夏は、長かった。
暑さのせいじゃない。
何も起きない日が、ただ続いたせいだ。
朝になっても、起き上がる理由が見つからない。
昼になっても、時間が進んだ実感がない。
夜になって、ようやく一日が終わる。
その繰り返し。
スマホは、何度も手に取った。
柊先輩の名前を開いて、閉じる。
水田さんの名前を見て、また閉じる。
連絡を入れたところで、
何が変わるわけでもない。
分かっている。
分かっているのに、画面から指を離せない。
送らない、という選択を、毎回、ぎりぎりのところで選び直す。
それだけで、
一日が終わることもあった。
寮の中では、柊先輩の話題が出ない日はなかった。
「帰省してるらしい」
「実家の事情じゃない?」
「単位、大丈夫なのか?」
適当な噂が、軽く飛び交う。
そのたびに、胸の奥が重くなる。
知っているのは、おれだけだ。
でも、それを口に出す資格がない気がして、黙っていた。
自分が何をしたのか。
何をしなかったのか。
それを言葉にした瞬間、全部が現実になる気がした。
あの夜のことも、
LINEの一行も、
水田さんの言葉も。
全部、おれの中に沈めたまま、
無慈悲に夏だけが進んでいった。
夏休みが終わるころには、
感情の起伏が、ほとんどなくなっていた。
泣くこともない。
怒ることもない。ただ、空っぽだった。
*
長い夏休みが終わり、キャンパスに人が戻ってくる。
秋の匂いがした。
乾いた風と、少し冷たい空気。
それが、今の気持ちとやけに重なる。
また、いつも通りの大学生活がはじまった。
講義に出て、ノートを取って、帰る。
身体は動くのに、気持ちだけが、少し遅れている。
――そんな日が、二週間ほど続いた夜だった。
部屋で、課題に目を通していたとき。
ノックの音がした。
最初は、聞き間違いかと思った。
もう一度、音がする。
こんな時間に、誰だろう。
そう思いながら、ドアを開ける。
そこには、柊先輩が立っていた。
一瞬、何が見えているのか分からなかった。
時間が、止まったみたいに。
かなり痩せた気がした。
顔色も、少し薄い。
でも、間違いない。
「……久しぶり」
その声を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かが崩れた。
安心と、安堵と、
押し殺してきた不安が、
一気に涙と一緒に溢れる。
足に力が入らない。
気づいたら、
柊先輩に抱きついていた。
「……すみません……ごめんなさい……おれ……」
言葉にならない。謝りたいのか、生きていてくれてありがとうと言いたいのか、分からない。
柊先輩の腕が、ゆっくり背中に回る。
力は弱い。でも、確かだった。
「……泣くな」
そう言いながら、部屋の中に入ってくる。
ドアが閉まる音が、やけに大きい。
先輩の身体の動きが、少しぎこちない。
歩き方も、腕の動きも、どこか遅れる。
「お前が悪いわけじゃない」
その一言で、
堪えていたものが切れた。
「……違います。おれが……おれが、あのとき……」
「違う」
はっきり遮られる。
「倒れたのは、おれだ。無理してたのも。気づかなかったのも。」
おれの肩を掴んで、距離を取る。
視線が、真っ直ぐ向けられる。
「お前のせいにするな」
その強さに、
胸が、また痛む。
「水田が、きつい言い方したのも、あいつ、そういうやつなんだ。友達想いで、熱くなる。……悪かったな」
水田さんを庇う言い方だった。
それが、余計に胸に刺さる。
しばらくして、ようやく息が整う。
「……体は、ほんとに、大丈夫なんですか?」
聞きながら、
怖くて、答えを待てない。
「完璧じゃない、正直、まだ痺れる。動きにくいときもある」
淡々としている。
「この二、三か月、リハビリしてた」
少し、視線を逸らす。
「思ったよりは、早く戻れた。それでも前みたいには、いかない。でも、戻りたかった、ここに」
その一言で、胸が詰まる。
「……先輩」
気づいたら、口が動いていた。
「中途半端なまま終わりたくなかった。生活は前みたいには、無理だと思う。でもなんとかする」
その言い方が、これまで無理を積み重ねてきた人のものだと、すぐに分かった。
「……無理しないでください」
声が、低くなる。
「支えさせてください……おれに」
柊先輩が、少し驚いた顔をする。
「……お前は、優しすぎだ」
「違います……おれが、したいだけです」
一瞬、沈黙。
柊先輩が、手を伸ばす。
おれの頭に、そっと触れる。
指先が、前より少し震えている。
息が、触れる距離。
「……分かった。何かあったら、ちゃんと頼る」
低く、近い声。
「はい」
即答だった。
この距離を、もう、手放さない。
ここで離れたら、きっと一生、同じ後悔を繰り返す。
柊先輩が戻ってきたことには、意味がある。
そう思いたかった。
偶然でも、気まぐれでもなく、
この人が、ここに立っているという事実そのものに。
今度は、見ないふりをしない。
気づかなかったことにしない。
手を伸ばす理由から、
逃げない。
それが支えになるのか、
重荷になるのかは、
まだ分からない。
それでも。
先輩が戻ってきた意味を、
今度は、おれが受け止める番だ。
その覚悟だけが、
胸の奥に、静かに残っていた。
暑さのせいじゃない。
何も起きない日が、ただ続いたせいだ。
朝になっても、起き上がる理由が見つからない。
昼になっても、時間が進んだ実感がない。
夜になって、ようやく一日が終わる。
その繰り返し。
スマホは、何度も手に取った。
柊先輩の名前を開いて、閉じる。
水田さんの名前を見て、また閉じる。
連絡を入れたところで、
何が変わるわけでもない。
分かっている。
分かっているのに、画面から指を離せない。
送らない、という選択を、毎回、ぎりぎりのところで選び直す。
それだけで、
一日が終わることもあった。
寮の中では、柊先輩の話題が出ない日はなかった。
「帰省してるらしい」
「実家の事情じゃない?」
「単位、大丈夫なのか?」
適当な噂が、軽く飛び交う。
そのたびに、胸の奥が重くなる。
知っているのは、おれだけだ。
でも、それを口に出す資格がない気がして、黙っていた。
自分が何をしたのか。
何をしなかったのか。
それを言葉にした瞬間、全部が現実になる気がした。
あの夜のことも、
LINEの一行も、
水田さんの言葉も。
全部、おれの中に沈めたまま、
無慈悲に夏だけが進んでいった。
夏休みが終わるころには、
感情の起伏が、ほとんどなくなっていた。
泣くこともない。
怒ることもない。ただ、空っぽだった。
*
長い夏休みが終わり、キャンパスに人が戻ってくる。
秋の匂いがした。
乾いた風と、少し冷たい空気。
それが、今の気持ちとやけに重なる。
また、いつも通りの大学生活がはじまった。
講義に出て、ノートを取って、帰る。
身体は動くのに、気持ちだけが、少し遅れている。
――そんな日が、二週間ほど続いた夜だった。
部屋で、課題に目を通していたとき。
ノックの音がした。
最初は、聞き間違いかと思った。
もう一度、音がする。
こんな時間に、誰だろう。
そう思いながら、ドアを開ける。
そこには、柊先輩が立っていた。
一瞬、何が見えているのか分からなかった。
時間が、止まったみたいに。
かなり痩せた気がした。
顔色も、少し薄い。
でも、間違いない。
「……久しぶり」
その声を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かが崩れた。
安心と、安堵と、
押し殺してきた不安が、
一気に涙と一緒に溢れる。
足に力が入らない。
気づいたら、
柊先輩に抱きついていた。
「……すみません……ごめんなさい……おれ……」
言葉にならない。謝りたいのか、生きていてくれてありがとうと言いたいのか、分からない。
柊先輩の腕が、ゆっくり背中に回る。
力は弱い。でも、確かだった。
「……泣くな」
そう言いながら、部屋の中に入ってくる。
ドアが閉まる音が、やけに大きい。
先輩の身体の動きが、少しぎこちない。
歩き方も、腕の動きも、どこか遅れる。
「お前が悪いわけじゃない」
その一言で、
堪えていたものが切れた。
「……違います。おれが……おれが、あのとき……」
「違う」
はっきり遮られる。
「倒れたのは、おれだ。無理してたのも。気づかなかったのも。」
おれの肩を掴んで、距離を取る。
視線が、真っ直ぐ向けられる。
「お前のせいにするな」
その強さに、
胸が、また痛む。
「水田が、きつい言い方したのも、あいつ、そういうやつなんだ。友達想いで、熱くなる。……悪かったな」
水田さんを庇う言い方だった。
それが、余計に胸に刺さる。
しばらくして、ようやく息が整う。
「……体は、ほんとに、大丈夫なんですか?」
聞きながら、
怖くて、答えを待てない。
「完璧じゃない、正直、まだ痺れる。動きにくいときもある」
淡々としている。
「この二、三か月、リハビリしてた」
少し、視線を逸らす。
「思ったよりは、早く戻れた。それでも前みたいには、いかない。でも、戻りたかった、ここに」
その一言で、胸が詰まる。
「……先輩」
気づいたら、口が動いていた。
「中途半端なまま終わりたくなかった。生活は前みたいには、無理だと思う。でもなんとかする」
その言い方が、これまで無理を積み重ねてきた人のものだと、すぐに分かった。
「……無理しないでください」
声が、低くなる。
「支えさせてください……おれに」
柊先輩が、少し驚いた顔をする。
「……お前は、優しすぎだ」
「違います……おれが、したいだけです」
一瞬、沈黙。
柊先輩が、手を伸ばす。
おれの頭に、そっと触れる。
指先が、前より少し震えている。
息が、触れる距離。
「……分かった。何かあったら、ちゃんと頼る」
低く、近い声。
「はい」
即答だった。
この距離を、もう、手放さない。
ここで離れたら、きっと一生、同じ後悔を繰り返す。
柊先輩が戻ってきたことには、意味がある。
そう思いたかった。
偶然でも、気まぐれでもなく、
この人が、ここに立っているという事実そのものに。
今度は、見ないふりをしない。
気づかなかったことにしない。
手を伸ばす理由から、
逃げない。
それが支えになるのか、
重荷になるのかは、
まだ分からない。
それでも。
先輩が戻ってきた意味を、
今度は、おれが受け止める番だ。
その覚悟だけが、
胸の奥に、静かに残っていた。
