◇ ◇ ◇
あの部室に行ってから、頭の中がずっと落ち着かない。
理由は分かっている。
藤宮さんだ。
優しかった。
声を荒げることもなく、否定もしなかった。
怖かった、という私の言葉を、そのまま受け取ってくれた。
――それって、簡単なことじゃない。
誰にでもできるふりをして、実際はできない人のほうが多い。
考えすぎじゃない?
気にしすぎだよ。
そう言われるのが普通だ。
でも、藤宮さんは違った。
私の話を遮らず、視線を逸らさず、
「怖かったんは、ほんまやろ」
そう言ってくれた。
あの瞬間、胸の奥がじん、と熱くなった。
(……わかってくれる人なんだ)
そう思った。
しかも、あの場所。
あんなに静かで、安心できる部屋。
偶然入ったなんて言っていたけれど、
今思えば、導かれたみたいだった。
数日後にまた行ったときも、
藤宮さんは変わらなかった。
前と同じ距離で、同じ声で、
私の話を聞いてくれた。
特別扱いされてるのかも、そう思えた。
(……私だけ、だよね)
そう思うと、胸が少し軽くなる。
隣にいた金髪の人は、落ち着いていて、冷静で、
でも、藤宮さんほど、こちらを見てはいなかった。
視線も、言葉も、
私に向いていたのは、藤宮さんのほうだ。
だからきっと――
私が困っているから、助けてくれたんだ。
私だから、だ。
そう考えると、全部がつながる気がした。
あの優しさも、
あの沈黙も、
あの、否定しなかった時間も。
ふと、隣にいたもう一人の存在が、
視界の端で引っかかった。
藤宮さんの隣にいる理由が、
私には、どうしても分からなかった。
胸の奥で、そう決めつける。
(……邪魔、なんだ)
部室の扉を開けたとき、藤宮さんが先に気づいた。
一瞬だけ、視線が合う。
それから、ほんの少し、目元が緩んだ。
(……今の)
誰に向けたものか、分からないほど短い変化。
でも、私には分かった気がした。
前に来たときと、同じだ。
私が入ってきた瞬間だけ、表情が変わる。
「どうぞ」
そう言って椅子を勧められる。
声も、距離も、前と変わらないはずなのに、
胸の奥が静かにざわついた。
(……やっぱり)
あの金髪の人が隣にいても、
藤宮さんは、私を見る。
話をしているときも、
考えている沈黙の間も、
視線がこちらに残っている。
特別な言葉は、何もない。
でも――
私が話し終わると、
必ず一拍、置いてから答える。
急がせない。
切らない。
(……待ってくれてる)
それはきっと、
誰にでも向ける態度じゃない。
そう思った瞬間、
部室の空気が、少しだけ違って見えた。
この場所は、
私と藤宮さんのためにある。
そう考えると、
隣にいるもう一人の存在が、
急に、余分に思えた。
藤宮さんと一緒にいるあの人のことを調べよう。
◇ ◇ ◇
それは、はっきりした出来事として起きたわけじゃなかった。
最初は、視線だった。
構内を歩いていると、
どこかで見た気がする後ろ姿が、少し離れた場所にある。
立ち止まると、向こうも止まる。
歩き出すと、少し遅れて動く。
(……気のせい、か)
そう思おうとして、視線を前に戻す。
前に自分が言った言葉が、ふと頭をよぎった。
――事実と、解釈を分ける。
証拠はない。
だから、考えすぎないようにする。
次に起きたのは、噂だった。
学内の掲示板の前で足を止めたとき、
少し離れた場所にいた学生たちの声が、ふと耳に入った。
「旧校舎の部室、ちょっと怖いって聞いたけど」
「相談に行った女の子がおったらしいで」
「何があったん?」
「はっきりせんけど、
怖い思いしたって言うてたって」
智輝は、そのまま足を進めた。
振り返らなかった。
聞き返すこともしなかった。
名前は出ていない。
サークル名も、誰のことかも、曖昧なままだ。
それでも、
胸の奥にだけ、嫌な感触が残った。
否定しようにも、
何を否定すればいいのか分からない。
数は少ないが、他のサークルの部室もあるのだ。
その頃、智輝はまだ知らない。
その噂の中で、
名前を濁されながら、
“邪魔な存在”として語られているのが、
自分だということを。
違和感が、確信に変わったのは、
ほんの些細な会話だった。
講義が終わったあと、
藤宮と並んで歩いていると、
前を歩く学生の声が、風に乗って届いた。
「……あの人でしょ」
「ほら、旧校舎の」
「女の子相談に来て、変なことされたって」
足が、止まる。
藤宮も、同時に止まった。
「……俺らのこと?」
藤宮が、隣の東雲を見て言った。
藤宮の声は低かった。
けれど、問いというより確認だった。
智輝は、返事ができなかった。
“俺ら”と言われたはずなのに、
胸の奥で、嫌な感覚がひっかかる。
噂の中で、
主語が曖昧になるとき、
責任は一番弱いところに落ちる。
(……まさか)
部室に入ったとき、東雲は違和感に気づいた。
藤宮がいない。
机の上には鞄が置かれている。
ほんの少し前まで、確かにここにいたはずだ。
代わりに、あの女の子が立っていた。
扉の内側、逃げ道を塞ぐような位置で。
「……藤宮は?」
問いかけると、女の子は一瞬だけ視線を泳がせてから、微笑った。
「すぐ戻りますよ。
ちょっと、呼び出しただけなので」
その言い方が、引っかかった。
説明しているようで、何も説明していない。
東雲は、無意識に一歩引いた。
それを見て、女の子の表情がわずかに歪む。
「……あなた、いつも一緒ですよね」
声の調子は穏やかだ。
けれど、言葉の端に、妙な圧があった。
「藤宮さん、優しいから。
誰にでもそうなんです」
東雲は、すぐには返事をしなかった。
「でも、
私には、特別なんです」
その瞬間、空気が変わる。
「困ってるときに、
ちゃんと向き合ってくれた。
否定しなかった。
あんなふうに、話を聞いてくれたのは、藤宮さんだけ」
一歩、近づかれる。
距離が、急に詰まる。
「……藤宮さん、優しいから。だからあなたに付き合ってあげてるんですよね?
一人でいるあなたに同情してるんですよ。」
それは、はっきりとした敵意だった。
「……それ、あなたの考えやと思う」
東雲は、女の子から視線を外さなかった。
「……それは違う。
同情で一緒におるわけやない」
「悠誠がどう思ってるかは、
俺にも、あなたにも決められへん」
女の子は、一瞬、言葉を失った。
「――何してるん」
藤宮の声だった。
低くて、迷いのない声。
女の子が振り返る。
驚きと、安堵と、期待が混ざった表情。
「藤宮さん……」
藤宮は、まっすぐ東雲の方へ歩いてきた。
女の子の横を、視線も向けずに通り過ぎる。
そして、東雲の前に立った。
「大丈夫か」
短い言葉。
でも、確かに東雲に向けられている。
藤宮は、東雲の腕を取った。
強くはないが、拒否を許さない力。
「俺らが出てる間に帰って」
それだけ言って、扉へ向かう。
女の子が慌てて声を上げた。
「待ってください!
私、悪いことなんて――」
藤宮は立ち止まらなかった。
振り返りもしない。
「……もうええ」
藤宮は、それ以上何も言わなかった。
廊下に出た瞬間、
東雲は、自分の心臓が早鐘を打っていることに気づく。
藤宮の手は、まだ離れていない。
少しだけ、力が強まる。
「 部屋を出て、廊下に出たところで、
藤宮は足を止めた。
「……何があったん」
問いというより、確認だった。
東雲は一拍置いてから、短く答える。
「同情やって言われた。
悠誠が俺と一緒におるのは、
優しいから付き合ってるだけやって」
事実だけを並べる。
感情は、そこには入れなかった。
藤宮は、少しだけ視線を落とした。
「……なるほどな」
それから、間を置かずに続ける。
「それで、
智輝はどう返したん」
確認は、そこだった。
東雲は一瞬だけ迷ってから言う。
「同情で一緒におるわけやないって」
藤宮は、ほんのわずかに息を吐いた。
「俺もそう答えるわ」
それ以上は言わない。
藤宮は前を向いたまま、歩き出した。
東雲が隣に並ぶと、歩幅を合わせる。
詰めるでもなく、離れるでもない距離。
それが、
さっきの答えを、
そのまま受け取った合図やった。
「……行こ」
藤宮の声は低く、
いつもと変わらない。
東雲は、小さく頷いた。
その日は、そうやって終わったはずだった。
数日後。
駅へ向かう途中で、また、気配を感じた。
人の流れが少し途切れる場所で、
背中に、視線の気配を感じる。
振り返らなくても分かった。
少し離れた位置に、あの女の子がいる。
追ってくるわけでもない。
声をかけてくるわけでもない。
ただ、同じ速度で歩き、
同じ信号で止まり、
同じ改札を抜ける。
(……まだ、おる)
足を止めると、
向こうも止まった。
距離は保たれたまま。
逃げもしないし、近づきもしない。
――見ている。
東雲が、ゆっくり振り返る。
視線が合った。
女の子は、にこりと笑った。
敵意を隠すための、作った笑顔。
その瞬間、
東雲の中で、はっきり理解する。
(……俺や)
隠した悪意を、
向けられているのは、自分だ。
背中に、ひやりとしたものが走る。
言葉を選ぶより先に、
横から、腕を取られた。
「……行くで」
藤宮だった。
東雲を自分の背中側に引き寄せ、
女の子との間に、自然に身体を入れる。
振り返らない。
声も荒げない。
ただ、淡々と言った。
「これ以上、関わらへん」
女の子が、慌てて言葉を重ねる。
「違います、私……」
「話を聞いてもらえるだけで……」
一歩前に出て東雲は言った。
「話を聞いたのは俺や。でも、それも終わりや。」
「あなたに、」
藤宮は、遮った。
「そうや、もう終わりや」
それだけだった。
説明もない。
理由もない。
東雲の腕を引いたまま、
藤宮は歩き出す。
女の子の声は、追ってこなかった。
しばらく、無言で歩く。
駅前の雑踏に紛れて、
さっきまでの空気が、ゆっくり薄まっていく。
東雲は、
自分の鼓動が、
いつの間にか落ち着いていることに気づいた。
怖さは、もう残っていない。
代わりに、さっきの場面だけが、
静かに反芻される。
藤宮は、あの場面で、
立ち止まらなかった。
言葉を探す様子もなく、
そのまま、切るべきところを切った。
いつもなら、
一度は考え込んでいたはずや。
東雲は、
そこに気づいて、少しだけ息を吐いた。
変わった、と言うほどじゃない。
でも、同じでもない。
ちゃんと、
一歩、進んでいた。
東雲は、
引かれた腕の感触を、遅れて思い出す。
強くもなく、
確かめるようでもない。
いつもの距離を、
そのまま保つための動き。
それが、
いちばんしっくりきた。
東雲は、何も言わず、藤宮の隣を歩き続けた。
「……大丈夫か」
藤宮が、歩調を落として聞く。
東雲は、少し間を置いてから頷いた。
「大丈夫」
嘘ではない。
怖さは、もう引いている。
でも、その代わりに、
別の感情が、胸の奥で暴れていた。
藤宮は、まだ手を離していない。
無意識なのか、意図的なのか、分からない。
でも、
“守るため”に取った手が、
“離さない”に変わっているのは、東雲にも分かった。
(……あかん)
分かっているのに、心臓が勝手に反応する。
「……悠誠」
呼ぶと、藤宮が振り返る。
「さっきの」
言いかけて、言葉が詰まる。
何を言えばいいのか、分からない。
感謝とも、確認とも、違う。
藤宮は、少し困ったように眉を下げてから、
短く言った。
「当たり前やろ」
それだけだった。
説明も、照れもない。
でも、その一言で、
東雲の胸の奥が、きゅっと締まる。
東雲は、ぎゅっと握られた手を、
今度は自分から、少しだけ握り返した。
藤宮が、一瞬だけ目を見開く。
それから、何も言わず、そのまま歩き続けた。
繋いだ手の温度が、
やけに現実的で、逃げ場がない。
東雲は、胸の奥の高鳴りを、
否定するのをやめた。
これは、不安じゃない。
恐怖でもない。
恋人として、
深く踏み込んでしまった証だ。
そしてもう、
藤宮の隣から、
簡単に離れられないことも。
◇ ◇ ◇
歩きながら、藤宮は自分の中の違和感を探していた。
さっきのやり取りを、
後悔しているわけじゃない。
言い過ぎたとも思っていない。
むしろ、あれ以外の選択肢が、
最初から存在しなかった。
ただ――
自分でも少し、驚いている。
(……こんなふうに、言い切るんやな)
曖昧に流すこともできた。
その場を穏便に収めることも、
言葉を選んで、角を立てずに終わらせることも。
前の自分なら、きっとそうしていた。
誰も傷つかない距離で、
誰にも選ばれない位置に立つ。
それが、いちばん安全だと知っていたから。
でも、今日は違った。
女の子の言葉を聞いた瞬間、
頭で考える前に、
切らなあかん線が、はっきり見えた。
迷いは、なかった。
(……好きになるって、こういうことか)
東雲の隣に立った瞬間、
濁す選択肢が消えていた。
曖昧にしてしまえば、
自分が嘘をつくことになる。
それを、もう、できなかった。
藤宮は、歩調を落とし、
東雲の横顔を盗み見る。
平静を装っているけれど、
胸の奥がざわついているのが分かる。
自分と、同じだ。
恋人になったから、変わったわけじゃない。
好きだと分かったから、急に強くなったわけでもない。
ただ、
“濁せない性質”が、
誰かに向いた。
それだけだ。
藤宮は、小さく息を吐く。
曖昧でいられなくなる分、
決断する責任も、全部引き受ける。
それが、
東雲の隣に立つ、ということなんだろう。
「……なあ」
声をかけると、
東雲がこちらを見る。
藤宮は、少し考えてから言った。
「俺な」
「好きになったら、
もう誤魔化されへんみたい」
説明でも、言い訳でもない。
ただの事実確認だ。
東雲は、一瞬きょとんとしてから、
小さく笑った。
「……ふーん」
その返事に、
藤宮は肩の力が抜けた。
それから数日、
大学は何事もなかったように回っていた。
噂は、いつの間にか別の話題に上書きされ、
旧校舎の部室も、また静けさを取り戻している。
藤宮と東雲は、いつも通りSSの部屋にいた。
窓際の席。
机の上の本。
午後の、少し眠くなる時間帯。
違うのは、距離だけだ。
椅子の間隔が、ほんの数センチ縮んでいる。
肘が触れそうで、触れない位置。
東雲は本を読んでいるふりをしながら、
その距離を意識していた。
藤宮は、ノートを開いたまま、
時々、何でもない顔でこちらを見る。
確認するような視線。
問いかけでも、警戒でもない。
(……おるな、って顔)
東雲は、気づかないふりをしてページをめくる。
沈黙は、心地いい。
でも、以前とは違う。
言葉がなくても、
ちゃんと“二人でいる”という感覚がある。
不意に、藤宮が言った。
「……寒ない?」
季節はもう、十一月だ。
東雲は一瞬考えてから、首を振る。
「別に」
即答すると、
藤宮が少し困ったように笑う。
「そっか」
それだけで終わると思ったのに、
次の瞬間、
藤宮の膝が、そっとこちらに寄ってきた。
触れる。
逃げない。
ただ、それだけ。
東雲の心臓が、少しだけ跳ねる。
(……ずるい)
何も言わずに、
当たり前みたいに距離を詰める。
でも、嫌じゃない。
むしろ、
言葉が要らないことが、嬉しい。
東雲は、ゆっくり本を閉じた。
「……なあ」
「ん?」
藤宮は、こちらを見ずに返事をする。
「最近、やたら正直やな」
一瞬、間があった。
それから、藤宮が小さく息を吐く。
「しゃあないやろ」
東雲の方を見る。
「誤魔化せんって分かってもうたから」
その言い方が、
責任でも覚悟でもなく、
ただの事実みたいで、
東雲は思わず笑った。
「……それ、前からやと思うで」
藤宮は眉を上げる。
「そうなん?」
「うん。
せやから、好きになったんやし」
言ったあとで、
自分でも少し驚く。
こんなふうに、
軽く言えるようになるとは思っていなかった。
藤宮は、一瞬だけ黙ってから、
照れもせず、視線を逸らしもせず、言った。
「……俺も」
それだけで、十分だった。
膝が触れたまま、
肩も、少し近い。
部室には、
ページをめくる音と、
外を通る風の音だけがある。
事件は終わった。
特別なことも、もう起きない。
それでも――
この何でもない午後が、
確かに“一緒にいる時間”だと、
二人とも分かっていた。
静かで、甘くて、
逃げ場のない日常。
それが、
今の二人には、ちょうどよかった。
あの部室に行ってから、頭の中がずっと落ち着かない。
理由は分かっている。
藤宮さんだ。
優しかった。
声を荒げることもなく、否定もしなかった。
怖かった、という私の言葉を、そのまま受け取ってくれた。
――それって、簡単なことじゃない。
誰にでもできるふりをして、実際はできない人のほうが多い。
考えすぎじゃない?
気にしすぎだよ。
そう言われるのが普通だ。
でも、藤宮さんは違った。
私の話を遮らず、視線を逸らさず、
「怖かったんは、ほんまやろ」
そう言ってくれた。
あの瞬間、胸の奥がじん、と熱くなった。
(……わかってくれる人なんだ)
そう思った。
しかも、あの場所。
あんなに静かで、安心できる部屋。
偶然入ったなんて言っていたけれど、
今思えば、導かれたみたいだった。
数日後にまた行ったときも、
藤宮さんは変わらなかった。
前と同じ距離で、同じ声で、
私の話を聞いてくれた。
特別扱いされてるのかも、そう思えた。
(……私だけ、だよね)
そう思うと、胸が少し軽くなる。
隣にいた金髪の人は、落ち着いていて、冷静で、
でも、藤宮さんほど、こちらを見てはいなかった。
視線も、言葉も、
私に向いていたのは、藤宮さんのほうだ。
だからきっと――
私が困っているから、助けてくれたんだ。
私だから、だ。
そう考えると、全部がつながる気がした。
あの優しさも、
あの沈黙も、
あの、否定しなかった時間も。
ふと、隣にいたもう一人の存在が、
視界の端で引っかかった。
藤宮さんの隣にいる理由が、
私には、どうしても分からなかった。
胸の奥で、そう決めつける。
(……邪魔、なんだ)
部室の扉を開けたとき、藤宮さんが先に気づいた。
一瞬だけ、視線が合う。
それから、ほんの少し、目元が緩んだ。
(……今の)
誰に向けたものか、分からないほど短い変化。
でも、私には分かった気がした。
前に来たときと、同じだ。
私が入ってきた瞬間だけ、表情が変わる。
「どうぞ」
そう言って椅子を勧められる。
声も、距離も、前と変わらないはずなのに、
胸の奥が静かにざわついた。
(……やっぱり)
あの金髪の人が隣にいても、
藤宮さんは、私を見る。
話をしているときも、
考えている沈黙の間も、
視線がこちらに残っている。
特別な言葉は、何もない。
でも――
私が話し終わると、
必ず一拍、置いてから答える。
急がせない。
切らない。
(……待ってくれてる)
それはきっと、
誰にでも向ける態度じゃない。
そう思った瞬間、
部室の空気が、少しだけ違って見えた。
この場所は、
私と藤宮さんのためにある。
そう考えると、
隣にいるもう一人の存在が、
急に、余分に思えた。
藤宮さんと一緒にいるあの人のことを調べよう。
◇ ◇ ◇
それは、はっきりした出来事として起きたわけじゃなかった。
最初は、視線だった。
構内を歩いていると、
どこかで見た気がする後ろ姿が、少し離れた場所にある。
立ち止まると、向こうも止まる。
歩き出すと、少し遅れて動く。
(……気のせい、か)
そう思おうとして、視線を前に戻す。
前に自分が言った言葉が、ふと頭をよぎった。
――事実と、解釈を分ける。
証拠はない。
だから、考えすぎないようにする。
次に起きたのは、噂だった。
学内の掲示板の前で足を止めたとき、
少し離れた場所にいた学生たちの声が、ふと耳に入った。
「旧校舎の部室、ちょっと怖いって聞いたけど」
「相談に行った女の子がおったらしいで」
「何があったん?」
「はっきりせんけど、
怖い思いしたって言うてたって」
智輝は、そのまま足を進めた。
振り返らなかった。
聞き返すこともしなかった。
名前は出ていない。
サークル名も、誰のことかも、曖昧なままだ。
それでも、
胸の奥にだけ、嫌な感触が残った。
否定しようにも、
何を否定すればいいのか分からない。
数は少ないが、他のサークルの部室もあるのだ。
その頃、智輝はまだ知らない。
その噂の中で、
名前を濁されながら、
“邪魔な存在”として語られているのが、
自分だということを。
違和感が、確信に変わったのは、
ほんの些細な会話だった。
講義が終わったあと、
藤宮と並んで歩いていると、
前を歩く学生の声が、風に乗って届いた。
「……あの人でしょ」
「ほら、旧校舎の」
「女の子相談に来て、変なことされたって」
足が、止まる。
藤宮も、同時に止まった。
「……俺らのこと?」
藤宮が、隣の東雲を見て言った。
藤宮の声は低かった。
けれど、問いというより確認だった。
智輝は、返事ができなかった。
“俺ら”と言われたはずなのに、
胸の奥で、嫌な感覚がひっかかる。
噂の中で、
主語が曖昧になるとき、
責任は一番弱いところに落ちる。
(……まさか)
部室に入ったとき、東雲は違和感に気づいた。
藤宮がいない。
机の上には鞄が置かれている。
ほんの少し前まで、確かにここにいたはずだ。
代わりに、あの女の子が立っていた。
扉の内側、逃げ道を塞ぐような位置で。
「……藤宮は?」
問いかけると、女の子は一瞬だけ視線を泳がせてから、微笑った。
「すぐ戻りますよ。
ちょっと、呼び出しただけなので」
その言い方が、引っかかった。
説明しているようで、何も説明していない。
東雲は、無意識に一歩引いた。
それを見て、女の子の表情がわずかに歪む。
「……あなた、いつも一緒ですよね」
声の調子は穏やかだ。
けれど、言葉の端に、妙な圧があった。
「藤宮さん、優しいから。
誰にでもそうなんです」
東雲は、すぐには返事をしなかった。
「でも、
私には、特別なんです」
その瞬間、空気が変わる。
「困ってるときに、
ちゃんと向き合ってくれた。
否定しなかった。
あんなふうに、話を聞いてくれたのは、藤宮さんだけ」
一歩、近づかれる。
距離が、急に詰まる。
「……藤宮さん、優しいから。だからあなたに付き合ってあげてるんですよね?
一人でいるあなたに同情してるんですよ。」
それは、はっきりとした敵意だった。
「……それ、あなたの考えやと思う」
東雲は、女の子から視線を外さなかった。
「……それは違う。
同情で一緒におるわけやない」
「悠誠がどう思ってるかは、
俺にも、あなたにも決められへん」
女の子は、一瞬、言葉を失った。
「――何してるん」
藤宮の声だった。
低くて、迷いのない声。
女の子が振り返る。
驚きと、安堵と、期待が混ざった表情。
「藤宮さん……」
藤宮は、まっすぐ東雲の方へ歩いてきた。
女の子の横を、視線も向けずに通り過ぎる。
そして、東雲の前に立った。
「大丈夫か」
短い言葉。
でも、確かに東雲に向けられている。
藤宮は、東雲の腕を取った。
強くはないが、拒否を許さない力。
「俺らが出てる間に帰って」
それだけ言って、扉へ向かう。
女の子が慌てて声を上げた。
「待ってください!
私、悪いことなんて――」
藤宮は立ち止まらなかった。
振り返りもしない。
「……もうええ」
藤宮は、それ以上何も言わなかった。
廊下に出た瞬間、
東雲は、自分の心臓が早鐘を打っていることに気づく。
藤宮の手は、まだ離れていない。
少しだけ、力が強まる。
「 部屋を出て、廊下に出たところで、
藤宮は足を止めた。
「……何があったん」
問いというより、確認だった。
東雲は一拍置いてから、短く答える。
「同情やって言われた。
悠誠が俺と一緒におるのは、
優しいから付き合ってるだけやって」
事実だけを並べる。
感情は、そこには入れなかった。
藤宮は、少しだけ視線を落とした。
「……なるほどな」
それから、間を置かずに続ける。
「それで、
智輝はどう返したん」
確認は、そこだった。
東雲は一瞬だけ迷ってから言う。
「同情で一緒におるわけやないって」
藤宮は、ほんのわずかに息を吐いた。
「俺もそう答えるわ」
それ以上は言わない。
藤宮は前を向いたまま、歩き出した。
東雲が隣に並ぶと、歩幅を合わせる。
詰めるでもなく、離れるでもない距離。
それが、
さっきの答えを、
そのまま受け取った合図やった。
「……行こ」
藤宮の声は低く、
いつもと変わらない。
東雲は、小さく頷いた。
その日は、そうやって終わったはずだった。
数日後。
駅へ向かう途中で、また、気配を感じた。
人の流れが少し途切れる場所で、
背中に、視線の気配を感じる。
振り返らなくても分かった。
少し離れた位置に、あの女の子がいる。
追ってくるわけでもない。
声をかけてくるわけでもない。
ただ、同じ速度で歩き、
同じ信号で止まり、
同じ改札を抜ける。
(……まだ、おる)
足を止めると、
向こうも止まった。
距離は保たれたまま。
逃げもしないし、近づきもしない。
――見ている。
東雲が、ゆっくり振り返る。
視線が合った。
女の子は、にこりと笑った。
敵意を隠すための、作った笑顔。
その瞬間、
東雲の中で、はっきり理解する。
(……俺や)
隠した悪意を、
向けられているのは、自分だ。
背中に、ひやりとしたものが走る。
言葉を選ぶより先に、
横から、腕を取られた。
「……行くで」
藤宮だった。
東雲を自分の背中側に引き寄せ、
女の子との間に、自然に身体を入れる。
振り返らない。
声も荒げない。
ただ、淡々と言った。
「これ以上、関わらへん」
女の子が、慌てて言葉を重ねる。
「違います、私……」
「話を聞いてもらえるだけで……」
一歩前に出て東雲は言った。
「話を聞いたのは俺や。でも、それも終わりや。」
「あなたに、」
藤宮は、遮った。
「そうや、もう終わりや」
それだけだった。
説明もない。
理由もない。
東雲の腕を引いたまま、
藤宮は歩き出す。
女の子の声は、追ってこなかった。
しばらく、無言で歩く。
駅前の雑踏に紛れて、
さっきまでの空気が、ゆっくり薄まっていく。
東雲は、
自分の鼓動が、
いつの間にか落ち着いていることに気づいた。
怖さは、もう残っていない。
代わりに、さっきの場面だけが、
静かに反芻される。
藤宮は、あの場面で、
立ち止まらなかった。
言葉を探す様子もなく、
そのまま、切るべきところを切った。
いつもなら、
一度は考え込んでいたはずや。
東雲は、
そこに気づいて、少しだけ息を吐いた。
変わった、と言うほどじゃない。
でも、同じでもない。
ちゃんと、
一歩、進んでいた。
東雲は、
引かれた腕の感触を、遅れて思い出す。
強くもなく、
確かめるようでもない。
いつもの距離を、
そのまま保つための動き。
それが、
いちばんしっくりきた。
東雲は、何も言わず、藤宮の隣を歩き続けた。
「……大丈夫か」
藤宮が、歩調を落として聞く。
東雲は、少し間を置いてから頷いた。
「大丈夫」
嘘ではない。
怖さは、もう引いている。
でも、その代わりに、
別の感情が、胸の奥で暴れていた。
藤宮は、まだ手を離していない。
無意識なのか、意図的なのか、分からない。
でも、
“守るため”に取った手が、
“離さない”に変わっているのは、東雲にも分かった。
(……あかん)
分かっているのに、心臓が勝手に反応する。
「……悠誠」
呼ぶと、藤宮が振り返る。
「さっきの」
言いかけて、言葉が詰まる。
何を言えばいいのか、分からない。
感謝とも、確認とも、違う。
藤宮は、少し困ったように眉を下げてから、
短く言った。
「当たり前やろ」
それだけだった。
説明も、照れもない。
でも、その一言で、
東雲の胸の奥が、きゅっと締まる。
東雲は、ぎゅっと握られた手を、
今度は自分から、少しだけ握り返した。
藤宮が、一瞬だけ目を見開く。
それから、何も言わず、そのまま歩き続けた。
繋いだ手の温度が、
やけに現実的で、逃げ場がない。
東雲は、胸の奥の高鳴りを、
否定するのをやめた。
これは、不安じゃない。
恐怖でもない。
恋人として、
深く踏み込んでしまった証だ。
そしてもう、
藤宮の隣から、
簡単に離れられないことも。
◇ ◇ ◇
歩きながら、藤宮は自分の中の違和感を探していた。
さっきのやり取りを、
後悔しているわけじゃない。
言い過ぎたとも思っていない。
むしろ、あれ以外の選択肢が、
最初から存在しなかった。
ただ――
自分でも少し、驚いている。
(……こんなふうに、言い切るんやな)
曖昧に流すこともできた。
その場を穏便に収めることも、
言葉を選んで、角を立てずに終わらせることも。
前の自分なら、きっとそうしていた。
誰も傷つかない距離で、
誰にも選ばれない位置に立つ。
それが、いちばん安全だと知っていたから。
でも、今日は違った。
女の子の言葉を聞いた瞬間、
頭で考える前に、
切らなあかん線が、はっきり見えた。
迷いは、なかった。
(……好きになるって、こういうことか)
東雲の隣に立った瞬間、
濁す選択肢が消えていた。
曖昧にしてしまえば、
自分が嘘をつくことになる。
それを、もう、できなかった。
藤宮は、歩調を落とし、
東雲の横顔を盗み見る。
平静を装っているけれど、
胸の奥がざわついているのが分かる。
自分と、同じだ。
恋人になったから、変わったわけじゃない。
好きだと分かったから、急に強くなったわけでもない。
ただ、
“濁せない性質”が、
誰かに向いた。
それだけだ。
藤宮は、小さく息を吐く。
曖昧でいられなくなる分、
決断する責任も、全部引き受ける。
それが、
東雲の隣に立つ、ということなんだろう。
「……なあ」
声をかけると、
東雲がこちらを見る。
藤宮は、少し考えてから言った。
「俺な」
「好きになったら、
もう誤魔化されへんみたい」
説明でも、言い訳でもない。
ただの事実確認だ。
東雲は、一瞬きょとんとしてから、
小さく笑った。
「……ふーん」
その返事に、
藤宮は肩の力が抜けた。
それから数日、
大学は何事もなかったように回っていた。
噂は、いつの間にか別の話題に上書きされ、
旧校舎の部室も、また静けさを取り戻している。
藤宮と東雲は、いつも通りSSの部屋にいた。
窓際の席。
机の上の本。
午後の、少し眠くなる時間帯。
違うのは、距離だけだ。
椅子の間隔が、ほんの数センチ縮んでいる。
肘が触れそうで、触れない位置。
東雲は本を読んでいるふりをしながら、
その距離を意識していた。
藤宮は、ノートを開いたまま、
時々、何でもない顔でこちらを見る。
確認するような視線。
問いかけでも、警戒でもない。
(……おるな、って顔)
東雲は、気づかないふりをしてページをめくる。
沈黙は、心地いい。
でも、以前とは違う。
言葉がなくても、
ちゃんと“二人でいる”という感覚がある。
不意に、藤宮が言った。
「……寒ない?」
季節はもう、十一月だ。
東雲は一瞬考えてから、首を振る。
「別に」
即答すると、
藤宮が少し困ったように笑う。
「そっか」
それだけで終わると思ったのに、
次の瞬間、
藤宮の膝が、そっとこちらに寄ってきた。
触れる。
逃げない。
ただ、それだけ。
東雲の心臓が、少しだけ跳ねる。
(……ずるい)
何も言わずに、
当たり前みたいに距離を詰める。
でも、嫌じゃない。
むしろ、
言葉が要らないことが、嬉しい。
東雲は、ゆっくり本を閉じた。
「……なあ」
「ん?」
藤宮は、こちらを見ずに返事をする。
「最近、やたら正直やな」
一瞬、間があった。
それから、藤宮が小さく息を吐く。
「しゃあないやろ」
東雲の方を見る。
「誤魔化せんって分かってもうたから」
その言い方が、
責任でも覚悟でもなく、
ただの事実みたいで、
東雲は思わず笑った。
「……それ、前からやと思うで」
藤宮は眉を上げる。
「そうなん?」
「うん。
せやから、好きになったんやし」
言ったあとで、
自分でも少し驚く。
こんなふうに、
軽く言えるようになるとは思っていなかった。
藤宮は、一瞬だけ黙ってから、
照れもせず、視線を逸らしもせず、言った。
「……俺も」
それだけで、十分だった。
膝が触れたまま、
肩も、少し近い。
部室には、
ページをめくる音と、
外を通る風の音だけがある。
事件は終わった。
特別なことも、もう起きない。
それでも――
この何でもない午後が、
確かに“一緒にいる時間”だと、
二人とも分かっていた。
静かで、甘くて、
逃げ場のない日常。
それが、
今の二人には、ちょうどよかった。
