S.S:Silent Society

十一月に入って、大学構内の景色はゆっくり色を変えていた。
昼間はまだ陽が残るが、夕方になると風が冷たく、講義棟の間を抜ける空気が重くなる。
人の数は変わらないのに、歩く足音だけが間延びして聞こえた。

その日、藤宮と東雲がSSの部室に戻ったのは、講義が終わって少し経ってからだった。
扉を開けた瞬間、藤宮は足を止める。
部屋の空気が、いつもより張りつめている。

壁際の椅子に、見知らぬ女の子が座っていた。

背中を背もたれにつけず、膝の上で組んだ両手に力が入っている。
視線は床と窓の間を行き来し、扉の音に肩が小さく跳ねた。

藤宮は、すぐには声をかけなかった。
距離を測るように一拍置き、低い声で言う。

「……驚かせてごめん。ここ、部室やから」

女の子は一瞬こちらを見て、すぐに視線を逸らした。
拒む動きではない。
ただ、どう反応していいか分からない様子だった。

藤宮は机に向かい、紙コップに水を注ぐ。
音を立てないように歩き、女の子の手が届く位置に置いた。

「飲めそうやったら。無理せんでええ」

女の子はしばらく動かなかったが、やがて両手でコップを持ち、一口だけ水を含む。
喉が鳴り、呼吸が少しだけゆっくりになる。

「……ここ、どこですか」

掠れた声だった。

「サークルの部室。今は俺らしかおらん」

「サークル……?」

「Silent Society。人の話聞いたり、調べもんしたりや」

東雲がいつも通りの調子で言う。
女の子は首を傾げ、小さく頭を下げた。

「ごめんなさい。勝手に入って……ドアが開いてて」

藤宮は一瞬だけ視線を逸らす。

「ごめん。鍵、かけ忘れてた」

東雲が短く息を吐く。
藤宮は、そのまま続けた。

「旧校舎は、人の出入り少ないし。使ってへん部屋やと思ったんやろ。大丈夫や」

女の子は、小さく頷く。
指先が、コップの縁をなぞる。

少しの沈黙のあと、女の子が口を開いた。

「……最近、誰かに見られてる気がして」

藤宮は表情を変えずに聞いた。
東雲が、間を詰めすぎない声で問いかける。

「いつ頃から?」

「ここ数日……だと思います。でも、はっきりは」

「声かけられたことは?」

女の子は首を振る。

「ないです。でも……帰り道で後ろを歩いてる人が同じ方向に曲がったり、視線が合ったりして」

声が揺れ、言葉が途切れる。

「……それだけで、何かされたわけじゃないんです。でも、怖くて」

藤宮は、すぐに言った。

「怖かったんは、事実やろ」

女の子の肩が、ほんの少し下がる。

東雲が、静かに言う。

「少し整理してもええ?」

女の子は、戸惑いながら頷く。

「今の話やと、“後ろに人がおった”“同じ方向に曲がった”って事実と、“見られてるかもしれん”って考えが、同時に出てきてる」

女の子は黙って聞いている。

「不安が強いときは、一番怖い考えが先に浮かびやすい」

断定はしない。
声の高さも変わらない。

「それが間違ってるとは言わへん。でも、他の可能性が見えんようになると、しんどなる」

女の子は視線を落とし、指を組み直す。

「……私、自分で自分を怖がらせてるんですか」

確認するような声だった。

藤宮は、横から言う。

「今日は、ここで一回落ち着けたらええ。全部決めんでええ」

女の子は小さく頷く。
その日は、それで終わった。

数日後、女の子はまた部室に来た。
表情は前より落ち着いているが、目の奥にはまだ緊張が残っている。

「……あれから、何も起きてないんです」

「それが、逆に気になるんやな」

東雲が受け取る。

「怖いのに、証拠が増えないのが、変で」

「そこに気づけたんは、大きい」

東雲は、それ以上踏み込まなかった。

女の子は、少し考えてから言う。

「……考えすぎ、なんでしょうか」

藤宮は、否定も肯定もしなかった。

「怖いって思ったんは、理由があったんやろ。それ自体は、間違いやない」

一拍置く。

「ただ、今も同じ理由で怖がる必要があるかは、今の状況見て考え直してもええ」

女の子は息を吐き、肩の力を抜いた。

具体的な対処を確認し、人の多い場所へ戻っていく。
別れ際、少しだけ明るい声で言った。

「……今日は、運が良かったです」

視線が、藤宮に向く。
意味を持たない、軽い視線だった。

女の子が去り、部室には二人だけが残る。

東雲が言う。

「……なんで、“気のせいちゃう?”って言わへんの」

藤宮は、床に視線を落とす。

「言われたことある」

少し間を置く。

「昔、怖いって言うたときに。考えすぎやって」

短く笑う。

「でも、怖かった事実だけは、消えへんかった」

東雲は黙って聞いている。

「もし、あの子に同じこと言うたら、もう何も言わんようになる」

藤宮は顔を上げ、東雲を見る。
言葉を足さない。

沈黙が落ちる。
窓の外で、風が鳴る。

十一月の空気は冷たく、静かだった。
その中で、二人の距離は、確かに少し近づいていた。