柊の花に触れずに、恋をした。

柊先輩が戻ってきてから、
おれは、前よりも早く寮に帰るようになっていた。

講義とサークルとバイト。
予定は変わっていないのに、
気づくと、帰り道を急いでいる。

何かあったら、すぐに分かる場所にいたい。
それだけの理由だった。

「支える」と言ったことは、今もはっきり覚えている。重たい言葉だとは思う。でも、言ったからやっているわけじゃない。

そうしたいと思っている。
それだけだった。

夕方、大学から寮に戻る。
廊下に足を踏み入れた瞬間、
自然と、前を見る。

前の方に人影があった。
三〇三号室のほうへ、ゆっくり進んでいる。

柊先輩だった。
壁に指先を滑らせながら歩いている。

右足が、少し遅れる。引きずっている、と言い切るほどじゃない。それを見て、考えるより先に、身体が反応した。

「……先輩、大丈夫ですか」
「平気」

短い返事。
いつもの、突き放すような声。

でも、額にうっすら汗が浮いている。
息も、少しだけ浅い。

「平気じゃないじゃないですか」

言いながら、手を伸ばす。
反射的に、柊先輩の手を握っていた。

冷たい。

柊先輩の温度を感じたとき、いま手を繋いでいるという事実に、すこし高揚した気持ちになる。

……何やってんだ。

いまは、そういうのじゃない。

そう思って、握った手に力を入れないようにした。
ただ、支えるだけ。引っ張らない。

柊先輩は一瞬だけ目を伏せて、息を吐く。

「……助かる」

小さい声だった。
柊先輩の口から出るには、少し弱い音。

「今日は、ちょっと足が言うこときかない」

弱音、というほどのものじゃない。
でも、それを口にしたことで、
先輩が少しだけ近くに来た気がした。

「部屋まで行きましょう」
「……ああ」

握った手は、そのまま離せなかった。

三〇三号室の前で立ち止まり、
柊先輩は鍵を差し込む。

一度、回しかけて、
ほんの少し間を置いてから、ドアを開けた。

部屋に入って、思わず視線を巡らせる。
物が少ない。床も、机の上も、余白がはっきりしている。

初めて足を踏み入れたのに、
柊先輩らしい部屋だと、すぐ分かった。

「座ってください」
「……うん」

そう言いながら、柊先輩はベッドの端に腰を下ろす。
少し疲れたみたいに、肩が落ちる。

「ご飯、食べました?」
「まだ」

いつも通り無駄のない返事。
でも、言い方に覇気がない。

「買ってきます。食べたいものあります?」
「何でもいい」

いつもの逃げ方だった。

「それ、だめです。先輩、いま『何でもいい』って言ったらほんとに何でもになりますよ」

そう言い切ると、柊先輩は小さく息を吐いた。
笑いそうになって、笑わない。

「……じゃあ」

少し間。

「アーモンドチョコ」

小さい声だった。
言ったあと、視線が落ちる。

一瞬、理解が遅れた。
夕飯の話をしてたのに。

「……それ、飯じゃないですよね」
「分かってる」

また短い返事。
でも、恥ずかしさが混ざっているのが分かる。
おれは思わず笑ってしまった。

「意外です笑」
「うるさい」

それで会話が終わる。
終わるはずなのに、空気が少し柔らかい。

「じゃあ、アーモンドチョコは絶対買います。ご飯は、勝手に選びます。」
「……任せる」

その言葉が、なぜか嬉しかった。
コンビニまでは走って向かった。すぐに息が切れる。
夏の名残の湿った空気が、肌にまとわりついた。
それでも、足は止まらなかった。

弁当と、温かいスープと、飲み物。
アーモンドチョコは、二つ。

部屋に戻ると、柊先輩はベッドの端でぼんやり天井を見ていた。休んでいるというより、力を抜いている。

「買ってきました」
「……早いな」
「走りました」

袋を差し出すと、柊先輩は受け取る。
指先が触れて、その一瞬だけで、また心臓がうるさくなった。

柊先輩が袋の中を見て、アーモンドチョコを見つける。
少しだけ目が細くなる。

「……ちゃんと買ってんじゃん」
「当たり前です」

柊先輩はしばらく袋を眺めてから、ぽつりと言った。

「……一緒に食うか」

言われて、喉が鳴った。

「いいんですか」
「お前が買ってきたんだろ」

それだけ。
でも、その「それだけ」が、やけに嬉しい。

床に座って、二人で弁当の蓋を開けた。
柊先輩はゆっくり食べる。
急がない。急げないのかもしれない。

「味、どうですか」
「……普通にうまい」

褒め方が淡々としてる。

おれも弁当を口にする。
同じ味なのに、いつもより温かい。

その後、柊先輩とたわいもない会話をした。
講義の話。寮の話。サークルのどうでもいい噂。

柊先輩が、ふっと息を吐く。

「……こういうの久しぶりだな」
「こういうの?」
「誰かと飯食うの」

それだけ言って、また箸を動かす。

それを聞いて、胸が詰まりそうになる。
でも、ここで詰まらせたら空気が壊れる気がして、笑う。

「じゃあ、これからも一緒に食べましょう」
「……お前、意外と積極的だな」

そう言いながら、柊先輩の口元が少しだけ緩む。
笑ってる、というより、抵抗がほどけた顔。

その夜から、同じことが続くようになった。

毎日、柊先輩の部屋に寄る。
飯を買ってくる。時々、簡単に作って持っていくこともあった。柊先輩は「いらない」と言いそうな顔をして、結局受け取る。

二人で床に座って食べる。
その時間が、少しずつ当たり前になっていった。

ある夜、弁当を食べ終えたあと、
柊先輩がぽつりと言った。

「……お前さ、将来、どうすんの」

急に振られて、言葉に詰まる。
自分の話は、あまりしたくない。

「……まだ、ちゃんとは」
「そうか」

それだけで、深追いしない。
柊先輩は、しばらく沈黙してから、珍しく自分のことを話し始めた。

「おれは、海外の大学院に行きたい」

淡々とした声。
でも、その言い方に迷いがない。

「高校のときさ」

柊先輩は、少し考える間を置いてから言った。

「新聞配達やってたんだ。バイト終わりに、余った新聞を一部だけもらえてさ。それを、毎日読んでた。最初は、暇つぶしに読んでるだけだったけど、読んでるうちにだんだん面白くなってきて。景気がどうとか、国が何を決めたとか。そういうのがさ、全部、どこかで誰かの生活に直結してるって分かって」

少しだけ、声が低くなる。

「おれ……父親、早くに亡くしててさ。だから、母さんが一人で、全部やっくれてた。仕事も、子育ても。働きすぎで重い病気もして、すげぇ苦労してた。正直、余裕なんて、なかったと思う。それでも母さん、おれの前で弱音とか全然吐かなかった。吐く暇も、なかったんだと思う」

視線は合わせないまま、続ける。

「そのときは仕方ないって思うしかなかった。でも新聞読んでると医療費の助成があるとか、相談できる窓口があるとか、条件を満たせば負担が減る仕組みがあるって書いてあって。それを知らないまま全部、自分で抱えてる人も多いんだって。母さんもそうだったのかなって、あとから思うようになった」

柊先輩は目線を上にあげて言い直すように続ける。

「立派な学者になりたいとか、最初からそんな大それたこと考えてたわけじゃない。ただ、母さんみたいな人をあとからでも、助けられる側にまわりたい。そう思った。だから、もっとちゃんと学びたい。できるなら、海外も見たい。日本だけじゃなくて。アメリカに経済学で有名な大学があるんだ。ちゃんとやってるところで、ちゃんと鍛えられたい」

その言い方が、柊先輩らしかった。
格好つけているわけでも、
夢を大きく語っているわけでもない。

「でも今は、無理だな。金も足りないし。母さんにも、これ以上心配かけられない。だから今は夢のために、稼いでる。行くって決めたときに迷わず行けるように」

淡々とした口調だった。ただ、その中にしっかり芯があることだけは確かに感じることができた。

夢を語っているのに、
浮ついたところが、どこにもなかった。

「……それで、そんなにバイトしてたんですか?」
「そう」

その言い方が、妙に刺さった。
自分の夢を「夢」と呼ばない人。
誰かのためにいつも責任を背負って生きてる人。

喉の奥に、違和感が残る。
何かが引っかかっているみたいで、
言葉がうまく出てこない。

「……おい」

柊先輩の声で、我に返る。
何かを伝えたかった、でも、その気持ちとは裏腹にいつもより長く床に視線を寄せて、黙り込んでしまっていた。

柊先輩の指が伸びてきて、おれの頬に、軽く触れる。
一瞬、確かめるみたいに。

「考えすぎだろ」

からっとした言い方だった。

「……だって」

続く言葉が、見つからない。
考えていることが多すぎて、順番がつかない。

「おれ、自分のことばっかりで。先輩がどれだけ.....」

一度、言葉を切る。

「……ずっと頑張ってたんだって、今になって分かりました、遅すぎますけど」

柊先輩は、目を逸らさない。
ただ、教室で話を聞くみたいに、
静かに聞いている。

「旅行も、寮で課題見てくれたのも、全部。先輩の時間だったのに」

言い終えたあと、視線を落とした。

柊先輩は小さく息を吐いて、
触れていた指先を引っ込めた。

「……大げさ」
「大げさじゃないです」

少ししぼんだ声。
意識してそうしたわけじゃない。

胸の奥に、別の感情が混じる。
同情じゃない。憧れとも違う。
守りたい、とも少し違う。

近くにいたい。
離れたくない。

理由は分からないまま、
でも確かに、増えていく。

柊先輩が、立ち上がる。

「……もう寝ろ。明日も講義だろ」
「はい」

立ち上がりながら、名残惜しい。
部屋を出る理由が、薄い。

ドアの前で、柊先輩が一度だけ振り返る。

「……ありがとな」

短い声だった。
それだけで、足が止まる。

気づけば、柊先輩をどう思っているかを、
自分に誤魔化せなくなっていた。

この気持ちに名前をつけたら、
もう戻れない。

でも、戻りたくない気持ちの方が、
おれの中にあった。