柊の花に触れずに、恋をした。

生活は、何事もなかったみたいに続いた。
朝起きて、講義に出て、夜は寮に戻る。

ただ、その途中で、何度か、
同じところに引っかかる。

説明できるほどの違和感じゃない。
でも、放っておけるほど小さくもない。

気づけば、いつも柊先輩のことを考えている。

講義の合間。寮の廊下。
ベッドに腰を下ろしたとき。

そのたびに、あの低い声とか、
視線を合わせない癖とか、
短く区切る話し方が浮かぶ。

距離が縮んだ、というほどの実感はない。
でも、前よりも近い場所にいる気がしていた。

それがどういう感情なのかは、まだ分からない。
分からないままでも、悪くないと思っていた。

日常は変わらず続く。
講義に出て、サークルに顔を出して、夜は課題を片づける。忙しさの中にいる方が、余計なことを考えずに済む。



数週間後、サークルの合宿があった。
泊まりがけで、練習と打ち上げを繰り返すだけの、よくある行事だ。

正直、楽しかった。
身体は疲れるけど、周りに人がいて、笑い声が絶えない。時間が詰まっている感じが、性に合っていた。

夜、布団に入ってからも、
誰かの話し声や、笑いがしばらく続いていた。
スマホが震えたのは、その最中だった。

画面を開く。
表示された名前を見て、一瞬、息が止まる。

柊先輩だった。

メッセージは、短い。

「たすけて」

一行だけ。
最初に浮かんだのは、
驚きよりも、別の感情だった。

――送ってきてくれた。

それも、初めてのメッセージだ。
胸の奥が、じわっと温かくなる。

すぐに、別の記憶が重なる。
共同リビングで、罰ゲームの話が出た夜。
困ってもいないのに「困ってる」と送るのは嫌だ、という柊先輩の言葉。

だから、あのとき決めた。
本当にゲームに巻き込まれたら、形だけ送る。
返事はいらない。そういう約束だった。

だからこれは、きっと、あの約束の延長だ。
「たすけて」というメッセージの意味にも理屈が通る。返信したい気持ちが、強くなる。

今、何してますか。
どうしました。
どんな言葉でもよかった。

でも、約束は約束だ。

少し残念に思いながら、
それでも、どこか浮かれたまま、既読をつける。

画面を伏せて、スマホを置く。
この続きは、合宿が終わってからでいい。
直接、顔を見て話せばいい。

そう思えるくらいには、この一行が、これから続くやり取りの始まりに思えていた。



合宿が終わって、寮に戻る。

荷物を置いてから、特に用事もないのに、廊下を一度歩いてみる。三〇三号室の前には、誰の気配もなかった。

時間を変えて、もう一度歩く。
それでも、様子は変わらなかった。

その日も、その次の日も、
柊先輩の姿を見ることはなかった。

たまたまだろう、と思う。
忙しい時期なんだろう、と。
それで、済ませられる程度のことだった。

それから数日が過ぎても、柊先輩の姿はなかった。
生活の中で、名前を聞くことも減っていく。

気に留めるほどのことじゃない。
そう思える程度には、日常は問題なく回っていた。