夜の部屋は、音が少なかった。
スマホの振動だけが、やけに大きく感じる。
画面はもう暗い。
それでも手を離せなくて、
ベッドの端に座ったまま、
時間だけが過ぎていく。
何をすればいいのか分からない。
でも、何もしないでいるのは、もっと怖かった。
指が勝手に動き、
柊先輩のトーク画面を開く。
既読のついた「たすけて」の一行が、まだそこにある。
息が上手くできず苦しい。
電話のアイコンを押した。
呼び出し音が一回、二回。
機械的な音が、耳の奥に残る。
応答はない。
切る。
もう一度押す。
同じ音。
同じ沈黙。
通話が終わるたび、胸の奥が少しずつ削れていく。
削れて、空いたところに、また同じ音を流し込む。
いつの間にか、回数を数えるのをやめていた。
眠れないまま朝になり、講義に出て、帰ってきて、また電話を押す。そうやって、何日かが過ぎた。
柊先輩のLINEを使って連絡してきたのは、水田さんだった。柊先輩は、意識がない。
今、電話をかけても、
メッセージを送っても、
返ってくるものは何もない。
それは、分かっている。
それでも、スマホを手に取ってしまう。
「たすけて」を見たままにしている自分が、許せなかった。
トーク画面に文字を打つ。
《水田さん、お願いします。柊先輩に、会わせてください。一度でいいんです。直接、謝りたいんです》
送って、既読がつくのを待つ。
つかない。つかなくても、また送る。
自分でも分からなくなってくる。
謝りたいのか。顔を見たいのか。
それとも、ただ許されたいだけなのか。
返事が来たのは、夜だった。
《これ以上、柊のLINEに送らないでください。連絡するなら、おれにしてください。これがアカウントです》
短い文章。
突き放すようでいて、最低限の線は残している。
指が震えた。
連絡先を教えてもらえた、
それだけで、胸が少し軽くなる。
水田さんを登録して、すぐに送る。
《すみません、突然で。でも、どうしても柊先輩に会わせてください》
送ったあと、呼吸が浅くなる。
自分が何を言っているのか、分からないまま。
返事は、少し間を置いて来た。
《無理です。今は、誰にも会わせられません》
それだけだった。
当然だと思う。
分かっている。
それでも、胸の奥が勝手に痛む。
《ほんの数分でも。病室の前でいいです。声をかけれなくてもいいです》
必死だった。
自分でも、引くほどに。
すぐに返事は来なかった。
来ない時間が、いちばん苦しい。
翌日の夕方、通知が鳴った。
《しつこいです。あなたが来ても、柊は今、何も分かりません。意識が戻ったら、連絡します》
最後の一文だけが、胸に残った。
意識が戻ったら。その言葉を何度も頭の中で反芻して、ようやく指が止まった。
それからは、連絡は控えるようにした。
控える、と言っても、我慢しているだけだった。
スマホを机に置いても、手が伸びる。
ポケットに入れても、確認する。
通知が来ていないことに息が詰まる。
講義に出ても、板書が頭に入らない。
サークルに顔を出しても、笑い方が分からない。
返事はできる。相槌も打てる。
でも、その声が他人のものみたいに遠い。
数日後の夜、通知が鳴った。
水田さんだった。指が強張って、画面を開く。
《意識、戻りました》
一行だけ。
息を吸ったつもりなのに、肺まで届かない。
目の奥が、熱くなる。
《よかった。本当にありがとうございます》
送ってから、遅れて怖くなる。
喜んでいいのか、分からない。
水田さんから、続けて来た。
《ただ、発見が遅れた影響で後遺症が残る可能性があるそうです。普通に生活できるようになるまで数ヶ月はかかるかもしれない。病名は脳動静脈奇形、というものだそうです。》
聞いたことのない言葉に、
一瞬、画面を見失う。
《生まれつき脳の血管に異常がある病気で本人が気づかないまま生活している人も多いと医師から説明を受けました》
それを聞いて、
すぐには意味をつかめなかった。
《ある日、突然、脳出血や意識障害として発症することがあるみたいで、柊の場合、以前から頭痛やめまい、疲れやすさが少しずつ出ていたようです》
ソファで眉間を押さえた仕草が、
遅れて浮かぶ。
《ただ本人は、忙しさや疲れのせいだと思っていたのだと思います。倒れたとき脳出血を起こしてすぐに手術はできました。ですが、発見が遅れた影響で脳にダメージが残っていて、今後どの程度、後遺症が出るかはまだ分からないそうです》
息を吸っても、
胸まで届かない。
《日常生活に戻れる可能性はあるそうですが以前と同じような生活をすることは難しいかもしれないと言われています》
言葉が、足元に溜まっていく。
《柊には、母親しかいません。その母親も、昔から病気で入退院を繰り返していました》
画面から目が離せなくなる。
《高校の頃から柊はずっとバイトに明け暮れてました。大学に入ってからも生活費と、母親の病院代のために》
あの人の生活が、言葉になって並ぶ。
無駄のない動き。
時間を無駄にしない姿勢。
目的のない時間を嫌う理由。
《責任感が強いやつなんです。自分のことは後回しで多少の不調も疲れのせいだって済ませてた》
旅行の夜が浮かぶ。
寮での勉強。「寝不足でさ」という声。
《だから今は、おれがそばにいます。支えるつもりです》
そこまで読んで、ようやくスマホを伏せた。
胸が、重い。
柊先輩は、そんな状況の中で、旅行に来てくれた。
寮で、時間を割いてくれた。
課題に付き合ってくれた。
おれは、それを全部、受け取っていた。
受け取って、何も返せていなかった。
水田さんに、何か返さなきゃと思う。
でも、謝罪は軽すぎて、感謝は場違いで、
どんな言葉も、柊先輩には届かない。
《お願いします。何かあったら、教えてください》
それだけ送って、スマホを置いた。
*
大学は、長い夏休みに入った。
寮の廊下は、昼でも静かだった。
部屋に戻ると、時間だけが余る。
余った時間は、全部、考える時間になる。
その間、柊先輩からも、水田さんからも、連絡はなかった。
それが悪いことなのか、
ただの経過なのか、
おれには分からなかった。
スマホは静かなまま、
夏だけが、先に進んでいった。
スマホの振動だけが、やけに大きく感じる。
画面はもう暗い。
それでも手を離せなくて、
ベッドの端に座ったまま、
時間だけが過ぎていく。
何をすればいいのか分からない。
でも、何もしないでいるのは、もっと怖かった。
指が勝手に動き、
柊先輩のトーク画面を開く。
既読のついた「たすけて」の一行が、まだそこにある。
息が上手くできず苦しい。
電話のアイコンを押した。
呼び出し音が一回、二回。
機械的な音が、耳の奥に残る。
応答はない。
切る。
もう一度押す。
同じ音。
同じ沈黙。
通話が終わるたび、胸の奥が少しずつ削れていく。
削れて、空いたところに、また同じ音を流し込む。
いつの間にか、回数を数えるのをやめていた。
眠れないまま朝になり、講義に出て、帰ってきて、また電話を押す。そうやって、何日かが過ぎた。
柊先輩のLINEを使って連絡してきたのは、水田さんだった。柊先輩は、意識がない。
今、電話をかけても、
メッセージを送っても、
返ってくるものは何もない。
それは、分かっている。
それでも、スマホを手に取ってしまう。
「たすけて」を見たままにしている自分が、許せなかった。
トーク画面に文字を打つ。
《水田さん、お願いします。柊先輩に、会わせてください。一度でいいんです。直接、謝りたいんです》
送って、既読がつくのを待つ。
つかない。つかなくても、また送る。
自分でも分からなくなってくる。
謝りたいのか。顔を見たいのか。
それとも、ただ許されたいだけなのか。
返事が来たのは、夜だった。
《これ以上、柊のLINEに送らないでください。連絡するなら、おれにしてください。これがアカウントです》
短い文章。
突き放すようでいて、最低限の線は残している。
指が震えた。
連絡先を教えてもらえた、
それだけで、胸が少し軽くなる。
水田さんを登録して、すぐに送る。
《すみません、突然で。でも、どうしても柊先輩に会わせてください》
送ったあと、呼吸が浅くなる。
自分が何を言っているのか、分からないまま。
返事は、少し間を置いて来た。
《無理です。今は、誰にも会わせられません》
それだけだった。
当然だと思う。
分かっている。
それでも、胸の奥が勝手に痛む。
《ほんの数分でも。病室の前でいいです。声をかけれなくてもいいです》
必死だった。
自分でも、引くほどに。
すぐに返事は来なかった。
来ない時間が、いちばん苦しい。
翌日の夕方、通知が鳴った。
《しつこいです。あなたが来ても、柊は今、何も分かりません。意識が戻ったら、連絡します》
最後の一文だけが、胸に残った。
意識が戻ったら。その言葉を何度も頭の中で反芻して、ようやく指が止まった。
それからは、連絡は控えるようにした。
控える、と言っても、我慢しているだけだった。
スマホを机に置いても、手が伸びる。
ポケットに入れても、確認する。
通知が来ていないことに息が詰まる。
講義に出ても、板書が頭に入らない。
サークルに顔を出しても、笑い方が分からない。
返事はできる。相槌も打てる。
でも、その声が他人のものみたいに遠い。
数日後の夜、通知が鳴った。
水田さんだった。指が強張って、画面を開く。
《意識、戻りました》
一行だけ。
息を吸ったつもりなのに、肺まで届かない。
目の奥が、熱くなる。
《よかった。本当にありがとうございます》
送ってから、遅れて怖くなる。
喜んでいいのか、分からない。
水田さんから、続けて来た。
《ただ、発見が遅れた影響で後遺症が残る可能性があるそうです。普通に生活できるようになるまで数ヶ月はかかるかもしれない。病名は脳動静脈奇形、というものだそうです。》
聞いたことのない言葉に、
一瞬、画面を見失う。
《生まれつき脳の血管に異常がある病気で本人が気づかないまま生活している人も多いと医師から説明を受けました》
それを聞いて、
すぐには意味をつかめなかった。
《ある日、突然、脳出血や意識障害として発症することがあるみたいで、柊の場合、以前から頭痛やめまい、疲れやすさが少しずつ出ていたようです》
ソファで眉間を押さえた仕草が、
遅れて浮かぶ。
《ただ本人は、忙しさや疲れのせいだと思っていたのだと思います。倒れたとき脳出血を起こしてすぐに手術はできました。ですが、発見が遅れた影響で脳にダメージが残っていて、今後どの程度、後遺症が出るかはまだ分からないそうです》
息を吸っても、
胸まで届かない。
《日常生活に戻れる可能性はあるそうですが以前と同じような生活をすることは難しいかもしれないと言われています》
言葉が、足元に溜まっていく。
《柊には、母親しかいません。その母親も、昔から病気で入退院を繰り返していました》
画面から目が離せなくなる。
《高校の頃から柊はずっとバイトに明け暮れてました。大学に入ってからも生活費と、母親の病院代のために》
あの人の生活が、言葉になって並ぶ。
無駄のない動き。
時間を無駄にしない姿勢。
目的のない時間を嫌う理由。
《責任感が強いやつなんです。自分のことは後回しで多少の不調も疲れのせいだって済ませてた》
旅行の夜が浮かぶ。
寮での勉強。「寝不足でさ」という声。
《だから今は、おれがそばにいます。支えるつもりです》
そこまで読んで、ようやくスマホを伏せた。
胸が、重い。
柊先輩は、そんな状況の中で、旅行に来てくれた。
寮で、時間を割いてくれた。
課題に付き合ってくれた。
おれは、それを全部、受け取っていた。
受け取って、何も返せていなかった。
水田さんに、何か返さなきゃと思う。
でも、謝罪は軽すぎて、感謝は場違いで、
どんな言葉も、柊先輩には届かない。
《お願いします。何かあったら、教えてください》
それだけ送って、スマホを置いた。
*
大学は、長い夏休みに入った。
寮の廊下は、昼でも静かだった。
部屋に戻ると、時間だけが余る。
余った時間は、全部、考える時間になる。
その間、柊先輩からも、水田さんからも、連絡はなかった。
それが悪いことなのか、
ただの経過なのか、
おれには分からなかった。
スマホは静かなまま、
夏だけが、先に進んでいった。
