S.S:Silent Society

年始のおせち料理の材料を買い忘れたという母に頼まれ、
 東雲は一人、買い物に出ていた。 
 玄関に着いたところで、スマホが鳴った。


 藤宮に設定している着信音が鳴って、智輝は足を止めた。
 東雲は買ってきたものを玄関前に置き、
 慌ててスマホをタップする。

 「もしもし」
 すぐに、落ち着いた声が返ってくる。
 「悠誠、どうしたん?」
 藤宮からの電話は、これで二度目だった。
 クリスマスイブに誘われたときの声が、耳の奥で一瞬だけよみがえる。
 「智輝、初詣いこ。」
 「ええよ。」
 間髪いれずに了承したのは、嬉しかったからだ。
 すぐに返事したのが、面白かったのか藤宮は電話の向こうで笑っていた。
 「をけら参りに行かへん?大晦日は電車もずっと動いてるから、23時くらいに待ち合わせして、
 朝に帰る、大丈夫か?」

 (をけら参り。
   大晦日の夜から元日にかけて、八坂で火をもらうやつや。)

 夜……
 東雲は、一瞬だけ言葉に詰まった。
(……夜に出かけるって、言うたことない)
 「智輝の家は、厳しいん?」
 黙ってしまった東雲に藤宮が心配した様子で確かめてくる。
 「わからへん。あかんとは言わんと思うけど、夜中に出かけるなんてしたことないし。」
 「そうか、ほないっぺん聞いてみて。あかんって言われたら元旦の朝から行こう。」
 東雲は藤宮がそう言ってくれたことに安心した。
 断れば、初詣自体がなくなるかもと思ったからだ。
 「わかった。確認してからこっちから電話するわ。」
 「……、智輝からの電話は初めてやな。楽しみにしてるわ。」
 「っ、……そうやな。ほな、また後で。」
 「了解。」
 そこで通話は終わった。
 東雲は袋を拾うと、慌てて家に入った。
 料理をしている母に話すために。


 「ただいまー。」
 「おかえりー。」
 迎えてくれたのは母だけではなく、東条がいた。
 「啓介、どうしたん?」
 隣に住む東条は弁護士の仕事が忙しく、昔のように東雲の家に来ることが珍しい。
 「おすそ分け持ってきてくれはったんよ。蟹やで、智輝。」
 答えたのは母だった。
 「弁護した依頼人のご家族が兵庫の香住の人で、蟹を送ってきてくれたんや。」
 「蟹か、久しぶりやな、楽しみやわ。ありがとう。」
 東雲は買ってきたものを母に渡しながらお礼を言った。
 東条はダイニングテーブルの椅子に座り、出されたコーヒーを飲んでいたらしい。
 「智輝も座り。紅茶いれるわ。あ、先に手を洗ってきいや。」
 「わかった。でもその前に。あんな、友達に初詣に誘われたんやけど、あの、をけら参りに」
 東雲は東条の視線を気にしながら、一気に伝えた。
 東条の性格を考えれば、後にすればいいとわかっていたが、少しでも早く藤宮に連絡したかったのだ。
 「友達?初詣に誘ってくれる友達おったんやね。」
 東雲は、返事をする前に一瞬だけ息を止めた。
 (……そこ、拾うんや)
 「最近、大学で知り合って、サークルにも入ってくれてん。そしたら、手洗ってくるわ。」
 それだけ言って、流し台の方へ身体を向ける。
 (……はよ、電話せな)

 「そしたら、手洗ってくるわ」

 藤宮に電話をして、今夜の待ち合わせ場所を決めた。それから手を洗ってキッチンに戻ると、
 料理の途中だったはずの母がダイニングテーブルをはさみ、東条と話をしていた。
 「へー、イケメンなん?」
 「そうですね。かなりの美形です。」
 「そんなイケメンやったらいっぺん、会ってみたいわ。」
 東条と母が誰の話をしているかすぐにわかった。
 だが、ここで何か言うと藪蛇だとわかっているので、手がつけられていないカップが置いてある席に黙って座った。
 「遅かったね。紅茶、冷めてるやろ。」
 「ちょうどいい。」
 言葉を少なめに返す。
 慌てたり、焦ったりしたらすぐに突つかれることになるからだ。
 「藤宮くんと電話してたんか?」
 東条の軽い探りにも表面上で落ち着いて返す。
 「うん。行けるって返事してたんや。」
 「そうか、楽しんでおいで。」
 からかわれると思い込んでいたが、東条は優しくそう言っただけだった。
 あとは、最近の近況をお互い話すていどで、東条は帰って行った。


 「智輝、友達できたらしいな。」
 夕ご飯の支度ができたと呼ばれたので、
 リビングにいくと、父が先に食卓に座っていた。
 「母さんも父さんも失礼やな。」
 智輝は蟹に目を奪われながら、文句を言う。
 「悪い、悪い。そやけど智輝から友達の話、聞いたことなかったからな。」
(だから、それが失礼やっていうねん)
 言っても無駄なので、東雲はもう何も言わなかった。
 蟹を食べるときは、静かになるものだから。


 祇園四条駅は混んでいた。
 改札を列に並んで抜けると、藤宮が待っていた。
 「智輝、こっち。」
 駆け寄る東雲より早く、藤宮が向ってきて手首をつかむ。
 「人多いからこのままで出るで。」
 手首をつかんだまま、速足で歩く藤宮についていく。
 階段で地上にでれば、そこも人でいっぱいだった。
 「しゃあないな。とりあえず丸山公園に向うわ。」
 掴まれていた手首がほどける。
 指先が触れ、ずれ、手のひらが重なった。
 体温が移ってきて、逃げる間もなく握られる。
 「智輝、人混み苦手やろ?丸山公園なら少しはマシやと思う。」
 「うん、ありがとう。」

 人の流れに押されながら、藤宮の隣を歩く。
 さっきまで、改札で立ち止まっていたはずなのに、
 もう、こうして一緒に進んでいる。

(……こんな時間に外にいるなんて、初めてや)

 予定があったわけじゃない。
 昼間に、かかってきた電話1本で今ここにいる。
 それが、思っていた以上に、胸の奥に効いていた。
 人の肩が当たる。足元が詰まる。
 ざわついた空気が、前からも横からも流れてくる。

 東雲は、藤宮の歩く速さに合わせて足を運んだ。
 一歩遅れると、すぐ横で歩調が落ちる。

 言葉はなかった。
 それでも、はぐれない距離だけが保たれている。

(……今日、会えると思ってなかった)

 だから、嬉しい、より先に、気が抜けた。
 構えなくていい。考えなくていい。ただ、隣にいる。
 その感覚が、想像以上に、心を甘くした。
 人の流れが少し緩んだところで、藤宮が、短く言った。

 「……やっぱ、人多いな」

 近い声。聞き慣れたはずなのに、今日のは、少しだけ違った。

 「うん」

 それだけ返すと、
 それ以上、言葉は続かなかった。
 でも、無言のまま並んで歩いているこの時間が、
 “たまたま”じゃないことだけは、はっきり分かった。

(……このまま、行くんやな)

 丸山公園まで。寒い夜の中を。

 丸山公園に足を踏み入れた途端、空気が変わった。
 さっきまでの喧騒が、一枚、布を外したみたいに遠ざかっていくのを感じた。

 屋台の灯りはある。人も、いる。
 それでも、さっきとは違うと感じた。

 「……ちょっと、楽やな」

 藤宮がそう言った。
 その声に、
 東雲は、思っていた以上に強く頷いてしまった。
 人混みを抜けた安心感と、ここまで一緒に歩いてきた事実が、
 同時に胸に落ちてきた。

(……あ)

 そこで、はっとした。
 今日は、突然だった。前もって決めていたわけでもない。
 それでも、藤宮は、当たり前みたいに隣にいた。
 改札で待っていて、人混みを抜けて、ここまで連れてきてくれた。
 手を繋いで、人混みが苦手な東雲のためにだ。

(……俺、今、)

 胸の奥が、急に、苦しくなった。
 寒さとは違う。人の多さとも違う。
 安心しきってしまった反動みたいな、どうしようもない感覚。
 歩く速さが、ほんの少しだけ、遅れた。

 藤宮は、すぐに気づいた。
 振り返らないまま、立ち止まるでもなく、歩調だけを合わせてくる。
 それが、決定打だった。

(……あかん)

 歩く速さが、ほんの少しだけずれた。
 それに気づいたのか、藤宮の指が、指先に触れる。
 東雲は、反射的に、そのまま手を離さなかった。
 
 東雲は、何も言わずに、握られている手に、
 ほんの少しだけ力を込めた。
 藤宮は、指を絡めてきた。
 それだけ。
 でも、その感触が胸に残った。
(……今の、俺だけの気持ちやなかった気がする) 


 

 屋台の並ぶ方へ歩くと、湯気と一緒に、だしの匂いが流れてきた。

 「……おでん、あるな」

 藤宮が言う。
 東雲は一瞬考えてから、首を振った。

 「俺、あんまり腹減ってへん。悠誠が食べるなら
  だいこん一つでええわ。一緒に食べたい。」

 藤宮は何も言わずに頷いて、屋台に向かった。
 紙の器を受け取ると、中に入っているのは、大きめのだいこんが一つ。
 湯気が立って、手にじんわり温かさが伝わった。

 「ちょうどええやろ」

 藤宮がそう言う。

 「うん」

 一口かじると、だしが染みていた。
 派手じゃない。でも、ちゃんと美味い。
 東雲は、ゆっくり噛みながら、公園の奥を見る。
 そのときだった。遠くで、低く、重たい音が響いた。

 ――ゴォン。

 一拍置いて、また、鳴る。

 「……鐘やな」

 藤宮の声は小さい。

 「うん。知恩院や」

 音は、はっきり聞こえるわけじゃない。

 それでも、空気の奥に残っていた。
 静けさが、公園の中にゆっくり広がっていく。

 だいこんを食べ終えて、東雲は、器を持ったまま立ち止まった。
 寒い。でも、嫌じゃない。
 隣に立つ藤宮の気配と、遠くの鐘の音が、不思議と噛み合っていた。

(……今年、終わるんやな)

 そう思った瞬間、胸の奥が、静かに満ちる。
 藤宮は何も言わない。東雲も、言わない。
 ただ、同じ音を聞いている。それだけで、十分だった。
 遠くで鳴る鐘の音が、もう一度、低く響いた。

 東雲は、器を持ったまま、ぼんやりと立っていた。

 (……寒い)

 そう思った瞬間だった。
 藤宮が、何も言わずに一歩近づく。
 肩が、触れた。偶然みたいな距離。でも、離れない。
 東雲が、反射的に一歩ずれようとすると、その動きを、止めるように。
 藤宮のコートの袖が、東雲の腕にかかった。

 「……じっとしとき」

 低い声。
 それだけ。

 東雲は、意味を考えるより先に、動けなくなった。
 藤宮は、東雲の肩に、自分のマフラーを半分だけかける。
 巻かない。結ばない。ただ、肩口を覆うだけ。
 次の瞬間、腰に手が触れた。引き寄せられて、距離が消える。
 「……え?」

 声が、裏返る。

 藤宮は、鐘の鳴る方を見たまま言った。

 「これなら、寒ないやろ」

 東雲の顔が、一気に熱くなる。
 耳まで、はっきり分かるくらい。

(……なに、これ)

 近い。近すぎる。
 肩に触れる布越しの体温。腰にある手。隣にある気配。
 なのに、藤宮は何も見ていない顔で、ただ鐘の音を聞いていた。

(……どうしたらええん?)

 息を吸うたびに、胸がうるさい。
 逃げ場はある。一歩離れればいいだけだ。

 でも、動いたら、この距離が終わる。
 東雲は、器を持つ手に力を入れて、結局、動かなかった。

 藤宮は、そのまま何も言わない。
 鐘の音だけが、二人の間を流れる。
 東雲は、真っ赤になった顔を、必死で隠しながら思った。

(……あかん)
(……心臓が痛い)

 鐘の音が、少し遠のいた頃だった。

 「……行こか」

 藤宮が、短く言う。腰に回っていた手が離れると、
 マフラーも外れた。自然に離れる。

 それだけで、名残惜しい。

(……何やねん、これ)

 東雲は、自分でも分かるくらい、まだ熱の残った顔のまま歩き出した。

 八坂神社の境内は、さっきよりも人の流れが落ち着いていた。
 明かりに照らされた拝殿。白い息。足元で、砂利が鳴る。
 拝殿の前は、思ったより静かだった。
 人の流れに合わせて、二人並んで進む。

 賽銭を入れて、鈴を鳴らす。

 東雲は、
 いつもより少しだけ丁寧に手を合わせた。

(……今年も、無事に過ごせますように)

 それから、ほんの一瞬、迷って。

(……一緒に、おれたらええな)

 欲張りすぎやと思って、すぐに目を開けた。

 藤宮は、もう顔を上げていて、何も言わずに一歩、下がる。
 それだけで、参拝は終わった。

 「をけら火、もらおう」

 藤宮の声に、東雲は小さく頷いた。
 藤宮は、迷わず授与所の方へ向かう。
 東雲は、頷くだけでついていった。
 火のついた縄を受け取ると、先端が、小さく揺れた。

 「……熱い?」

 藤宮が聞く。

 「いや、大丈夫」

 そう答えた直後だった。
 藤宮が、何も言わずに、東雲の手首を軽く取った。
 さっきみたいに引くわけじゃない。支えるみたいな位置。

 「ほら」

 そのまま、くるり、と回す。
 をけら火が、夜の空に、円を描いた。
 火の軌跡が、一瞬、光る。
 東雲の呼吸が、止まる。
 近い。手も、距離も。
 藤宮の指が、火から守るみたいに、東雲の手の外側に添えられていた。

(これ、わざと?)

 「……ちゃんと回さんと、消えるで」

 耳元で、低い声。
 東雲は、言葉を返せず、ただ、もう一度、回した。

 火が揺れる。藤宮の手が、動きをなぞる。
 触れているか、触れていないか、分からない距離。
 顔が、また、熱くなった。

(……ほんまに、反則や)

 藤宮は、火の様子を見て、満足そうに言った。

 「よし。消そ」

 桶の前で立ち止まり、藤宮が、そっと手を離す。

 名残が、指先に残る。
 東雲は、少しだけ名残惜しそうに、火を桶に入れた。

 ――じゅっ。

 音を立てて、火が消える。
 白い湯気が、ふわっと立ち上った。

 「……朝まで、」
 「ん?」

 藤宮が言う。

 「朝までって言うたけど、この後は特に予定はないねん。
 どうする?帰る?」

 東雲は、
 一拍置いてから、頷いた。

 「……うん」

 すっきりとした気持ちで頷いたわけではなかった。
 だが、予定がないと言われては頷くしかなかった。

 火は消えた。
 でも、胸の奥は、消えていない。
 境内を出るとき、東雲は、無意識に藤宮の袖をつかんでいた。
 すぐに気づいて、離そうとした。

 その前に。

 藤宮が、何も言わず、指を絡めてきた。
 今度は、はっきりと。東雲の思考が、止まった。

 「……迷子になったら、困るやろ」

 何でもないみたいな声。でも、手は、しっかり握られていた。
 東雲は、抵抗する気も起きず、そのまま歩き出した。

 夜は、まだ冷たい。
 でも、手のひらは、熱を持ったままだった。

 駅に向かう人の列は来た時よりもまばらで、
 間隔が空いている。
 藤宮が前を向いたまま話しだした。

 「今日は突然誘ってごめんな。もっと前に誘ってたらもうちょっと一緒におれるようにできたのにな。」

 藤宮の言葉に、
 離れがたい気持ちなのは自分だけじゃない気がした。

 「この間のクリスマスイブもそうやけど、今日も大晦日の初詣やったら
 急でも誘う理由にはなる。ってそう思って誘った。」

 一拍置いてから、続ける。

 「……正直言うとな」

 藤宮は小さく息を吐いた。

 「毎日でも会いたいって思ってる。でも、それ言うのは抵抗がある。」
 「……浮かれてるみたいやしな」

 口元だけが、ほんの少し緩んだ。

 「悠誠の気持ち、分かる。毎日会いたいって」

 一度言葉を切ってから続けた。

 「ちゃんと言葉にはなってなかったけど、
 初めて電話もらったとき、声が聞けて嬉しかった。
 今日も、悠誠からの電話やと分かって、慌てて出た」

 二人の歩く速度はゆっくりになり、絡めた指に力が入った。

 「今日も悠誠が気遣って歩調を合わせてくれたこと、マフラー半分こしたこと、
 全部嬉しかった。今みたいに手を繋ぐのも嬉しい。」

 耳と頬が一気に熱くなるのを感じて、東雲は今、赤面しているとわかった。
 でも、それを無視して恥ずかしくても伝えないといけないのだと思った。

 「さっき、帰る?って聞かれたときは淋しかった。これって、悠誠の気持ちと同じってことやろ?」

 東雲は横に並んで歩く、藤宮に顔をむけて言い切った。
 藤宮は東雲の言葉を聞いて、立ち止まってしまった。
 間隔が空いているとはいえ、通行の邪魔になると思った東雲は、
 藤宮を促しふたたび歩き出した。

 「同じやと思いたい。いや、同じやと思う。」

 藤宮は東雲の問いにはっきりと答えた。

 「それやったら良かった。」

 駅の明かりが見えてきた。

 人の気配が増えて、
 さっきまでの静けさが、少しずつ剥がれていく。

 藤宮は、繋いだ手を離さないまま、
 改札の前で立ち止まった。

 「……ここまでやな」

 東雲は、ゆっくり頷く。

 名残惜しさを言葉にするほど、子どもじゃない。
 でも、何もなかった顔で別れるほど、平気でもなかった。

 「また、学校で」

 藤宮がそう言う。

 「……うん」

 それ以上、言葉を足す必要はなかった。