柊の花に触れずに、恋をした。

柊先輩の姿を見なくなって、
数週間が経っていた。

最初は、忙しいんだろうと思っていた。
バイトも多いし、責任感も強い。
そういう人だ。

でも、三〇三号室の前を通るたび、何も変わらない廊下に、少しだけ引っかかるようになった。

共同リビング。
講義棟までの道。
寮の玄関。

どこにも、柊先輩はいなかった。

ある日の昼過ぎ、
寮の廊下で初瀬先輩とすれ違った。

「おつかれ」

軽く会釈して、そのまま通り過ぎる。
いつもなら、それで終わりだった。

「……あ、初瀬先輩」

思わず、足を止めていた。

「ん?」
「柊先輩って、最近……何してるんですか」

聞くつもりはなかった。
でも、理由を考える前に、言葉が出ていた。

初瀬先輩は少し首を傾げてから、笑った。

「そういえば、見てねえな。あいつ、ほんとバカみたいに働くからさ、忙しいんじゃね?」

深く考えていない口調だった。
それで、話は終わる。

「ですよね。ありがとうございます」

そう答えて、その場を離れる。

納得できないわけじゃない。
自分に言い聞かせるには、十分な理由だった。

忙しいだけ。
それで、説明はつく。



夜、寮に戻る。
部屋に入って、(かばん)を置き、
何気なくスマホを見ると、1件のLINE通知があった。
画面に表示された名前を見て、一瞬、呼吸が詰まる。

柊先輩だった。

急いで画面を開く。
でも、そこに並んでいた言葉は、
柊先輩のものじゃなかった。

《はじめまして。柊の幼馴染の、水田といいます。突然の連絡で、すみません。柊は、数週間前の夜、バイトの帰り道で倒れて、桜峰(おうほう)総合医療センターに搬送されました。人通りの少ない場所で、発見がかなり遅れたそうです。》

意味が、すぐに頭に入ってこない。

文字を追っているだけなのに、
指先の感覚が、少しずつ遠のいていく。

《もともと、本人も気づいていなかった病気があって、倒れてから処置が遅れると、重い状態になる可能性が高いと聞いています。現在も意識は戻っていません。》

視界が、ゆっくり歪む。

画面を一度閉じて、
もう一度、開く。
書いてあることは、変わらない。

《柊の友人たちに状況を伝えるため、本人のLINEを使って連絡をしています。その中で、倒れた日の夜に、あなたに「たすけて」と送っているのを見ました。》

呼吸が、浅くなる。

《なぜ、助けなかったんですか?既読がついていました。気づいていたんですよね。正直に言って、友人として、許せません。その場に行けなかったとしても、救急に連絡することはできたはずです。何もしない、という選択はなかったと思います。》

言葉が、胸に落ちる前に、
身体の方が先に反応した。

耳鳴りがする。
手が、細かく震え出す。
思考が、追いつかない。

でも、次の瞬間、ばらばらだった記憶が、
一気につながった。

ソファで感じた、肩の細さ。
立ち上がったとき、眉間を押さえた仕草。
「寝不足でさ」「今日は早く寝るわ」

そして――
合宿の夜。
「たすけて」、あの一行。
約束。返事はいらない。形だけ送る。

全部が、同じ線の上に並ぶ。

遅れて、息が詰まった。
喉の奥が、ひくりと鳴る。
スマホを持つ手が、震えて止まらない。

どう打てばいいのか分からないまま、
画面に指を落とす。

《……知りませんでした。すみません。本当に、すみません》

短い文を送って、それ以上、何も書けなかった。
スマホを握ったまま、床に座り込む。
背中が、壁に当たる。

顔は、何も動かない。
涙だけが、勝手に落ちてくる。

声は出ない。
嗚咽(おえつ)もない。

ただ、分かってしまった。
あのとき、助けを求められていたこと。
そして、それを、自分が無視したこと。
おれは、どうやって償えばいいんだろう。

考えようとしても、
浮かぶのは同じ場面ばかりだった。
あの夜、画面に残った一行。
既読をつけて、スマホを伏せた自分。

でも、その「何もしなかった」が、
いまは、はっきり形を持っている。

もし、あのとき。
もし、返事をしていたら。
もし、電話をかけていたら。
もし、誰かに知らせていたら。

どれも、いまさらだ。
取り消せるものは、何一つない。

謝ることはできる。
頭を下げることもできる。
責められることも、受け止められる。

でも、戻せるものは、ない。

答えは、
どこにもなかった。