうちに、胸の奥がざわついた。
旅行の夜のことが、ふいに重なる。
あのときと同じ匂い。同じ距離。
「……おれも、一本、吸ってみたいです」
自分でも、なんでそう言ったのか分からなかった。柊先輩は一瞬だけこちらを見て、それから小さく笑う。
「前も言ってたな」
そう言って、もう一本取り出す。
「無理すんなよ」
頷いて、受け取る。
火を近づけられて、ぎこちなく吸い込んだ瞬間、喉が焼ける。
「っ……」
思い切りむせてしまう。
「だから言っただろ」
柊先輩が笑う。
責める感じじゃなくて、
少し安心したみたいな顔だった。
「……すみません」
咳き込みながら言うと、また笑われた。
その笑顔を見ていると、不思議と心配よりも、嬉しさが勝ってしまう。
煙が落ち着いて、ベランダに静けさが戻る。
夜風に混じったタバコの匂いが、まだ薄く残っていた。
柊先輩が、じっとこちらを見る。
さっきまで笑っていたはずなのに、
その目はもう違っていた。
「お前がいると……不思議と笑ってることが多い」
低い声だった。
冗談でも、軽い言葉でもない。
その言い方に、胸の奥が音を立てて縮む。
「おれもです」
言葉を選ぶ余裕はなかった。
「先輩といるときが、一番、自分らしい気がします」
言い切ったあと、少しだけ怖くなる。
これ以上踏み込んだら、戻れない気がして。
でも、柊先輩は目を逸らさなかった。
むしろ、距離が縮まる。
逃げる理由が、見つからない。
息が近づく。
タバコの匂いと、体温が混ざる。
触れる前に、一拍あった。
それでも、先に動いたのは、
どちらだったか分からない。
唇が重なる。
一瞬で終わると思っていた。
でも、離れなかった。
触れている時間が、やけに長く感じる。呼吸が乱れて、どこに力を入れればいいのか分からなくなる。
呼吸が整わないまま、近い距離が続いた。
息が混じる感覚に、引き返せなくなっていた。
考える暇はなかった。
ただ、離れたくないという感覚だけが、
はっきりしていた。
やっと唇が離れたとき、
柊先輩が、少しだけ視線を逸らす。
「……タバコ臭かったよな、ごめん」
照れを隠すみたいな言い方だった。
「いえ」
声が思ったより小さくなる。
「……おれ、キス、下手ですよね」
自分で言ってから、顔が熱くなる。
柊先輩は、一瞬だけ黙って、
それから、短く笑った。
「そんなことない」
不器用な言い方だった。
ただ、その一言でもう今までと同じじゃいられないことだけは、わかった。
唇が触れたあとも、すぐには離れられない。
どちらからともなく距離を取る理由が見つからなくて、ただ近いまま、乱れた呼吸を整えていた。
夜風が頬に当たって、
さっきまでの熱が少しだけ冷える。
柊先輩の手が、行き場を探すみたいに一度だけ迷って、それから、そっとおれの背中に触れた。抱き寄せるほど強くはない。でも、離すつもりもない触れ方だった。
その距離が、妙に落ち着く。
さっきまで必死に抑えていた気持ちが、もう誤魔化せなくなっていることだけは分かった。
柊先輩が、何も言わずに視線を逸らす。おれも、それ以上は何も言わなかった。それでも、同じ場所に立ったまま、同じ時間をやり過ごしている。
確かに、惹かれ合っていた。
そうとしか言えない状態のまま、
夜は、静かに更けていった。
